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ゼロは何に対してもさほど興味を示さない、ということに、僕がことに気が付いたのはいつ頃だっただろうか。
本を読むのは好きだったけれど、それだって後から思えば、世界にさほど興味がないから、何となく空想の中を旅していたにすぎない。
それに明確に気が付いたのは、クロが死んだ時だったかもしれない。施設で飼っていた、真っ黒い小さな猫。人に構われるのがあまり好きではなかったクロは、自分からめったに手を出さないゼロによく懐いていて、本を読む彼の足元でよく丸くなっていた。
ある春の朝のことだった。
日中はだいぶ暖かくなってきていても、朝晩はまだぐっと冷える。珍しく早起きした僕は寒さに耐えかねて、温かいものでも飲もうとベッドから抜け出した。同じ部屋で寝起きしているゼロは施設で一番の早起きなので、その時には既に部屋にはいなかった。
ゼロにもお茶を淹れてあげよう、なんて思いながら、僕は廊下を歩いた。
火を使うために食堂に向かう途中、僕は広間に立ち寄った。ゼロがいたら声を掛けて、一緒に食堂に来てもらおうと思ったからだった。
扉を開くと、ゼロはまだ薄暗い部屋の中で、彼の定位置である窓際に椅子を置き、そこに腰掛けていた。
「おはよう、ゼロ。窓の側は寒いんじゃない?」
「……ああ、イチ。おはよう」
ゼロは緩慢な動きで僕に視線を寄こした。それから、一つため息を吐いた。
「……どうしたの?」
僕は不思議に思ってゼロに近寄った。いつもだったら、ゼロは僕が声を掛けたら微笑み返してくれた。何もないのに、人の顔を見てため息を吐くような人ではない。
近寄って初めて、僕はゼロの膝の上にクロがいることに気が付いた。丸まっていて動かない。眠っているのだろうか。
「珍しいね、膝に乗ってるなんて。寒いのかな?」
「……そうなのかもしれない。もう、すっかり冷たくなってしまったから」
「冷たい……?」
ピクリとも動かないクロに、僕はそっと触れてみた。いつも感じていた温もりは欠片も感じられず、代わりに重たいほど冷たい何かが指先から入り込んで、ずしりと胸にたまった。
「え、何で……何で? クロ、死んでるの……?」
「死んでる」
ゼロは落ち着いた声でそう言うと、そっとクロの背中を撫でた。
「俺が起きた時はまだ、生きてたんだ。珍しく膝に乗りたがるから、乗せてやったら満足そうに一声鳴いて、……それから、どんどん冷たくなっていった」
そう言うゼロの声は冷静で、淡々としていた。僕は混乱していて今にも泣きだしそうだったけれど、ゼロの次の言葉で、思考は何もかも停止した。
「……良いなぁ、クロ。羨ましい」
それは、初めて聞くゼロの気持ちだった。
誰のことも羨むことなく、何事にも執着しない。他の誰かがお金持ちに引き取られて温かく家族に迎えられるとき、ゼロは何の陰りもなく笑顔で送り出す。時々配られる甘いお菓子も、年下の子にせがまれると簡単に手放してしまう。そんなゼロが今、膝の上のクロに羨望の眼差しを向けている。
「……何、が? ねぇゼロ、クロの、何が羨ましいの?」
僕の声は固くて、途切れがちだった。冷静さを欠いた頭で、それでも必死に、僕はゼロを理解しようとしていた。
「……夜、眠るときにね。いつも思うんだ。このまま朝が来なければなぁ、って。目が覚めなければいいのになぁ、って」
ゼロは少し考えてから言った。
「クロはもう目覚めることはない。二度とこの世界には戻ってこない。それは、俺が求めている理想に、限りなく近いような気がする」
「理想って……ゼロ、クロは死んじゃったんだよ。もう二度と、冷たくなった体は温かくならない。気まぐれにすり寄って来ることもない。それが悲しくないの? ……寂しい、とは思わないの?」
そう聞くと、ゼロはクロから僕に視線を移した。
「……そんなこと、考えたこともなかった。だって、形あるものは全て、いつか壊れる運命なんだ。お菓子は食べたらなくなる。生き物はいつか必ず死ぬ。それは当たり前のことじゃないか」
「それは、……そうかもしれないけど」
当たり前のことを当たり前だと言っているゼロを、僕には否定できなかった。
「悲しくないよ。だっていつかは全て無くなるんだから。寂しくないよ。だって最初から、俺は何も手にしていないんだから」
「……ゼロはさ、死にたいの? 今のクロみたいに冷たく動かなくなるのが、君の望みなの?」
「別に、積極的に死にたいわけじゃないよ。でも、それを恐ろしいとは思わない……むしろ、その時を待っていると思う」
ゼロは静かにそう言うと、ふと微笑んだ。それはいつか見た、初めてチョコレートを口にした時と同じ、苦さを含んだ笑みだった。
「……イチ。俺はね、君にそんな顔をさせたいわけじゃないんだ。だけど、今君が俺の気持ちを理解しかねているみたいに、俺も君の気持ちの全てが理解できるわけじゃない。日々一緒に生活していて……それだけが唯一、少しだけ、辛いことだ」
その瞬間、僕の中であの日の幼い記憶が、今に繋がった。
あの時ゼロにはわからなかったのだろう。チョコレートが幸せの味だという僕の気持ちが。あの時ゼロが感じていたのは、ただ『甘い』という味覚だけで、幸福感だとかそういうものは、彼には理解できていなかった。
……そして、それを感じた僕のことを、きっと少し、羨ましく思っていた。それが、あの日と現在の笑みに含まれている、苦さの正体なのだろう。
僕はその時、ゼロにうまく言葉を返してあげられなかった。何を言うのが正解で、どうすればゼロにもわかるように気持ちを伝えられるのか、まったく自信がなかった。
しばらくの沈黙の後、先に口を開いたのはゼロだった。
「何だか、ごめんね。わかってるんだ。人と違うのは自分の方だってことくらい。今日という日を繰り返した先で、いつかは君とも離れる時が来る。その時まで、隠しておければよかったんだけど」
「…………それじゃあ、寂しいよ」
さらに少しの沈黙を置いて、僕はようやく口を開いた。
「ゼロ、僕はさ。君のことを、全部とは言わないけど、ちゃんと理解しているつもりだった。でも違ったんだね」
話しているうちに、僕が今すべきことが、少しだけわかったような気がした。そうしなければ、僕はこの友人を失ってしまうことになるだろう。
「僕は、もっと君のことを知りたいよ、ゼロ。君は僕にとって唯一無二の、大切な友人だ。お互いの全部を理解し合えなくたって、それはこれからも、ずっと変わらない。何もかも分かり合えるから、僕は君と一緒にいるんじゃないんだ、ゼロ。君だってそうだろう?」
そう言うと、ゼロは少しだけ驚いた顔をした。そんな風に考えたことはなかった、と言いたげな顔だった。
「……確かに。君が俺とは全然違うことなんて、とっくの昔に分かり切っていたことだった。でも、いつか離れる時が来るその瞬間まで、君から距離を置こうと思ったことは一度もない」
その言葉だけで十分だった。
ゼロは思いやりの気持ちがないわけでも、愛情がないわけでもないのだ。今膝にのせているクロのことも、ゼロはゼロなりに可愛がっていた。それに、今日まで僕に辛い気持ちを隠していたことだって、僕のことを思いやってくれていたからに他ならない。
「ゼロ、先生を起こしに行こう。クロが死んじゃったことを知らせに行って、それから、クロを庭に埋めてあげよう」
そう言うと、ゼロは頷いて、大切そうにクロを抱えて立ち上がった。
ちょうどその時、眩しいほどの光が窓から差し込んできた。
クロが居なくなった世界でも変わらずに朝陽は美しく、それが何だか無性に悲しくて、僕は泣いた。ゼロは何も言わなかったけれど、僕が落ち着くまでただ黙って、隣に立っていてくれた。
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