1話 傾いた日常

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1話 傾いた日常

 丘の上、平らに整地された土地の中央に、植えられた四本の青竹と小さな祭壇がある。  中年夫婦が抱えた赤ん坊は、彼方に広がる青空を背にして大麻を振る神主を、不思議そうに見ていた。  地鎮祭が終われば、すぐに工事が始まる。この丘に、家が建つのだ。丘の下にも何件か工事中の家があって、高度成長期のこの時代、町自体が生まれ変わろうとしているような気配がそこにあった。 「オオオーッ!」  神の訪れを告げる神主の声が、辺りに響き渡る。  どうかまだ見ぬこの家が、家族という大樹の根となり土地に根付き、我々に繁栄をもたらしてくれますように。夫婦は赤ん坊を抱えて、切に願った。  五十年以上の時が流れ、その場にいた夫婦も老いて亡くなり、赤ん坊も大人となり中年に差し掛かった頃にあっけなく死んでしまったが、その家だけは、残された者のよりどころとして丘の上に在り続けた。  高台に建つその家は、びゅうびゅうと吹く12月の寒風に、その身を軋ませながら震えている。かたかたと鳴る窓ガラスの音が、夜に響いた。  石油ストーブの燃焼筒が暗く灯り、縦長に伸びた十六畳程の板張りのリビングを懸命に暖めていたが、入り込む隙間風に押されて、どうにも部屋全体を暖めきれずにいる。 「搾取した税金に、見合わぬサービスしか提供しない犯罪者どもを殺すべきなんだよ。テロでも通り魔殺人でもなんでもいいから。一万円払ったら、最低でも一万円以上のサービスを。そういう緊張感がないから、横柄な態度で、俺達の金を資産家や役人に横流しする盗人が、大手を振って表を歩いていられるんだ」  夕食が並べられた四人席のテーブルに付き、味噌の染み渡った油揚げを何度も噛み味わい、汁を啜りながら暴言を吐き続ける青年。年の頃は三十くらい。身長は百六十程と小さく、白い肌は荒れていて髪はぼさぼさに伸びきっている。ところどころ破けているよれよれのジャージに、穴の空いた靴下を身に纏ったその姿は、みすぼらしい。  ニュース番組の内容がとある政治家の政策の話題から、中東で行方不明になった国際ボランティアの話題に変わる。日本に残された家族が、涙ながらに無事の帰還を訴えかけていた。誘拐された可能性も高く、その場合は、国が身代金を用意する必要も出てくるという。 「多くの時間を消費し、屈辱に耐えて得られた賃金から搾り取られた血税! 身代金に使われるんだ、その俺達の命の金が! ふざけるなよ。俺は半径五メートル内の幸福のためだけに自分を犠牲にしてるんだ。なんでこういう自分に真剣になれない人助けが趣味の阿呆にまで、勝手に財産を奪われなきゃいけないんだ! 趣味なら趣味で、最初から最後まで勝手に自分でケツを拭かせろよ」  物言わぬテレビモニターを指差し、いちいち文句を並べ立てている青年の対面には、黙々とサラダを食べている五十路の女がいる。髪を短く刈り上げた痩せ細った長身の女で、その彫りの深い顔立ちと、ジーパンにオレンジ色のフリースを着た素朴な身なりが相まって、パッと見では男のようにも見える。 「ペス、よしよし」  青年の狂態に怯えて駆け寄ってきた愛犬の頭を撫でてから、女はテレビのチャンネルを変える。ペスと呼ばれた痩せた犬は、女の膝に前足を乗せて甘えてみせた。  新たにテレビ画面に現れたのは、身を寄せ合ってアフリカの大地に佇むチーターの姿で、様々な困難に立ち向かう彼らの生態が、軽快な音楽とほのぼのとしたナレーションと共に映し出されていった。 「なにやってんのお母さん。見てんだよ!」  その息子、豊原しくみは前のめりになってテーブルに置かれたチャンネルを奪い取り番組をニュース番組に戻す。 「これ見たかったの。それに苛々するくらいなら、見ないほうが……」 「何度も言ったように、世の中に対して不満をぶちまけるのが俺の趣味なんだよ。さっきのボランティアの連中と同じ趣味。それでもチーターの生態なんか見るよりは、脳を活性化することもできるだろうよ!」  うんざりとした顔つきで、しくみの母、豊原和恵は息子の荒げた声を受けている。さっきまで和恵に甘えていた愛犬は、無情にもとっとと二階へと逃げていった。 「なるほどな。つまり、俺の意見への反発心からチャンネルを変えるという行動に出たわけだ。不愉快な意見を耳にしたくないから。黙らせたいならきちんと反論しろよ。そういう黙殺するようなやり方で、その場の会話を終わらせようとするんじゃないよ」 「そんなつもりは……」 「特に国際ボランティア連中の話になってからは、あなた不愉快そうな表情を顕にしてたよ。それを咎める必要もないとほっぽっておいたら、無言の抵抗というか、チャンネルを変えるという暴挙に出たわけだ。バレてるんだよ」  いつものことだけれど、のんびり屋の和恵は、捲くし立てるようなしくみの言葉を聞いているとどんどん混乱していって、何がなんだか分からなくなってしまう。そんな風には考えていなかったけれど、そういう感情を抱いていたと言われればそんな気もしてくる。 「なに黙ってるんだよ。人に攻撃するだけしといて、黙ってやり過ごそうってのかよ」 「攻撃なんてする気はないの」 「それは解釈の違いだね。ある意見があって、それを正当な議論以外で黙らせようとするのであればそれは攻撃だ。黙らせたいなら、正当な反論を一から十までキチンと言えば良かったんだ。無言でチャンネルを変えるなんて暴挙に出ずに」 「ごめんなさい」 「本当にアホだな。なんで無意識にそういう行動を取るんだよ。やるならやるで、せめて攻撃する意志を持ってやれよ。それなら初めから、議論になったっていうのに」 「ごめんなさい」  和恵は、とりあえず謝ってなんとか流そうとする。しかし、その『とりあえず』を母の態度から察したしくみは、また憤りを高じさせて怒鳴りつけるのである。自分が放った強い言葉や激情に酔ったしくみは、どんどん感情を昂ぶらせていき、一時間程うろたえたままの母をなじり続けた。 「なんで、こんなくだらない事に時間を浪費してるんだよ! ふざけるなよ。一分一秒死に向かっていくこの貴重な生きた時間を、あんたに殺されてるんだよ。時間殺しの犯罪者!」  そんなことを言って立ち上がった拍子にしくみの手がお椀に触れ、冷め切った味噌汁が板張りの床へと飛び散ってしまった。  和恵が、そそくさと台所から雑巾を取って来て、味噌汁をふき取ろうとすると、 「今のテーマは、味噌汁を拭くことじゃないだろう!」  と、しくみがまた声を荒げた。  溜息一つ、席に戻る和恵。リビングの奥へと不自然な勢いで流れていく味噌汁の水溜りが視界に入り、心がざわめいた。 「なんだ今の顔? あんたは無職の寄生虫、そんなゴミみたいなお荷物が、どの口で貴重な時間とほざきやがるとでも思ったのか? 30にもなって、赤ん坊みたいに喚きたてることしかできないのかって! おい、そんな風に思ってるんだろう。脳の中に隠してるお前の本音、バレバレなんだよ! 今はそんな話をしてるんじゃないんだよ。ただただ今、お前の感情を守ろうとしてるの見え見えなんだよ!」  ストーブの上に置かれた、やかんの口から吹き出る白い蒸気。しばらく終わりそうにないしくみの癇癪。早く味噌汁をふき取って、洗い物を済ませてしまいたいという思いを隠して、真面目な表情を作ってみせる和恵。二階ではペスが、和恵の寝室のベッドの下に身体を潜らせて諍いの終わりを待つ。  床に零れ落ちた味噌汁は、不自然な勢いでどんどんリビングの奥へと流れていって、その線を延ばしていく。しくみの癇癪が静まる頃には、味噌汁は、部屋の端まで流れ落ち、豊原の家が抱えた大きな欠陥を密かに暴き出していた。  どこまでも続く家々の連なりが、柔らかな朝のひかりを受けて佇んでいる。それぞれの家のベランダに、そっとかけられた洗濯物。壁に立て掛けられた子供用の自転車。家々の庭から伸びる木々は、どれも程々に枝木が切られ整えられている。どの家も、決してあけすけではなく、控えめに各々の内にある生活を醸し出していた。  なだらかな坂に広がる閑静な住宅街。その坂のちょうど中央辺りに、崖から半身を出すようにして豊原の家は建っていた。テーブルから飛び出した本のように突き出ている上層階は、崖下の一階部分にある風呂場と鉄柱によって支えられている。そういう立地のおかげで三階のベランダからは崖下の家が一望できて、しくみは小さな頃からその眺めがとても好きだった。上にも下にも周囲のどの家々にもない、自分の家だけの景色が誇らしかった。  そして玄関は、崖下から崖上へと上がるための階段途中の踊り場に設えられていて、豊原の家を訪れる者は必ず階段を上り下りしなければならない。毎朝毎晩、出勤帰宅と庭に置いてある自転車を抱えて上り下りしている和恵は、この家の立地の不便さにうんざりしていた。  庭には桜の木が一本植えられていて、その背に木造建ての豊原の家がひっそりと佇んでいた。高度成長まっさかりのその時期にしくみの祖父によって建てられたその家は、長い年月を経てもうぼろぼろで、薄い橙色に塗られたモルタルの壁は所々ひび割れている。平成に入ってから建て直された周囲の家々と並べると、置き去りにされたような印象を受けてしまい、枯れた桜と並ぶと、その様はどこか寂しい。  豊原しくみは、住み慣れた我が家が崩壊する夢をときたま見る。  崖上から滑り落ちるように崩れ落ち、瓦礫と化した家を前にして、ただただ呆然としくみは立ち尽くしている。瓦礫の整理をしなければとも思うのだけど、いつも夢の中で思うようにしくみの身体は動かない。 「朝よ。起きなさい」  そんな風に母に起こされた後も、夢で受けた沈み込んだ気分は胸に残っている。 「悲しい夢、また見たんだ」 「そう?」  和恵は、興味なさそうにしくみに返事をして、リビングを抜けて台所へと向かう。  しくみは、胸に残る夢の残滓を消し去ろうと地下一階にある風呂場へとシャワーを浴びにいく。それからしばらくして、風呂場から「アアーッ!」などと悶え叫ぶしくみの声が時折聞こえてきたが、和恵はいつものことだとなにも気にせず、朝食を作り続けた。 「お母さん。これ、あげる」  ジャージ姿のしくみは食卓に着いて早々そう言って、折りたたみ式のゲーム機を取り出した。 「テトリス好きだったでしょ。ソフト入ってるし、電源付ければすぐ出来るから」  しくみは、照れ臭そうに視線を逸らしたまま、食卓に並べられた朝食に手を伸ばす。 「ありがとう」  昨日怒鳴られたことなどすっかり忘れて、無心で朝の家事をこなしていた和恵は、不思議そうにゲーム機を受け取って電源を入れてみた。十年ぶりに遊ぶパズルゲームは、思いの外面白く、出勤するまで時間もそんなにないというのに夢中で遊び始めてしまった。 「この豆腐うまい。なんの豆腐?」 「胡麻豆腐」  目玉焼きと一緒に出された小ぶりな豆腐を口にして話しかけてくるしくみに、心ここにあらずと言った感じでゲームをしながら答える和恵。 「うまい。また買ってきてよ、これ」 「うん」  しくみからすると、今やいらなくなった古いゲーム機を掘り出してきただけなのだけど、母はそんなものにいちいち大喜びする。そんな母のちょろさを愉快に思いながら、しくみは胡麻豆腐を一口一口味わって食した。  母が仕事に出ると、しくみはひとり崖上の家に取り残される。  目的もなくネットサーフィンし、時たまスマホを開いてはゲームを遊び、昼過ぎになると近くの公園で日光浴をしながら読書をする。過酷な業務と、人間関係のいざこざと、そんな煩わしさに耐えられないしくみの弱さが重なり合って仕事を三ヶ月前に辞めてから、ずっとそんな調子だった。  目的も制約もない浮遊した時間の中で、ぼんやりとしていくしくみの脳味噌。不安を感じることもあったけれど、追い詰められていた外の世界での日々を思い出すと、これでいいのだと心底思う。未だにその頃の傷跡は、しくしくと傷む胃痛となってしくみの中に残っているのだから。 「前より、酷くなってる?」  昼下がり。天井に供えつけられた電灯から伸びる、スイッチ紐をじっと見つめてしくみが言う。  そのスイッチ紐は、家に対して斜めに延びているように見えた。しかしそれは紐が斜めに延びているのではなく、崖上から突き出るようにして建つこの家そのものが、崖下へと沈み込み、傾いているからそう見えるだけだった。紐はただ重力に添って、真っ直ぐ大地へと伸びているだけだ。 「家が、傾いている」  しくみは、現実感のないその事実を確かめるように、口に出して呟いたが、いまいち事の重大さが認識できない。いくらそれが客観的に見て異常な状況であろうとも、しくみにとって壁とチグハグに在るそのスイッチ紐は、ただ日常の風景のひとつでしかないのだ。  隙間風が、ゆらゆらと白いカーテンを揺らすと、カーテン越しに射し込んでくる光もまたゆらめく。  リビングで独り言を呟くしくみを、不思議そうにペスが眺め見ていた。  日が暮れて、今日もいつもと同じように夕焼けは等しく家々を包み込む。  DVDやゲーム機が散乱した薄暗い部屋で、しくみは赤ん坊のようにうずくまってただ夜がくるのを待っていた。この時間帯になるとよくしくみの心は沈みこみ、人生の中で味わった大小様々なストレスを思い出しては、泣いてしまう。中学生の頃のいじめられた思い出、ストーカーと化してただただ気持ち悪がられるだけだった初恋、酔っぱらって犯した数々の失態、馴染めなくて辞めてしまったいくつかの仕事。  30年間蓄積された嫌な思い出は、次々としくみの奥底より湧き出てくるが、気晴らしに行く金もない。相談する友達もいない。過去を埋め合わせる未来も見えない。となるとしくみに残された対抗手段は、ただ眠ることだけだった。  ひとりただその部屋、薄闇の中で、自分の意識の消滅だけを願いうずくまる。だけどそういう時に限って、身体が眠りを拒絶するのはどうしてだろうか。  一枚壁を隔てた向こうから、ガシャンガシャンと石階段に自転車を打つ音が聞こえてくる。母が、自転車を抱えて階段を登っているのだ。  ペスが一目散に玄関へと駆けていく。ごそごそと身体を起こして、しくみもまた玄関へと向かった。中庭に自転車を置き、ジャガイモやニンジンが入ったビニール袋を抱えた母が家の中へと入ってくると、ペスはその足元をぱたぱたと尻尾を振って駆け回った。 「おかえり。今日は、カレー?」 「うん」  和恵はペスを散歩へと連れて行き、しくみは再び布団へともぐりこんだ。 「カレーなんて、久しぶりだな」  そっと目を閉じて、胃の痛みを抱えた腹をさすりながら優しく呟いた。  和恵が台所で料理の支度をしている後ろを、部屋から出てきたしくみが通り過ぎては、トイレへ入っていく。 「死にたい死にたい消えたい死にたい。死んじまえ……」  トイレからそんな呻き声が聞こえてきたかと思うと、部屋に戻る時には「死にたくない死にたくない。永遠に生きていたい。クソ、見返してやる」なんて言葉を呟いて、ふらふらと歩いていった。  ぐつぐつと煮立った鍋の音と、しくみの念仏染みた呟きが、冬の日暮れの静けさの中、ぽつぽつと聞こえてきては時が進んだ。 「なんで刺激物なんだよ! 胃腸炎だって知ってるだろ!? 殺す気かよ。いや、この間の復讐なんだろ。そうやって合法的に葬り去るつもりなんだろ?」  夕食になり、食卓に並べられたカレーを目にしたしくみが声を荒げる。 「ごめんなさい」 「お粥とか、そういうのあるじゃん。あらゆるものに人生を追い詰められて、胃炎になって、家でも刺激物で追い詰められて。俺は誰にも顧みられず殺されていくんだ。あれだろ、働きもせずに家でだらだらしてるだけの粗大ゴミであるところの俺に死ねって言ってるんだろう?」 「そんなこと思ってない」 「例えその言葉が本当だとしても、無意識で感じていることを行動に起こしてるんだ。殺してやる殺してやる、この刺激物でろくでなしの息子を殺してやるって! 俺は死なないぞ! 死なないからな!」 「食べられなそう?」  文句を喚き続けるしくみの鼻をくすぐり続ける、魅惑的なカレーの香ばしさ。 「食べる」  結局カレーの誘惑に逆らえなかったのか、不快な腹部の痛みも忘れて一口、口へと運ぶ。 「甘い」 「大丈夫そう?」 「うまい」 「良かった。あ、これお肉」  基本的に肉が食べられない和恵は、自分の器に入っていた牛肉を探し出しては、しくみのお椀に入れていく。 「ありがと」  摩り下ろしたリンゴと牛乳を入れたそのカレーは、いつもの豊原家のカレーより随分と甘口だった。そのおかげか医者に止められていた刺激物の王様とも言えるカレーを食べたというのに、しくみの胃の調子は随分よく、いつもある鈍痛もあまりしなくなっていた。 「昨日のカレー、おいしかった」  翌朝、出勤していく和恵にそう言って、しくみは部屋へ戻っていった。  それからずっと豊原家のカレーは甘口になった。  豊原の家を建てたしくみの祖父は、建築資材を販売する会社を経営していたのだが、六十を越えた頃に倒産させてしまって、そのまま肝硬変を悪化させて死んでしまった。とある広告代理店にコピーライターとして勤めていたしくみの父、豊原譲もまた、しくみが中学生になった頃に独立、起業したのだが、二年もすると無理が祟り脳溢血で倒れ、豊原家には二人の母子と、親子二代の倒産によって作られた借金だけが残った。 「終わり」  窓口のシャッターが降りた、日暮れ時の銀行。ATMが立ち並ぶ無人のその場所で、そう独りごちて、和恵は十万円を入金する。  和恵は、感慨深げに一つ長い長い溜息を吐いてから銀行を後にして、近場のスーパーで鍋物の材料と鯛を買って行った。家に着いた頃には日は既に落ちていて、豊原の家の窓から漏れる明かりがひっそりと、暗がりの庭を照らしていた。 「こんな家のために……長かったな」  階段の踊り場で、家を眺めながら和恵はひとりごちる。階段の途中に玄関がある、住みにくい家。自転車だって、いちいち使う度に庭から階段の上へと持ち上げなければならず、年々その重さを厳しく感じるようになってきた。  嬉しげに足元を走り回るペスを引きつれキッチンに行くと、パジャマ姿で牛乳を飲んでいるしくみがいる。 「ただいま」 「おかえり。それ鯛? どうしたの。なんか良いことでもあったの?」  しくみは、台所でビニール袋から次々と食材を取り出す母を見て、何の気なしに尋ねる。 「お父さんが残した借金、全部返してね」 「へぇ、借金? そんなのあったんだ。いくら?」  特に興味もなさそうに聞くだけ聞いて、牛乳を一気に飲む。 「八百万」  そしてコントのようなタイミングで、しくみは、思わず口に含んだ牛乳を噴出した。 「凄いな!」  雑巾で床に噴出した牛乳を拭いてから、部屋へと戻っていく。しくみは、ずっとその事を考えていたのか、食事時には和恵を質問攻めにした。 「八百万って、どれくらいで返したの!?」  ぐつぐつと煮立った鍋の中から、葱や豆腐や鯛をよそってしくみに寄越す。湯気の中から現れたそれは、水滴に濡れてきらきらと輝いて見えた。 「あんまり覚えてないけど……」 「いやいや、見当ぐらいつくでしょ! ちゃんが死んだのが俺が中学生くらいの時なんだから……十年ちょっとじゃないの?」 「多分、それくらい?」 「本当、よく返せたね」  一息ついてしくみは、鯛の白身を口にする。消化に良いようにと、何度も細かく噛み砕いてから胃に落とした。 「……俺には、絶対に無理だな」  小さな声で、ぼそりと呟く。 「でもほら。お母さん今の介護の仕事の前は、別の仕事してたでしょ」 「雑誌とかの版下の仕事だっけ?」 「そう。その時は、夜遅くまで仕事があって大変だったけど結構、お金貰ってたから。それに昔は景気も良かったし」 「そういえば、なんでそんな仕事辞めたの?」 「今って全部、パソコンでやるから。昔は、手作業だったからね」 「あー、お母さんそういうの全然ダメだもんね」  インターネットで犬のサイトを閲覧することすら、一からしくみがセッティングしてやらなければ出来なかった。しくみは、しみじみと納得し、おかわりとお椀を差し出した。和恵は大きめの鯛の白身を選んで入れて、しくみに渡す。 「まぁ、でも八百万。とにかく凄いよ」 「凄いでしょ? 頑張ったんだから」  和恵は、鍋の熱気で顔を赤らめながら、誇らしげに微笑んだ。  しくみはそんな母の顔を見て、急に責め苛まされているような気分になって、だけどさすがにこのタイミングで怒り出すわけにもいかず、部屋に戻ってから枕を思い切り殴りつけた。
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