10-1

5/8
前へ
/113ページ
次へ
「少し食えば大丈夫な筈だから」  彦三郎は淡々と言う。努めて無機質に言っていることが分かって、ただ頷き返すことにとどめた。 「どうぞ」  利き手とは反対側の手を、握手をするみたいに彦三郎に差し出す。  彦三郎はその手にそっと触れると「本当にいいんだな」と聞いた。俺は「いいんだよ」と答えた。  彦三郎が取った手に力が入るのが分かる。  それから、手の甲に彼の唇がふれて、そのが歯が皮膚に当たったところまでは状況が理解できた。  子供の歯は小さいとか、そんなことを考える間もなく、激痛がした。  悲鳴だけはと思って歯を食いしばるが、反射的に引いてしまった手を、彦三郎がつかんで引き戻す。  この時の彦三郎の顔が、俺の手にかぶさる様にかみついていたため、よく見えなかったのはラッキーだった。  どんな表情をしていても、俺は多分ショックを受けてしまっただろう。 「ごめん」  くぐもった声は、口に何かを含んでいるからだろうか。それとも彦三郎が、別の何かになりかかっているからだろうか。  けれど、それが全くの見当違いだということがすぐに分かった。 「何、泣いてるんだよ」  俺が声をかけると彦三郎は、一瞬ビクリと震えると、少し顔をあげた。 「兄さんも泣いてるじゃねーか」 「痛たいんだから、当たり前だと。ほらとっとと済ませろ」  俺の涙は、単に肉が引きちぎられる痛みで出ただけだった。  ジュルジュルと血を啜る音が聞こえる。  というかこれは血だよな……。細かいことを考えるとグロすぎて駄目だ。  けれど、何も考えないと、痛みが酷く感じてしまう。  ぶちぶちと何かが切れる音がして、ようやく彦三郎は顔をあげた。  口元には血が付いていて、何故だかこちらが居たたまれない気分になる。  すぐに彦三郎は口を拭う。自分自身の方口に口を押し付けていたが、今日の彦三郎の服が濃い色のTシャツで良かった。    そこでようやく、自分の手当てが必要なことに思い至った。  といっても、何をすべきかはあいまいだ。  そもそもこの家に救急箱というやつはあるのだろうか。  ジンジンと手は痛んだままだ。
/113ページ

最初のコメントを投稿しよう!

262人が本棚に入れています
本棚に追加