56人が本棚に入れています
本棚に追加
梅雨の時期が訪れ、真澄は濡れた紫陽花を見慣れた庭先で見つめた。
行き交う傘の先を生け垣越しに眺めながら、軽く咳をした。最近どうも調子が良くなかった。
こういう時、独り身はどうにも辛い。傍に誰も居ないことがこんなにも心寂しいものだとは思いもよらなかった。歳を取ったせいか、心が侘しいと感じることが増えているせいだ。
――心変わりしていたのは、自分だった。
真澄は自嘲した。あれだけあの男に薄情なことを言っていたのに、自分は心の底で変わった彼の心に怒りを感じていた。
何故来ない、傘は返してきたじゃないか。愛していると言ったじゃないか。言われた通りに詩も送った。恥も忍んで、自らの心を見せた。それなのに何の便りも寄越さないのは卑怯ではないのか。
日が沈み、肌寒さに真澄は着流しの襟元にかき集めた。縁側から立ち上がると、居間に戻ろう踵を返す。
「ごめんください」
玄関先から男の声。編集の喧しい声とは違う、落ち着いた低い声だった。
訝しみつつ、真澄は玄関へと向かう。硝子の向こう側には、長身の陰。傘を差していない。
框を降りて玄関を開く。ずぶ濡れの背広の男が立っていた。真澄の呼吸が止まる。
「雨が酷く、雨宿りさせていただけませんか」
真澄は黙ったまま男を見つめた。両唇が張り付いたようで、言葉が発せない。
「いけませんか?」
濡れた黒髪は以前よりも伸び、後ろになで付けられているようだ。
「いや……」
やっとそう言って真澄は脇にどける。
「幽霊でも見たような顔ですね。先生」
玄関戸を閉めた真澄に向けて、夜彦はそう言って笑んだ。
「もう来ないものだと思っていた」
冷たい戸に手を触れたまま、真澄は振り返らずに言った。
「先生、見たいって言いましたよね。青や白の紫陽花」
ちゃんと詩を読んだのだと分かった。気恥ずかしさに真澄は俯く。
「先生、俺と一緒に鎌倉に住んでください」
腕を引かれ、真澄は振り返る。久々に触れた掌は熱い。
「何を言っているんだ」
呆気に取られた真澄の顔が夜彦の目に映る。
「家業はどうするんだ。君もいい歳だろう。親のためにも早く――」
「先生!」
さっきまでの穏やかさが消え、夜彦の鋭い叱責に真澄は口を噤んだ。夜彦は眉を下げ、困った子供を見る大人の顔をした。
「俺はあの頃から何も変わっていませんよ」
泣きそうな顔が男らしい面立ちを消し、四年前に見た男の姿と重なる。
最初のコメントを投稿しよう!