6話 傾いた家

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6話 傾いた家

 洗濯機から取り出したシャツには、まだ血の跡が薄く残っている。しくみは、何度も何度も手洗いでそれを落とそうと試みたが、いくら洗っても茶色い染みは消えなかった。  二階にある和恵の部屋を通ってベランダに行き、洗濯物を一つ一つ干していると、崖下に住宅街が見渡せた。雲一つない空の下、数多の家々が並んでいた。  みんなあの家を基地にして、強くこの世界を生き抜いているのだろうか? 家族の力を借りて、あるいは自分の力のみで。社会に出たときに感じた、あの重力のようなもの。過労のせいなのか、背負った責任のせいなのか、人間関係の諍いからなのか、特定はできないけれどとにかく重たくて重たくて仕方がなかった。 「なんで背負って歩けるんだよ……」  いつしか洗濯物を干すしくみの手は、止まってしまう。 「ああっ……!」  突然、下腹部が傷みだして、しくみは腹を抑える。自らの身体に生じた異変に戸惑っていると、胸がつっかえるような痛みがあり、次に悪寒が走った。 「なんだこれ」  眩暈がする。しくみは、そのまま沈み込んだ家の傾きのまま、柵の向こう、広がる景色の先へ落っこちていってしまうような錯覚を覚えて、咄嗟に部屋の中へと倒れ込んだ。  畳張りの部屋に座り込み、大きく息を吐いて気持ちを落ち着けていると、玄関のドアを乱暴に叩く音が聞こえてくる。いくら無視してもその不快な音は収まらず、冷や汗を流し、苦痛に顔を歪めるしくみを執拗にせっついた。 「豊原さーん! 豊原さん! いないのー!」  癇に障る、人を食ったような話し振り。  頼りない足取りで、一歩一歩階段を降りていき玄関の戸を開けると、例の地主の男が待ち構えていた。黒地のスーツを身に纏い、右手に大瓶を包んだ風呂敷を持っている。今日のスーツはグッチとまた高そうなものを着ているのだけれど、弛んだ身体と、ぼさぼさの長髪が相まって着こなしきれていない感じがした。 「えっと。今、忙しくて……」  話の終わりを待たずに男は、その大きな身体をずいっと押し込み、豊原家の敷居を跨いで中へと入ってくる。横切る時、今まで嗅いだことのない種類の甘ったるい香水の匂いが漂ってきて、しくみは、押し留める言葉も忘れて顔をしかめた。 「今日は、じっくり話をしようと思ってな。土産も持ってきたんだ」  上がり框に腰掛けて、風呂敷の中から一升瓶を取り出す。銘柄は魔王、日頃安酒しか口にしないしくみが、見たこともない酒だった。 「親、いないんですよ。海外旅行行ってて、しばらく戻ってこないんで……」 「なら好都合じゃない。いずれこの家を相続するのは君なんだからさ。君が決めりゃいいんだ」  下腹部の傷みのせいかしくみの思考は思うようにまとまらず、言葉が出てこない。「お邪魔するよ」と言って上がり込む男にされるがまま、しくみは彼を家へと上げてしまった。  男は、ここが我が家でもあるかのように遠慮なくリビングへと入ってきて、和恵がいつも座っている席にどかっと腰を降ろした。 「まぁ、小難しい話の前に一杯やろう。あっ、ツマミはない?」  しくみのしかめっ面など意に介さず、男は目の前に置かれたコップになみなみと焼酎を注いでいく。 「乾杯!」  コップを合わせず、そのまましくみは一気に焼酎を呷る。体内に熱が広がり、じくじくとした痛みがふっと和らいだ。 「朝っぱらから飲む酒は最高だな。ほら、もう一杯」  とにかく今はこの場がしのげればいいと、しくみは杯を重ねる。適当に酔っぱらって、弱気な自分を追い払い、暴れて、こんな男など追い出してしまえばいい。 「そういやお互い、自己紹介がまだだったな。俺は条ヶ崎仁。よろしく」 「豊原しくみ」  しくみの顔から片時も目を離さず、じっと威圧感を与えてくる条ヶ崎に呑まれまいと、しくみは睨みつけながら名前を名乗る。 「若いよな。幾つなの?」 「秘密っすね」 「ははっ、謎めいてるぅ。俺は四十四」  楽しそうに笑ってから仁は、焼酎を飲み干して新たに注ぐ。 「結婚してんの?」 「してないです」 「そのほうがいい。独身万歳だ。俺ぁ去年、離婚してな。バカ高い慰謝料持ってかれるは、セフレには逃げられるは、散々な目にあってよぉ。ったく、結婚ってのはなんだ? なにかの罰ゲームかなにかか? 俺になんの利益を与えてくれた? ほんの少しの安らぎはありはしたが、高くつきすぎた」  胸の内に溜まり積もっていた話なのか仁は、堰を切ったように話し始める。 「まぁ、ぴくりともチンポに響かない女と、うるせぇガキが家ん中からいなくなってくれて本当に良かった。あのガキ、こっちの都合なんてお構いなしで、朝っぱらから夜までぴぃぴぃ泣きやがってよ。誰に似たんだあの分からず屋。どうせあんな聞かん坊じゃ、落ちこぼれるに決まってる。いらねぇよ」 「小さいんだから仕方ないでしょ」 「仕方ないで寝不足じゃなくなるんなら、いいけどな。寝不足は正常な判断力を奪う。俺のビジネスの邪魔をする権利はあのガキにはないよ」  眉を顰めるしくみなど意に介さず、屈託なく仁は笑って続ける。 「まぁ、高い勉強代払わされたが俺は学んだよ。興味本位で結婚してみたけどよ、家族なんぞに大金支払う奴はバカだ。費用対効果が悪すぎる。跡継ぎは欲しいけどなぁ……結局、大金かけて育てて、ろくでなしのクズに育っちまったらどうする? やり直しが効かないなんて、リスクが高すぎる」  客観的に見て<ろくでなしのクズ>とは、働きもせず、母に暴言を吐き、日がな家の中で王様を気取っている自分のような人間のことを言うのだろうとしくみは思った。  仁の発する言葉への憤りや不愉快さ。それとは別の想いが、しくみの内に沸いて来る。焼酎をちびりと飲んで、悲しげに視線を落とす。 「そんなに子供を養うって大変ですか?」 「一度ざっと計算したことがあるんだけどな。それなりの学校に入れて、それなりの飯を食わせて育てたら、大きくなるまで五千万持ってかれちまうんだよ。そんだけありゃあどれだけ自分の人生を豊かにできる? 俺ならそれだけの金があれば、何倍もの利益を生み出せる」 「俺には到底、そんな金は稼げそうにないな」  しくみは視線を手元に落として、コップに映る痩せこけた自分の顔を見る。 「若いんだから、そんなこと言うなよ。体力と意欲と自由がありゃあ、金なんてどうとでも稼げるもんさ」 「体力も意欲もないっすね。自由だけはあるんだろうけど」  鎮まっていた胸の不快感が再び蘇ってくる。しくみは、大きく息を吐いて、胸を抑えた。 「それに第一、自由なんてあったって、俺はどこにも行きたくないんだ」  二人とも早いペースで飲み続け、昼過ぎには一升瓶は三分の一ほどになっていた。しくみも仁もすっかり顔を赤くして、怪しい目付きでお互いを見るでもなしに酒を飲む。 「それで本題に入るけどよ。この家、危ないんだろ?」  しばし続いた沈黙を、仁が破る。 「危ないってどういう意味で?」 「倒れそうだろ、この家」  しくみは、大きな亀裂が壁に走っているのを見つける。細かいひびはそこらにあるが、ここまで大きなものは昔はなかったように思う。柱にはこの家の傾きを測るためにくくりつけた、五円玉がぶら下がっている。 「知り合いの建築士に計測してもらったんだ。何回も見てもらったから、確かだよ」 「不法侵入でもしたっすか?」  酒のおかげかしくみの顔に浮かんでいたナイーブな面持ちはすっかり消えて、ぎらついた目で不敵に笑う。 「いや、この下にある駐車場から測ったんだよ。あそこの和田さんも、うちから土地借りてるからな。許可をもらって、そこから測った」 「それで?」 「物権的妨害予防請求権って知ってるか?」  たどたどしい口調で仁が口にした法律用語を耳にして、しくみは眉間に皺を寄せる。 「例えば俺の家の敷地に、倒れ掛かった木が生えてるとする。そしてそのすぐ横に隣の家がある。そしたら、隣の家に住んでる人間は、いつその木が倒れてくるのか……不安になるよなぁ? 迷惑極まりない」  仁は、テーブルに肘を突いた自分の右手を、倒れ掛かった木に見立てて徐々に斜めに倒していく。 「迷惑な木は、切るなり植えなおすなりしなきゃダメだろ」  言うと突然、腕をばたんと食卓に叩きつけて、けたたましい音を鳴らす。 「うるせぇよ!」  芝居がかった恫喝に負けじと、しくみが声を荒げた。  仁は、悪意のない笑みを浮かべて「悪い悪い」と謝ってから、話を続ける。 「だから隣の家に住んでいるそいつは、倒れかけた木について訴える権利があるってわけだ。まぁ俺の家に、そんな根っこが腐ったもんは一つもないけどな」  いつか来たリフォーム会社が見せた、風呂場の下の腐った土台の写真。あれは他人の家の写真だったけれど、この家が傾いている原因として、そうなっていることが自然なようにしくみにも思えた。 「それでだ。この下に駐車場を持つ和田さんが、この家のことを知ったらどう思う? 自慢のワゴンがペシャンコに潰されちまうどころか、倒れ方が悪きゃ和田さんの家だって危ないぞ」  いよいよ痛みが酷くなってきたのか、腹を鷲掴みに押さえながら、しくみは仁を睨み据える。 「和田さんに、言ったんですか?」  冷や汗を流しながら声をひねり出すしくみを、仁は舐めるように眺め見てから、手を叩いて笑った。 「まだ言ってないって。いつでも言えるけどな。なんなら和田さんの裁判の手伝いだってしてやる。家を建て直せないなら、取り壊さなきゃな。ほら、他人様に迷惑かけちゃダメだろ!」  美味そうに焼酎を飲み干して、満足げに息を吐く。 「そうすりゃ俺も、心置きなくこの土地を売っぱらえるってわけだ! 知ってるか? この邪魔なタテモンさえなきゃ、俺はな。俺の土地を勝手に売っちまえるんだ。誤解してるようだけどな、あくまでもこの土地の所有者はお前達じゃなくて俺なんだよ!」  黙り込んだしくみを前に、仁は、アッアッアッ、と常軌を逸したような調子で高笑いをあげる。ひとしきり笑っていたかと思うと最後に、 「あー、勝った」  と、言って焼酎を自らのコップに注いだ。  飛行機が低空を飛んでいったのか、風を巻いて切る轟音が家の外から聞こえてきて、立て付けの悪い黒ずんだ木窓がぶるぶると震える。 「まぁ、嫌ならとっとと買い取るなり家賃の値上げを受け入れてくれ。今、新しい事業に取り掛かっててな。こんなくだらない問題に関わってる暇はないんだよ」 「そういえば、水替えろって言われてたな」  男は、しくみの言葉など少しも気にせずに、身振り手振りを交えて話を続ける。 「なぁ。俺の会社が手を伸ばそうとしてる仕事、聞かせてやろうか。世の中ジジイババアばかりだから経営するなら介護の仕事が旨いだなんて言う奴もいるが、生きた人間を管理するってのは、土地を管理する以上に面倒なもんだ。ほら、虐待だなんだって訴えられてるところも多いだろう? だから俺は、地下にカプセルホテル風の合理的な墓場を山程作って、そいつらが死んでから金を頂戴しようと思ってるんだ。まぁ墓場、って言うんじゃイメージが悪いからエンジェルベッドだとか適当にそれっぽい呼び方をつけてな」  誰かに気持ちを伝えたいというわけではなく、ただ己の情念を叩きつけようとするその様は、テレビや母親に当り散らすしくみとどこか似ていた。 「死体は場所を取らない上に、文句も言わないから一坪当たりの単価が抜群にいい。それに調子に乗って昭和に増えすぎた連中が、これからどんどん死んでくれる。病死、事故、自殺――なんでもいい。何もしなくとも客は、増えるばかりってわけさ。ははっ、まぁ施設が老朽化したらどうするんだって問題はあるんだけどよ。その頃にはもう、俺はお陀仏してるから関係ねぇ。せいぜい稼いだ金で地獄の沙汰でもひっくり返してやるさ。うん。まぁこれがビジネスってもんだ。知恵を使って、人が欲しがってるものを見つけてやる。そして出来るだけ早く、コストを掛けずに作っちまう。その安普請の商品ができたら、パッと見が素敵なもんでコーティングして、必要だ必要だと煽って高く売りつけて逃げ切る。分かるだろ? みんな手近な所で、家族の死体を捨てたがってんだよ。建前は、色々とあるけどな。その気持ちにちょっと付け入るだけでいい。なっ? こいつは、儲かりそうな話だろう。土地さえありゃあ、死体を金に換えられるんだ。ははっ、そうだなぁ。まぁ、あんた達が出て行ったら、ここもエンジェルベッドにしちまうのもいいかもしれないなぁ」  ゴン、と鈍い音がする。  夢中になって語り続けていた仁の後頭部を、口が細くなった花瓶を棍棒のように握り締めて、思い切り殴りつけたのだ。  割れたガラスと黄白ピンクのスイートピーの花々が飛び散った床に、仁は仰向けになって倒れ込む。 「なんで、俺は……」  横たわる仁の傍らにしくみは立ち尽くし、ぎゅっと両手で顔を覆った。  しくみは、げぇげぇとトイレで吐きながら、仁の胸に手を当てた時に感じた、止まった心臓の不気味な感触を思い出す。吐瀉物には血が混じり、いくら吐いても気持ち悪さは収まらない。  リビングへ戻ると、やはりそこには仰向けで倒れている仁がいる。流血はしていないが、ぴくりとも動く気配がなく、その顔は青白かった。  花瓶に入っていた滑り気のある水が、仁を濡らし辺りに飛び散っている。それは徐々に、まるで自分の意思でも持っているかのように、家の傾斜に沿ってリビングの奥へと身体を伸ばしていく。 「お母さん」  自分の部屋に閉じこもり、膝を抱え布団に包まり座り込む。しばらく震える手で握り締めたスマートフォンを見つめていたが、乱れた心が静まることはなかった。  ゆらりと立ち上がったしくみは、リビングを省みずそのまま爪先が破けた靴を履いて、外へと出て行った。  太陽のひかりを透かした満開の桜が、大きな傘となって庭を覆っている。心地よい風が吹きひらひらと花々は揺れ、火照ったしくみのからだからアルコール臭を拭っていく。  濃厚な春の匂いが、鼻腔をくすぐった。 「きれいだな」  呆け顔で呟くしくみの瞳が、潤んでいる。なんでこんなことになってしまったんだと悔いる反面、ついにこういうことになってしまったか、という諦念もまた胸に湧いた。しくみの自己嫌悪と、外側にあるもの全てへの怒り、嫌悪感。家の中で喚き散らして叩きつけていたそれらは、表現する場所ややり方を一つ踏み外せば犯罪行為となる。崩れかけの危うい境界線上に自分はいる。そんな気がしていた。だから泥酔して暴れて警察に捕まった時など、記憶はなくともどこか納得できる面があった。 「やっちゃったんだな……」  泣き出しそうな顔で、しくみは呟いた。  錆び付いた門を開けると、ぎぃと鉄の擦れる音が鳴った。しくみは、春風に誘われるようにゆらゆらと庭を出て、崖っぷちに建っている豊原家を眺めながら、階段を降りて行った。崖から突き出た部分を支柱に支えられたその家は、傍目には分かりにくいが、外からでも計測したらバレてしまうくらいには傾斜がかっているらしい。  階段を下りきると、和田さんの家の駐車場が目に入った。豊原家が倒れこんでくれば、そこに停まっている車などぺしゃんこに潰れてしまうだろう。  住宅街。家々から伸びる影の中に入ると、とたんに肌寒くなる。しくみは影を避けて、ひかりがあるほうを選んで歩いていった。  大通りに出て、ひかりに包まれた道を進んで行くと、交番が見えてくる。 「あの」  しくみは、交番の前に立つ若い警察官に声をかける。しくみも歳の割には童顔だが、彼もまた幼く、制服を着ていなければ高校生に見られかねない風貌だ。 「どうしました?」 「俺、人を……」  何かを言いかけて口ごもる。青ざめたしくみを心配そうに見つめる警察官に対して、黙り込んでしまったしくみは、 「公園って、この辺にあります?」  と、無理に話題を捻じ曲げて、道を尋ねた。  しくみは警察官が教えてくれた道筋を辿り、毎年花見をしている公園へと歩いていった。  そこはとても大きな公園で、辺り一面桜の木々が咲き誇っていた。流れ落ちる桜の花びらはゆるやかに、多くの人々がレジャーシートの上に座り込んで、花見に興じている。  どこもかしこも人がいて、後から来たしくみが座り込めるようなスペースはもう残っていない。ただただしくみは、花見の喧騒の中を所在なさげに漂っていた。  時折舞い落ちる花びらを取ろうと手を伸ばすが、宙を切るだけで掴み取れない。  公園を出ると、大きな道路が広がっていて、何台もの車が行き交っている。しくみは、死のうと思ってその場所へ駆け出そうとしたが、どうしても一歩踏み出せなかった。やはりここでもしくみは、立ち尽くすことしかできなかった。  腹の鈍い痛みがぶり返して来たので公衆トイレへと向かうが、花見客が長蛇の列を作って入口を塞いでいた。  腹を押さえて公園の喧騒から逃れ、しくみは、少し歩いた所にあるパチンコ屋へと入っていった。列になってパチンコ台の前に座る人々の間を小走りに、トイレへと向かう。  体内にたらふく流し込んだ焼酎を、胃液と共に全て吐き出してから、改めてパチンコ屋の店内を眺めると、しくみは、客のほとんどが老人だということに気が付いた。ハンドルを握り締め、煌びやかな電飾に彩られたパチンコ台を熱っぽく見つめる痩せ細った老婆。ぼろぼろの身なりで、空っぽになった箱の底を撫でる老人。どっしりと腰を下ろし、ただひたすらに玉を弾き出しては、その行く先を見つめる。 「ふざけんじゃないよ!」  しくみの横にいた老人が、怒声を浴びせて思い切りパチンコ台を叩いた。その老人のぎらぎらとした目付きは、どこかしくみと似たところがあって、怨み言をぶつぶつと呟きながら傷めた手をさすっている。 「すいません。台は叩かないでください」 「うるせぇな、こっちは客だぞ。偉そうに」  店員が間に入るが、老人の怒りは収まらない。  しかし困り果てた店員が呼んで来た上司らしき男が、 「前にもこういうことあったよねお爺ちゃん。これ以上騒いだら、出入り禁止にさせていただきますよ?」  一言釘を刺すと、よほどこの場所に来られなくなるのが困るのか「ちょっと熱くなっちまっただけだよ」と小さな声で言い訳をして、静かになった。  ぶらりと垂れ下がった手に残る、地主の男を殴りつけた時の重たい衝撃。しばらくパチンコに興じる老人たちを前に立ち尽くしていたしくみは、次第に泣き出しそうな顔になり、震える手でそれを覆い隠した。  しくみは、日が落ちるまで近所を彷徨い続けた。  途中、商店街の電気屋に展示された、大型テレビの前で夕方のニュースを見た。繰り返し報道される、ありきたりな殺人事件。しくみは、ただただ食い入るようにそれを見つめていた。  夕食の買出しに来た女の人や家族連れが、立ち止まるしくみの背の向こうを流れていく。  どれほど歩き続けても、しくみはどこにも辿り着くことはできなかった。だから結局、戻ってきてしまった。死体が横たわるその家に。  街灯の小さな明かりを受けて、ぬっと暗がりに浮かび上がる豊原の家。半身を崖の向こうに投げ出したその姿が、静かにそこに佇んでいた。ちょうどしくみの部屋がある辺りが崖から突き出た形になっていて、錆び付いた鉄骨でもってそれを支えている。  重力に押され、日々傾きを酷くする不安定な家。今この場で崩れ落ち、有無も言わさず下から見上げる自分をぺしゃんこに押し潰してくれたら、としくみは願ったが願いが叶うことはなかった。昨日と同じように、その家は明日へ向けて在り続けている。  一息ついて神妙な面持ちで階段を上がり、しくみは家の入口へと向かう。  すると奇妙なことがあった。  リビングの明かりが灯っているのだ。庭に面した大きな磨りガラス越しに柔らかなひかりが漏れている。  怪訝な顔で戸を開けて、家の中へと入る。  リビングには、和恵がいた。  頭に氷枕を当てている仁となにやら話していて、二人は入ってきたしくみを見ると、「おかえり」と声をかけた。 「ただいま」  狐に摘ままれたようにしくみは、二人の顔を見る。笑っている仁に、眉間に皺を寄せて神妙な顔で睨みつけてくる和恵。その足元をペスが駆け回っている。 「じゃあ俺、そろそろ帰りますわ」  条ヶ崎仁はそう言うと、氷枕をテーブルに置いて席を立つ。  去り際、「すげー痛かったぞ」と言って、しくみの肩を強く叩いて行った。  モスグリーンの皿に盛られたドッグフードを、ペスが貪り食っている。  茫然としたまま言葉もないしくみに、和恵は「夕ご飯食べた?」ときつい調子で聞く。 「えっと、食べてない」 「何か食べたい?」  しくみは、上の空で和恵の質問を聞き流して、あの男が倒れていた場所を見るが、そこに散らばっていた硝子の破片や花びらは綺麗に片付けられていた。 「カレー」  意識するともなしに口をついて出る。 「今から?」  と、不満げに声を漏らしてから、和恵は台所に向かった。  瞳を潤ませて、台所から聞こえてくる包丁の音を聞いていたしくみが、口を開く。 「旅行はどうしたの?」  ぼそぼそとした話し口。いつもの和恵に食って掛かるような勢いはない。 「もう大変だったのよ。また不整脈で倒れちゃって。しかもサンピエトロ広場の真ん中でね」 「それで帰ってきたの?」 「そう。たった四日で」  手際よくニンジンを切り刻みながら、悔しげに答える。 「あいつ……どうしたの?」  その問いに色々と思うところがあるような苦い顔をしながらも、やれやれといった具合に溜息一つついて、和恵は話し出す。 「驚いたわよ。家に帰ったら、頭を抑えて座り込んでるんだから」 「……生きて、たんだ」 「死んだと思ったの?」 「心臓の音が、しなかったんだ」 「生きてたわよ」 「なんて言ってた」 「酔っぱらってあんまり覚えてないって」 「でも、殴られたことくらいは」 「それはね。でも警察沙汰は困るんだって」  煮立った鍋から、鼻を突くカレーの香りが漂ってきて、しくみの腹が鳴る。何もかも吐き出してから、ただただ歩き続けていたしくみの胃袋は空っぽだった。 「なんでそんなことしたのよ」  鍋の上でリンゴを摩り下ろしながら、和恵が言う。 「この家を、守りたかったんだ」 「バカみたい」 「俺、いつかここの土地、買うから。自分達のものに、するから」  涙声で、やはりぼそぼそとしくみが言う。 「期待してないから、大丈夫よ」  食卓に並べられる、湯気の立った二皿のカレー。具は細かく切られたじゃがいもに人参、たまねぎ。しくみのカレーにだけ牛肉の塊が入っている。 「いただきます」  しくみと和恵、手を合わせてから銀色のスプーンでカレーを掬う。口の中で熱々のご飯とルーが混ざっていく。 「うまい」  しくみが息を吐いて、喉の奥から声を漏らす。  豊原家のカレーは、やはり甘口だった。  大黒柱にかけられた五円玉は、まっすぐと地面に落ち、中心に引かれた黒い線は、柱に刻まれたナイフの切り傷よりも少し左にずれている。平行な大地とちぐはぐな彼らの住処は、重力に引き寄せられ、確かに前よりもその傾きを強めていた。  食卓のすぐ横。カーテンを透かした膨らみのあるひかりに包まれて、和恵は並べた椅子の上で眠っていた。椅子の下で、ペスも身体を丸めて寝息をたてている。  午前中に丹念に掃除をして回った甲斐もあり、犬の毛が散らばっていた床はぴかぴかで、壁や棚も埃が落ちて色合いが鮮やかだ。 「ねぇお母さん。昼飯は?」  部屋から出てきたしくみが和恵に問うと、重い瞼をゆっくりと開いて、 「ない」  と答える。 「腹減ったんだけど」  仰向けに眠っていた和恵は、ごろりと反転し、しくみに背を向けた。  食卓の上には、旅行のパンフレットが置かれている。表紙を見るに、どうやら今度はスペインに行こうとしているらしい。  母の背中を見つめてしばらく立ち尽くしていたしくみが、口を開く。 「そういえばお母さん。なんで俺を育てようと思ったの」  遠くからメジロの囀りが、聞こえてくる。 「譲ちゃんが好きだったし。何度も小さかったあんたに会ってたら」  眠たげに、穏やかな春の陽に溶けるように、そっとその言葉が家に響く。 「自然と、お母さんになってもいいかなって思ったの」 「飯、どっかで食ってくる」  照れ臭そうな顔で弱々しく笑って、しくみは足早にリビングを逃げ出て行った。  その傾いた家は今日も一応倒れずに、日の光を受けて住宅街の片隅に佇んでいる。
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