チョコレート

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 あれから、もう随分と時間が経った。  結局、僕らは施設を出てからもこうして生活を共にしている。  ゼロは今でもあんまり物事に執着しないし、本を開いては空想の世界へと旅に出る。けれども、僕から離れていかないのは、少なくともこの生活を選んでくれているからだと、僕にも理解できている。正直、家に帰ったら何も告げずにゼロが居なくなっているのでは、と不安に思わない日はないけれど。  今日もそんな日だった。だから、彼のためにチョコレートを作った。  「……幸せをあげたい、って、どういうこと?」  ゼロは微笑んだまま、僕に問いかけた。  僕はその問いに、すぐに言葉を返した。作りながら繰り返し繰り返し頭の中で考えていた、正直な気持ちだった。  「僕はさ、ずっと、ゼロに自分が作ったチョコレートを贈るのが怖かった。幸せって何だろうって、チョコレートを食べる度に君が考えてしまうんじゃないかって思ったから。……僕がチョコレートを幸せの味だなんて言葉にしたことで、僕の幸せを君に押し付けてしまうような気がして」 「それは……まあ、否定はしないけど」 「それを考えている時間がね、君にとっては苦痛なのかもしれないな、って。甘いチョコレートを食べていても、心は苦さに溢れているかもしれない……そう思ったらさ、何だかチョコレートを、君に食べさせる気にはならなかったんだ。だから、今まで家に持ち込んだことはなかったんだけど」 「……けど、何か考えに変化があった?」  ゼロは確信を持ってそう尋ねてきた。  「うん」  僕は頷いた。  「僕はね、君に僕の感じている幸せを分けてあげたいな、って思ったんだ。いつかクロを見送った日、あの子を羨ましいと言った君が、まだこうして一緒に生きてくれていることが……仕事から帰って家の扉を開けた時、部屋に明かりが点っていることがどんなに嬉しくて幸せなのか。その気持ちに味があるとするならば……」 「……それはチョコレート以外にあり得ない」  ゼロは一応、納得がいった、という顔でチョコレートを見た。  「なるほど、これは一つの幸せの形でもある、ということか」 「うん。君にとっての幸せが同じ形、同じ味とは限らないけど……僕の幸せの欠片には違いないから。だから、君にあげる」  ゼロはしばらく黙って箱の中のチョコレートを見つめていたけれど、急に立ち上がるとキッチンに向かい、小さなナイフを持って戻ってきた。そしてソファに座り直すと、丸いチョコレートをためらいなく半分に割った。その片方を自分の口に放り込み、残った半分を僕に向けてずいっと差し出してくる。  「え、何? ……くれるの? 僕から君へのプレゼントなのに?」  ゼロはこくこくと頷いて見せた。困惑してそれを受け取れずにいると、ゼロは先にチョコレートを飲み込んでしまって、僕が淹れたコーヒーを一口、口に含む。  「……俺は、自分の幸せというものに味や形があるとするなら、それに一番近いのはこのコーヒーだと思う」 「え?」  ゼロの口から、自分の幸せという単語が出てきたことに驚いて、僕は思わず聞き返した。  「コーヒー……?」 「そう。……イチが、いつも必ず、俺の分もコーヒーを淹れてくれるだろ? そうすると、俺は……何て言うのかな、ホッとするんだ。ここで、君と一緒に過ごしていることを思い出させてくれて、胸に温かさを感じる。その安心感みたいなものが、幸せなのかなって。それを思い出すきっかけになるのが、コーヒーなのかな、と思ってる」 「それ、いつから……?」 「気が付いたのは、ここで君と暮らし始めてしばらくしてから。君が一緒だとおいしいのに、一人で飲むコーヒーって味気ないな、と思った時に」  ゼロはそう言うと微笑んだ。  「幸せって、そんな何気ないものなんだ、ということでさえ、俺は君に教えてもらったんだ。少なくとも今は、それを手放したくないから、まだ死にたくないよ。君にも居なくなって欲しくない。そんなことが起きたらきっと、悲しいし寂しいよ。……これって、俺が君の気持ちを少しは理解できた、ってことなんじゃないのかな」  ゼロはそう言うとマグカップを置いて、再びチョコレートの入った箱を僕に差し出してきた。  「だからさ、これは半分、君にあげるよ。せっかく一緒に居るんだから、一人で食べても仕方ない。君の幸せを分けてもらうんだから、君と共有できなきゃ。一緒にコーヒーを飲むみたいに、何気なく二人で笑いあうみたいに……そうやって分け合うことができるのが、幸せなのかなって思うから」  どうかな、と首を傾げるゼロの言葉を噛みしめて飲み込んで、ようやく僕は差し出されたチョコレートを摘まむと、それを口の中に放り込んだ。  「それ、すごくおいしかった。また作ってよ。今度はちゃんと、二人分」  二人分、というところを強調したゼロの言葉に、僕はようやく、今日チョコレートを目にした時のゼロが、苦い顔で微笑んだ理由を理解した。 「うん……うん。また食べよう。コーヒーも淹れるからさ、二人で一緒に」  僕がそう言って笑うと、ゼロは何の陰りもなく笑顔を見せた。その瞬間、幸せをあげたかったはずの僕は、同じだけの幸せを彼から受け取ったことに気が付いた。  半分に割って分け合って食べたチョコレートは、今までで一番、幸せに満ちた味がした。                        
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