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「少し食えば大丈夫な筈だから」
彦三郎は淡々と言う。努めて無機質に言っていることが分かって、ただ頷き返すことにとどめた。
「どうぞ」
利き手とは反対側の手を、握手をするみたいに彦三郎に差し出す。
彦三郎はその手にそっと触れると「本当にいいんだな」と聞いた。俺は「いいんだよ」と答えた。
彦三郎が取った手に力が入るのが分かる。
それから、手の甲に彼の唇がふれて、そのが歯が皮膚に当たったところまでは状況が理解できた。
子供の歯は小さいとか、そんなことを考える間もなく、激痛がした。
悲鳴だけはと思って歯を食いしばるが、反射的に引いてしまった手を、彦三郎がつかんで引き戻す。
この時の彦三郎の顔が、俺の手にかぶさる様にかみついていたため、よく見えなかったのはラッキーだった。
どんな表情をしていても、俺は多分ショックを受けてしまっただろう。
「ごめん」
くぐもった声は、口に何かを含んでいるからだろうか。それとも彦三郎が、別の何かになりかかっているからだろうか。
けれど、それが全くの見当違いだということがすぐに分かった。
「何、泣いてるんだよ」
俺が声をかけると彦三郎は、一瞬ビクリと震えると、少し顔をあげた。
「兄さんも泣いてるじゃねーか」
「痛たいんだから、当たり前だと。ほらとっとと済ませろ」
俺の涙は、単に肉が引きちぎられる痛みで出ただけだった。
ジュルジュルと血を啜る音が聞こえる。
というかこれは血だよな……。細かいことを考えるとグロすぎて駄目だ。
けれど、何も考えないと、痛みが酷く感じてしまう。
ぶちぶちと何かが切れる音がして、ようやく彦三郎は顔をあげた。
口元には血が付いていて、何故だかこちらが居たたまれない気分になる。
すぐに彦三郎は口を拭う。自分自身の方口に口を押し付けていたが、今日の彦三郎の服が濃い色のTシャツで良かった。
そこでようやく、自分の手当てが必要なことに思い至った。
といっても、何をすべきかはあいまいだ。
そもそもこの家に救急箱というやつはあるのだろうか。
ジンジンと手は痛んだままだ。
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