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2話 腐った土台
しくみが小さかった頃、家のふもとにある電柱の下で、浮浪者の女の死体が発見された。付近の通りは封鎖されて誰も入れないようになっていたのだけれど、豊原の家からは現場検証をしているその様が見下ろせた。
殺人事件か、はたまた自殺か。どんな事件が起きたのかと好奇心に胸を膨らませながら警察の検証を眺めていたしくみを、今は亡き祖母が「見るんじゃないよ。もう、うちとは関係ないんだから」と強く叱り付けた。
「もう」とはどういうことだろうかと漠然と気にはなったが、その頃のしくみにその疑問を言葉にする知性は備わっていなかった。「過去にあの浮浪者は、うちとなにか関係があった人間なのか?」と疑問を具体的な質問として、言葉にすることができるようになった頃には、祖母は質問を受け付けられないくらい呆けてしまっていたし、その後すぐに死んでしまった。
専門学校時代、好きだと告白したときに、困ったように笑った女の子の顔。何故だか、土曜日の家庭科の授業だけ優しくなった小学校の友達。しくみの人生の中で発生した、いくつかの解けない謎のひとつとして、死んだ浮浪者の女と祖母の思い出は、今も強くしくみの心に残っていた。
あれからしくみも一応、大人になったし、母親以外はみんな死んでしまった。思い出にあったものの中で、昔も今も変わらないものは崖上に建つ、豊原の家だけだった。
「土台が腐ってる可能性がありますね。本来なら建て替えをお勧めしたい所ですが……」
日曜の午後、突然振り出した雨の中をしくみが息を切らして帰ってくると、リビングに見知らぬスーツ姿の中年の男がいて、和恵にファイリングされた資料を見せながら、深刻な面持ちで何やら語り聞かせていた。
「誰?」
タオルでずぶ濡れになった頭を拭きながら、ぶしつけにしくみは母に尋ねた。
「リフォーム会社の人。お風呂の水漏れ、見てくれるっていうから見てもらってたの」
「はじめまして、よろしくお願いします」
「どうも」
ぶっきらぼうな調子で挨拶を返してから和恵の隣に座って、雨水が染み渡ったシャツやジーパンも着替えず、ぎろりと男を睨み付ける。
清潔なダークグレーのスーツを着た大柄な男は、そんなしくみの敵意も意に介さず、経緯を説明する。
「今、この辺りのお宅で、格安でリフォームをお勧めしていまして。それでお風呂が水漏れをしているということで見させていただいたのですが……」
男は、クリアファイルをパラパラと捲って、粉砕した風呂場の下、黒ずみ腐った木造の土台が、土の中から顔を出している写真を見せた。
「ちゃんと調べてみなければ確かなことは分かりませんが、浴槽から流れ込んだ水を受けて、家の土台が腐ってしまっている可能性が非常に高いんです」
クリアファイルを捲ると、完全に全ての柱が腐り落ちている土台の写真と並んで、大きく地面に埋まり込むように沈み、倒壊してしまった家の写真が顔を出す。それは豊原の家よりも、ずっと新しくて立派な家だった。
「これは地震で倒壊してしまった家の土台なんですが……床下を調べてみたら、台所からの水漏れが原因で、土台が全て腐ってしまっていたことが分かったんです」
不安げな表情を浮かべた和恵が、じっと写真を凝視している。
「つまりそういう恐怖心が、あなた方の商品を売るための販促材料というわけですよね。それでいくらくらいかかるんですか?」
敵意剥き出しのしくみの言葉に、苦笑いを浮かべて別の書類を取り出す。
「建て替えとなると、見積もりを出さなきゃなりませんが。とりあえず水漏れしている浴槽の修理費用で二百二十万。ただし今ならサービス期間中で……」
しくみは、身を乗り出して男の話を遮った。
「でも風呂直したって、この家は直らないんですよね? この家を直すには、どれくらいかかるんですか。大体でいいから、教えてください」
「調べてみなければ正しいことは分かりませんが。土台から修復するとなると……」
男は手持ちの書類に目を通しながら、取り出した電卓に次々と数値を入力していく。
「最低でも千五百万は見たほうがいいかもしれません」
「帰ってください」
その途方もない額を聞いて、険しい表情から一転、思わず泣き出しそうな情けない面持ちになったしくみは、頼み込むようにして男を帰した。
犬の爪跡だらけのフローリング。ところどころ剥がれたままになっている壁紙。雨はさざめき、その響きをリビングに残す。ところどころから隙間風が入ってくるような古びた家ではあるが、一応、雨からしくみたちを守るという面では機能し続けている。
「この家、倒れちゃうんだ……」
しんとしたリビングで、和恵がこぼす。ひび割れた家の壁に、よく見ると家の中心から崖に突き出た向こうへと傾いている床。
しくみは、徐に財布の中から五円玉を取り出して、サインペンで一本真ん中にラインを書き入れた。
「母さん、紐と釘ない? 後、トンカチ」
「えっと……」
和恵は、リビング脇の引き戸の中にあるタンスから、ビニール紐を取り出してしくみに渡す。しくみはそれを中心線にそって五円玉の輪の中に通し、ちょうど傾き始めている側にある大黒柱に釘を打ちつけ、紐の尻尾を括りつけた。
「後、ナイフない?」
「キッチンナイフでいい?」
中心に黒いラインが入った五円玉は、若干斜めに傾いた大黒柱に添わないで、真っ直ぐと地面に垂れ下がり、この家が確かに傾いているのだと証明してみせる。母がナイフを持ってくると、しくみはちょうど五円玉の黒い線の真下、焦げ茶色の柱にぴっと傷をつけた。
「これで家が傾いたら、どれくらい傾いたか分かるから」
ふぅんと釈然としない様子で、しくみの言葉を聞く。
「分かる?」
「もっと傾いたら、五円玉が今、傷つけた所より左に移動する」
「それが、分かったから?」
「いや、分かるだけだけど……」
釈然としないまま、とりあえず「うん」と頷いて和恵は、席に戻った。
柱に比例せず、垂れ下がる五円玉をしくみはじっと睨み付ける。倒壊と言われてもいまいち現実感が湧かないが、確かにこの簡易水平器は豊原の家の終わりを示している。抗うことはできないまでも、この家の傾きをきちんと認識することは、何よりも大切なことのようにしくみには思えたのだ。
日暮れ時。豊原家の下隣にある駐車場で、男が二人、三脚を伸ばした測量器を傍らに置き、話し込んでいた。
灰色の作業着を着た白髪がかった初老の男と、コートの下にブリオーニのスーツを覗かせる中年の男。どうやら白髪の男はスーツの男に雇われているらしく、敬語でスーツの男と話していた。
「で、結局のところどうなの?」
対するスーツの男は、目上に人間に対して気を遣う素振りひとつもなしに問いかける。右腕には、銀色に輝くロレックス。茶色に染めた髪はオールバックで後ろに流していて、柄の悪い、威圧感を与える風体をしている。
「やっぱり五十センチはオーバーしてますね」
そんなことを作業着を着た男が口にしていると、ちょうどペスを連れた和恵がやってきて「こんにちわ」と挨拶をした。
「こんにちわ。もしかして、豊原さん?」
「はい」
スーツの男の一方的な話し振りを、特に気にする様子もなく和恵はこくんと頷く。
「こんな奥まった所に家があっちゃあ、車も簡単に入ってこれない。階段の途中に玄関があるから、毎日毎日階段を上り下りしなくちゃならない。築五十年以上だって言うし、この家、住みにくいでしょ」
「まぁ、そうですねぇ。自転車だって出入りする度に、庭から階段の上に持って行かなきゃならないし」
「そりゃ重労働だ」
同情心なんてまるで篭っていないような話し振りで男は言って、豊原の家を見上げる。元々は筋肉質だったろう大柄な骨格に、歳を重ねてついた脂肪が垂れ下がっている男の顔には、妙な迫力があった。
「それでも人は、一度定めた住まいからはそう簡単に逃れることはできない、か。家っていうのは、ある意味で一度刻み込まれたら離れられない、呪いみたいなものなのかもしれないな」
和恵も男に習って、夕闇の中にひっそりとそそり立つ我が家を見上げた。リフォーム業者に家の土台が腐っているかもしれないという話を聞いた後、こうして改めてじいっと見ると、今にもこちら側に倒れてきてしまいそうな圧迫感を覚える。
「呪い……」
呪いという言葉を耳にして、なにやら神妙な顔で考え込んでいた和恵を、ペスが一鳴き現実に引き戻した。そして早く家へと帰りたい、と手綱を引くので和恵は男に曖昧に笑って会釈をして、階段を上っていく。
「ま、近いうちに伺わせてもらいますよ」
「はぁ……」
男は、最後にそんな風に和恵に言って、作業着の男を引き連れて去っていった。
港区二丁目から新宿を経由して、ぐるりと東京の主要都市を通り過ぎて夢の島へと至る環状線、明治道路。皇居を中心にした、夜闇に煌く都市のひかりを束ねるように、その輪を広げていた。
新宿を過ぎた、ちょうど繁華街の明かりが途切れた辺りのその道を、一人しくみは、涙ながらに疾走していた。片手にはウィスキーの瓶。おぼつかない足取りに、赤ら顔。たまに通り過ぎる人々は、その泣き声の方を怪訝な顔で見やっては、すぐに手元のスマートフォンに視線を戻した。
「瀬川さん、死んじまえ! そいつと共に、死んじまえ!!」
言葉と共に吐く息は白く、走り行くしくみの後に置き去りにされていく。
とある映画の専門学校に入学して、しくみは彼女と出会った。同じゼミで共に映画作りを学んだ仲で、内向きで反社会的な性質のしくみを「バカ」「アホ」と罵りながらも、どこか認めてくれていた。
「死ね! 死ね! 片っ端から何もかも!」
疲れなど感じる間もなく、しくみはただ情動に突き動かされて駆け抜けて行く。
学校を卒業してからも、一年に何度かは連絡を取り、飲みに行った。何度も告白めいたことをしたが「顔が好みじゃない」と言われては断られた。だが友達として一緒に遊ぶことは、まんざら嫌でもないようで飲みの誘いにはいつも乗ってくれた。
「ウゴッ!」
凄まじい衝撃を股間に受け、気が付けばしくみは仰向けに倒れていた。歩道から突き出た車止めのポールに気付かないまま、衝突してしまったのだ。
両手で股間を押さえて悶絶しているしくみ。羽虫が集った電灯越しの夜空には、まばらな星々が浮かんでいた。
そして彼女と出会って七年が経った今日。新宿で飲んでいた時に、今度の春に結婚するという話を打ち明けられた。端から何も始まっていないのだけれど、確かに今日、しくみの恋は終わりを迎えたのだ。
「最初から俺なんか、いらなかったんだな」
しくみは勢いよく立ち上がり、右手に持ったウィスキーを呷ってから再び明治通りを駆けて行く。体と脳に染み渡ったアルコールと悲しみが、痛みを忘れさせてくれた。
腕を振り上げ全力疾走するしくみのガードレールを隔てた向こうを、猛スピードでトラックやタクシーが通り過ぎていく。過ぎ去っていく車の残光が、涙に滲んだしくみの目に残った。
どこまでも続く明治道路を、しくみはふらふらと走っていく。この道の行き着く先は、無数の廃棄物の上に作り上げられた夢の島と名付けられた人工島。打ち捨てられた多くの不要なゴミが、整然とした街並みの下に埋葬されている。
「入ってくるなよ! ここはお前らの土地じゃないんだよ」
突如、下の階から聞こえてきたしくみの怒声に、すっかり寝入っていた和恵は叩き起こされた。明かりを灯して時計を見ると深夜二時二十七分。先に目を覚ましていたペスは、和恵のベッドの下に入り込んで体を丸めて怯えていた。
「静かに」と、しくみを諌める男の声がする。恐る恐るリビングへと続く階段を降りていくと、玄関先で警察官と向かい合って、明らかに泥酔してる様子で「俺の払った税金は、俺の首を絞めることにしか使われないのか」やら「好きだったんだよ」やら意味不明なことを喚き散らしているしくみがいた。
「あ、お母様ですか?」
パジャマ姿の和恵に、初老の警察官が声をかける。
「はい」
和恵は、申し訳なさそうにこくんと頷いた。
「この辺りで騒いでいましてな。連れてきたんですが……」
「すいません」
「騒いでなんかいない。叫んでるんだ!!」
静まり返った住宅街に響き渡るしくみの声。和恵は、憎々しげにしくみを睨みつけた。
「静かにしなさい」
「うるさい。なんで家に帰ってきてまで誰かに命令されなきゃならないんだ。俺は奴隷か? 誰に売り払われたっていうんだよ!?」
「ずっとこんな調子でして。とにかくご自宅の中へ連れて行ってもいいですか?」
「はい。すいません……」
奥から現れた若い警察官と初老の警察官に腕を掴まれ、しくみはリビングへと連れて行かれるが、その勢いは収まるどころか、警察官への反抗心からか余計に荒れていった。
「出て行ってくださいよォ! 俺が何の犯罪を犯したっていうんですかァ!? どんなに追い詰められたって、一応、生きていくために我慢してるつもりなんですけどねェ!!」
そんなことを喚きながらしくみが壁を蹴り飛ばすと、木造建ての家屋は、家全体を振るわせた。大黒柱に括りつけられた水平器代わりの五円玉も、ほのかに揺れている。
「よくあるんですか?」
「前に何度か……」
和恵は同情を寄せる警察官に、泥酔して警察署に保護されたしくみを何度か迎えにいった話をした。話している途中で、無性に情けなくなって泣けてきてしまう。
突然、何かが砕け散る鈍い音が聞こえてきて、和恵は顔を上げる。リビングと前庭の間に設けられた窓ガラスは蹴り割られ、充血した目で警察官を睨み付けるしくみの足の裏からは、血が流れていた。
「俺は生きてるんだ! 愛してるんだ!」
散乱したガラスの破片に囲まれながら、しくみは号泣し始める。
「110番してもらえますか? そうすれば息子さんを、署に連れて行けますので」
「通報、するんですか」
躊躇っていると、初老の警察官に「お母様では、収められないでしょう」と厳しく言われて、和恵は暗く沈んだ面持ちで受話器を取った。
電話口に出た婦警に「すいません。息子が酔っぱらって、家で暴れていまして……」と切り出して、電話越しに繰り返し頭を下げながら事情を説明する。
「はい。窓ガラスを蹴り割り……ご迷惑おかけして申し訳ありません……」
電話を置いて初老の警察官に「パトカーで来てくれるそうです」と告げると、警察官二人は、号泣しながら喚き続けるしくみを慣れた手付きで取り押さえた。
「ちょっとすいません」
しくみを押さえ込んだ警察官に声をかけて、和恵は、タオルと水を入れたバケツを持ってくる。暴れるしくみの足を押さえて、丹念に傷口を洗い流してからタオルを巻いてやった。そうこうしている間に応援の警察官がやってきて、暴れるしくみを羽交い絞めにして連行する。
「裏切り者!」
何人もの警察官に取り押さえられ、家を出てすぐの階段を降りていく際に、しくみはそんな言葉を母に投げつけた。
夜は再び静けさを取り戻す。家々の窓から何事かと顔を出していたご近所さんに向かって、和恵は一つ一つ深く頭を下げて回った。
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