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会社を辞めたのは五月も終わりに差し掛かった頃だった。
別に、首になった訳でも、希望退職制度を使った訳でも無い。
ただただ、無理になってしまって会社を辞めてしまっただけだ。
転職活動もしていないし、実家に帰ってきてぶらぶらしている。
昼夜逆転まではいかないけれど、宵っ張りの生活をしているし両親には「早く転職しろ」と急かされている。
だけど、自分が何をやっていいのかなんてわからなかったし、また会社という場所に行けるとも思えなかった。
だから、もう絶対に無理となるまで何もしたくは無かった。
仕事に関する全てのものを忘れてしまいたかった。
◆
「お前、来週から本家に行ってもらうことになったから」
そう言われたのは、八月にちょうど入るころだった。
親父の地元は田舎にある比較的でかい家で、いまだに本家だ分家だと言っている。
「ちょっと待てよ。なんで俺が行かなきゃいけないんだよ。
お使いなら母さんが行けばいいだろ」
俺の反論に親父はため息を一回ついた後「そうじゃない」と短く言った。
「どうせ、転職活動も禄にしていないんだから、本家の手伝いをして来いってことだ」
もうそういうことになっているから。と言い張って親父はこちらの意見を聞きもしない。
本家といえば糞がつくくらい田舎にあって家族の人数も多くて、正月に挨拶に行った時にはひっきりなしに誰かが来ていた。
明らかにご近所づきあい的なものがあるに決まってる。
とにかく人と関わるのが嫌で嫌でたまらないのだ。
そんな中でそんな田舎の手伝いなんて、ありえない。
「無理だよそんなの……」
無理じゃない。しゃきっとしろと親父に言われて、何を言い返しても無駄だと悟る。
自分で本家に電話して交渉するなんて芸当俺には出来っこないので、諦めて田舎に行くしかないのだ。
引きこもりになりたい。
バカみたいな思考だと自分自身でも思う。
だけどそう思わずにはいられなかった。
◆
出発する前、親父に母さんお軽自動車で行くようにといわれた理由はついてみて分かった。
駅から遠い上に、近くにバス停すらない。
二十分以上歩いた場所にあるバス停も一日二本。多分学生の通学用なんだろうという時間にしかない。
屋敷は山の際ギリギリに建っていた。
周りに家はないし意味があるのかわからない高い壁が屋敷全体を囲んでいる。
白壁は手入れが行き届いているのか、白く反射していて目を細める。
いかにもな日本家屋は今まで住んでいた場所ではもう、あまり見ない。
そのちょうど真ん中に真っ黒に塗られた大きな門が開いていた。
少し古ぼけた表札には「門脇」という自分と同じ苗字が掲げられている。
恐る恐る、門をくぐると玄関らしき引き戸まで少し距離がある。
日本庭園というほどごつごつとはしていないが、普通のうちの庭とは違う植物が植えられている庭が目に入る。
そもそも、一般家庭にはここまで大きな木がぼこぼこ植わってはいないだろう。
これが金持ちの家ってやつなのだろうか。
きれいに咲いているピンク色の花を眺めながら玄関へと向かった。
けれど、玄関の前に立って、ドアチャイムが無いことに気が付く。
「これ、どうするんだよ」
普通、ピンポーン、はーい、ってその家の人間が出てくるものだろう。
それが無いのだ。どうしたらいいのか分からず、それで仕方がなく軽く引き戸をノックしてみる。
当然音は響かないし、家の中にいるだろう親類の反応も無い。
スマホから連絡してみようかと一瞬思ったが知らない番号からかかってきた電話を取るとは思えなかった。
仕方がなく、息を吸い込む。
「すみません」
小さく自分の声が響くけれど、やはり反応は何もない。
そっと手を伸ばして玄関の引き戸を開く。
鍵はかかっておらずカラカラと軽い音を立てて引き戸が開く。
鍵がかかっていてどうにもなりませんでした。という言い訳はこれで使えなくなってしまった。
仕方が無いので、玄関の中を覗く。
そこもいかにも田舎の玄関と言う感じで薄暗くて広い。
誰か……と探すために視線をきょろきょろと左右に送ると変なものが見える。
神社か何かから、貰ったものなのだろうか。お札のようなものがべたべたと貼られた箱が下駄箱の上に置いてある。
ここら辺の風習なのだろうかと思う
実家では正月の飾りですら今はもう飾ってはいないので、とても新鮮だ。
「あのー、すみませんー。
どなたかいらっしゃいませんか?」
声はかけるが、家は、シーンとしていた。
けれど、中でガタンという大きな音がして、子供の高い声で「隣の家で話をしてください」と言った。
留守番の子だろうか、かわいい声だった。
「ありがとう」
コミュニケーションが苦手な自覚はあるのに、なぜかすんなりと、お礼の言葉が出た。
仕方が無く、門まで逆戻りして辺りを見回す。
横なんて無い。
かろうじて、横と呼ぶには遠すぎる場所にもう一軒家があった。
そこの表札も「門脇」で、子供の言っていたのはここかと思う。
◆
「良くきてくれたねえ」
ニコニコと親族の男性が言う。
「間違えて、あっちの家に先にいってしまいました」
俺が言うと何故かぎょっとされる。
何か言い方が悪かったのだろうか。それともとんでもない間違いをしてしまったのだろうか。
「で、でも子供が教えてくれました」
意味が分からず、慌てて付け加える。
「とても礼儀正しい子でしたよ」
とにかく褒めておこうと思った言葉だったのに「そ、それで会ったのか?」と妙に硬い声で言われる。
「いえ」
何故そこまで硬くなっているのかが分からなかった。
けれど親族の男は、大きく息を吐きだすと「そうか」とだけ言った。
それから、これからする話は他言無用で頼むと言われた。
「君に頼みたいのは、ある方のお世話だ。
なに、少しばかり風変りな方ではあるが、それほど大変ではないはずだ。
住み込みで、身の回りの世話をしてくれていればいい。」
介護か何かの話をしているのだろうか。
あまりに自分とかけ職種の様に思える。
「あの俺、介護とか子育てとかそういうのは……」
それこそ、何故俺、というものだ。
「まあ、頼みたいのは、子供……。
ああ、子供ではあるんだが。」
おじさんは、べったりと作り笑顔を浮かべながら言う。
「育ちはしないし、育ってはいけないんだよ」
なぞなぞの様な事を言う親戚を思わずまじまじと見返してしまう。
けれど親戚は神妙な顔をして、こちらを見つめ返すだけだ。
「会えばわかる」
それだけ言うと、それ以外は何も説明されない。
こういう時に、「じゃ、帰ります」と言えれば、そもそもこんなところに俺はいない。
だからどうしようもなく、なんでこんな事にと思いながら、親戚の言うことに従う他無い。
せめて、詳細を聞かなければ親に、聞いたけれど明らかに俺には無理だという言い訳すらできないと考えてしまう時点で、もう本当に駄目なのにどうにもならない。
着替えの詰まったカバンを持ち上げて、案内するよという親戚の男の後を付いていくしかないのだ。
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