3話 家の外

1/1
前へ
/6ページ
次へ

3話 家の外

 暗緑色の石壁に囲まれた畳張りの部屋に、うずくまるようにして寝転がっていたしくみが、重たげに瞼を開ける。厚そうな鉄の扉が入口にあるのが見えたが、間を分厚いアクリル板で塞がれていて外に出ることはできなそうだった。 「帰せよ!」  と大声を上げてアクリル板を蹴り飛ばすが、びくともしない。血が滲んだタオルが巻かれた足が、ただ痛むだけだ。  辺りを見渡しても、部屋の隅に設置された和式便所と、自分の体にかけられていた毛布が一枚あるばかり。叫んでも暴れても、一向に誰も来る気配がないので、部屋の隅っこで毛布にくるまって横になる。重苦しい静寂の中、震える身体を抑えて時が過ぎるのを待つ。未知の場所に監禁されているという事実がただただ恐ろしかった。 「酔いは覚めたか?」  初老の警察官がやってきて、アクリル板に設けられた受け渡し口越しに、水が入った紙コップを手渡す。しくみは、からからになった喉を潤して、申し訳なさそうにコップを返した。 「はい……」  保護室を出た辺りは事務所となっていて、ちらほらといる警察官がしくみを見る。そこで指紋を取ってから、カメラが備え付けられた個室で日付が書かれたプレートを持って、体を横に半身にしたものと、正面からのニパターンの写真を撮影する。 「じゃあ、下行くよ」  窓から差し込む朝日に薄く白んだ警察署の階段を、初老の警察官に連れられて降りていく。 「お酒飲んで、こういうの何回かあるんだよな?」 「家では、初めてです」  息子に語りかけるような調子で話しかける警察官に、縮こまって答えるしくみ。 「病院で見てもらった方がいいぞ。お母さんにあんまり心配かけるなよ」 「病気っすか」  苦笑い一つ階段を降りていく。茶色いタイルが張り巡らされた警察署の玄関ロビー中央に、若い警察官と話し込んでいる和恵がいた。他にも宿直明けの警察官がまばらにいて、しくみが通りかかると「昨日は凄かったな」なんて、からかい気味に声をかけてくる。 「お母さん、来ましたよ」  若い警察官に促されて振り返ると、そこにしくみがいて、和恵に向かって手を上げてへらへらと笑っていた。抵抗した時に破けたシャツを羽織って「おはよう」などと軽い調子で言う。  しくみが、警察官から財布やスマートフォンを返してもらって警察署を出たところ、元気な声をあげながら列をなして歩いてく小学生の一団がいた。しくみは、朝日に手をかざし、雲がまばらに散った透き通った青空を見つめる。 「天気いいね」  和恵はしくみの言葉に答えずに、駐車場の片隅に置いてある自転車のリング錠に鍵を差し込んだ。鍵は勢い良く開き、ガチャリと大きな音を鳴らす。  大通りに面した歩道を、無言で自転車を引いて歩く和恵と、その後ろを気まずそうに付いて行くしくみは、動き始めたばかりの朝の活動的な空気からどこか疎外されているようだった。 「そういえば、さっき警察官に病院に行けって言われたよ。こっちの」  しくみは、ぎこちなく笑って自分の頭を指差した。  和恵の足が止まる。 「なんで笑ってるの?」  怒りを押し殺して、和恵が言う。 「言うことがあるでしょ? あんなに暴れて、近所の人にも迷惑かけて。ねぇ、お母さんこれから仕事なのよ!?」  仕事、という言葉を聞いてしくみの顔から笑顔が消える。見れば母の目の下には大きな隈が出来ていた。 「ごめん。そんなつもりじゃ、なかったんだ」  しくみは、詰まっていたものを押し出すようにそう呟いた。  和恵は、しばらく考え込んで、 「今日、帰ったら大事な話があるから」  と、それだけ言って自転車に跨って、緩やかな坂を下っていった。  これから出勤するだろう人々とすれちがいながら豊原の家に着いたしくみは、苦々しい面持ちでその家を見つめる。しくみの視線の先。破壊された軒先の窓ガラスが、とりあえずの対応にとダンボールで塞がれている。警察署に来る前に、和恵が治していったのだろう。  しくみの前に置かれた豚肉の生姜焼きと、和恵の前に置かれたコロッケ。牛、豚、鶏を問わず和恵が肉が食べられないこともあり、肉がおかずに出てくる場合は、大抵親子別々のものを食べていた。 「コロッケ、ちょっと貰ってもいい?」 「お母さん、お腹いっぱいで食べられないから、一個あげる」 「ありがとう」  コロッケを一つ頬張りながら、しくみは和恵の様子を伺うが、一向に大事な話とやらが切り出される気配がないまま、夕餉の時は過ぎていく。蹴り割られ、ダンボールで塞がれた窓から風が入ってくるせいで、すっかりリビングは冷え切っていた。 「あのさ、俺が悪いってのは分かってるし反省もしてんだけど。こういう勿体ぶったの止めてくれない? 気持ち悪いんだよ」 「えっ、なに?」 「今日、大事な話があるって言ってただろ」 「大事な話?」  和恵は、虚空を見やって何か考え込みながら味噌汁を飲む。 「忘れてんの?」  しくみの棘のある口ぶりを受けて、ようやく和恵は自分が朝方話したことを思い出したようで「ああ、はいはい」と声をあげる。 「今日、担当のお婆ちゃん倒れたりとかで、慌しかったから……」 「頭おかしいんじゃないの? 大体いつもその場の勢いだけで、何も考えずに話しすぎなんだよ。考えろよ。二十四時間、常に脳を休めるなよ」  急に責められ、眉間に皺が寄る和恵。しくみに叩き起こされろくに寝ていないせいで、その目にくっきりと隈が出来ていて、男性的な顔つきが、より険しく見える。 「それでなんだよ。大事な話って」 「お母さんとしくみ、血が繋がってないの」  さりげなくリビングに響いたその言葉に、さっきまで勢い良く食って掛かっていたしくみが、思わず声を失う。 「二十歳になったら言おうと思ってたけど、言いそびれてて。それで今朝、言おうと思って」 「えっと、どういうこと?」 「しくみが二歳の時に、譲ちゃんと結婚して私はこの家に来たの」 「ちょっと待って。整理するから」  しくみは、電話機の横に置かれたメモ帳とペンを持ってきて『2歳 父、お母さんと結婚』と書き出した。 「その前に、ちゃんは誰かと結婚してて、その謎の女から俺は生まれたってこと?」 「そう」  しくみは、『0歳 謎の女より俺生まれる』と先ほど書いたものの上に書き入れ、時系列を整理しようとしていた。 「それでその謎の女とちゃんは、すぐに離婚したってこと?」 「詳しくは聞いてないけど」  0歳と2歳の間に『父離婚。謎の女に捨てられる』と付け加えた時、あっと何か腑に落ちたようにしくみが声を漏らした。 「そういえば死んだ祖母ちゃん。ちっちゃい時に俺が癇癪起こすと、母親に似て仕方のない子だって言って凄い責めてきたんだけどさ。後になって思い返したら、不思議だったんだよな。お母さん、そんなヒステリー起こさないじゃんって」  上の空でそれだけ言うと、しゅんと肩を落とす。石油ストーブの上で、沸騰するヤカンから聞こえてくるシューシューという音が、やたらとしくみの耳に残った。 「えっと。事実関係は理解できたけど、なんでそれをこのタイミングで言おうと思ったの?」 「なんでって言われても……」 「泥酔して暴れた欠陥品の息子を、俺を生んだ謎の女がそうしたように、捨てて行こうとしてるってこと?」 「えっ? そんなことは思ってない……」 「じゃあどんなことを思ってたんだよ。説明してみろよ!」 「説明って……」  急に声を荒げたしくみに追い詰められ、和恵は、まるで訳が分からなくなってしまう。 「俺は酷いことをした。それに対してお母さんはストレスを大きく感じた上で、このことを告げようと思った。状況から見るにそういうニュアンスが含まれてるって受け取っても、おかしくないだろう!?」  しくみは、時系列を纏めたメモをくしゃくしゃに丸めて、和恵に投げつける。紙くずは和恵の頭に当たり、床に落ちた。 「捨てるのかよ、人でなし!」  和恵は、言葉を返せず、おろおろとしている内に泣き出してしまう。しくみもまた怒りに顔を歪ませながらも、どこか泣き出しそうな表情でその様を見つめていた。  静寂のリビング。片隅には、しくみが十四の時に死んだ父の遺影がひっそりと置かれていて、その横には和恵と父と、小学生のしくみがどこかの砂浜で並んで写っている写真が飾られていた。しばらくすると、カツカツと爪を鳴らしてペスが二階から降りてきて、和恵の足を優しく舐めた。 「お母さん、この辺でガラスの修理できるお店知ってる?」 「……うん」 「ガラスの修理代、出すから。修理の人来てもらったら、値段教えてよ」 「分かった」  束にしたティッシュで涙を拭く和恵を前に、残りの飯をとりあえず食ってしまおうとしくみが食卓に視線をやると、自分用の豚肉の生姜焼きと、肉が食べられない母のコロッケが、別々に置かれている在り様が目に留まった。  三階建ての老人ホームに併設された駐車場を、痩せこけた老人が杖を突いて歩き回っていた。どの車に乗り込むでもなし、難しい顔つきで車と車の間を抜けて、右往左往している。 「田中さん、見つけた。どこに行こうとしてるんですか?」  オレンジ色のシャツの上に、エプロンを着込んだ和恵が駆け込んできて声をかける。 「明日出発だから、家に帰って旅行の準備をしないと」 「旅行はどこに行くご予定なんですか?」 「三度目なんだけどね、パリにね」  誇らしげにそんなことを言う田中さんを「あら。それなら、海外旅行に行ったお写真見せてくださいよ」と宥めながら抱えて、和恵は介護施設の一室へと連れて行った。茶系統の落ち着いたトーンで纏められた部屋は八畳程の個室になっていて、奇麗に整理整頓されている。  田中さんは、アルバムを何冊も棚から取り出してベッドに並べ、母親に大切な宝物を自慢する子供のような表情でそれを開いて見せた。 「久子と、次はどこへ行こうかと相談していてねぇ」  アルバムには、グランドキャニオン、凱旋門、ピラミッドなどなど、様々な場所で田中さんと亡き奥さんとで撮った写真が収められていた。 「いいですね。私も一度、フランスに行ってみたくて」 「それならニースの方にも行ってみるといい。海が奇麗だし、何より食べ物が美味しい」  色褪せた写真には、群青の地中海と、若かりし頃の田中さんと奥さんが写っている。大分若い時のものらしく、髪も黒く、痩せ細った今とは別人のように逞しい身体つきをしていた。  田中さんが語る思い出話も上の空で、和恵は、映し出された異国の風景をうっとりと見つめていた。 「奇麗ですねぇ」 「興味があるなら早く行くといい。体力のある内に行かないと、どこにも行けなくなるから」  ベッドに立て掛けられた杖。写真に写っている壮健な姿とは、まるで違った姿になってしまった田中さんは、それでも他人事のようにそう言った。  慌しく灰色のコートを着込んで家を出ようとしていた和恵とすれ違うように、パジャマ姿のしくみがのそのそとリビングにやってくる。 「おはよう。朝、昨日のカレー?」 「お鍋に入ってるから、暖めて食べて」 「おっす。いってらっしゃい」  毒気の抜けた、柔らかい表情でしくみは母を送り出して、窓から入ってくる朝日を背に受けてカレーを食べる。 「甘い。けど、うめぇ」  満腹になり、一眠り。  しばらくして暖かな日差しに起こされて、なんとなしにテレビをつけると、「ついに東京の桜が開花しました」というレポーターの声が聞こえてきた。桜の開花を特集しているワイドショー。画面いっぱいに映し出された上野公園の二分咲きの桜が、しくみの心をぐっと捉えた。  シャワーを浴びて、よれよれのジーパンと青いセーターを纏って外へ出る。庭の桜の枝木にも、いくつも淡いピンクの蕾が生っていて、しくみは目を窄めて幸せそうにそれを見つめる。  駆け足で向かった、桜の名所と名高い近所の大きな公園では、ちらほらと咲き始めた薄紅色の花を見ることができた。  噴水手前に設けられたベンチに腰掛けたしくみは、文庫本を読みながら時折、咲き始めの桜に目をやっては、穏やかに笑った。 「幸せは、自由と春の中にあるんだなぁ」  弧を描くように羽ばたく鳩を見上げて、しくみが呟く。  幼児連れの母親や、学校帰りの小学生や老人達が、しくみと同じように春の訪れに触れるために公園へと来ていたけれど、しくみと同じ働き盛りの男は一人もいなかった。 「くだらない下賎の人間社会から離れて、この世界が映し出す美しさに溶け込むように生きていく。これぞ真の人間の生活だよ。幸せってこんな近くにあったものなんだね」  夕食時。しくみは、予め用意された台詞でも読むように、和恵に言う。 「そう」  熱心に語りかけてくるしくみとは対照的に、興味なさそうに食卓に並べられたコロッケを口に運ぶ和恵。後ろではペスが、餌を貪り食べていた。  テレビには、レンガ造りの古い家々が水辺に並び立つ、ベニスの光景が映し出されている。最近、和恵が毎週楽しみにしている、世界中を映像で旅して回ろうという趣旨の番組だった。 「お金貯めて、旅行でも行けばいいのに」  煌びやかなサン・マルコ寺院や、バルに集う陽気なイタリアの人々の映像を見ながら、和恵が言う。 「俺はどこにも行きたくないんだ。春の日差しの中、安らかに生きていられればそれでいい。旅行の代金を稼ぐために、地獄に身を落とすなんて……矛盾してる」 「そう」  和恵の意識は、画面の向こうのベニスの光景にあって、上の空で言葉を返す。 「人の話、真面目に聞けよ」 「ごめんなさい。あ、それより後で蜜柑食べる?」 「食べるけど」  不満げに答えて、しくみだけに用意されたサイコロステーキと一緒にご飯を掻き込んだ。  するとその時、それまでストーブの前で丸くなっていたペスが、突然、玄関へと駆けていく。来客だろうか、ドアをノックする音が聞こえてくるや否や大声で鳴き始めた。 「こんばんわー」  外から聞こえてくる低い男の声。和恵はペスを叱り付け、鳴きやませてから玄関の鍵を開ける。  玄関先に現れた男は、いつぞやこの家の下で何かを測っていたスーツ姿の男で、今日は高そうなバーバリーのコートを羽織っていた。 「地代のことで話に来たんだけど、じいちゃんから何か聞いてます?」  後ろに流した長い茶髪を弄りながら、和恵に問う。言葉の調子にこれといって脅しつけるようなものはないのだけど、大きな身体のせいか身なりのせいか、どこか威圧するような雰囲気が男にはあった。 「地代って、条ヶ崎さん……」 「そうそう。この間、じいちゃんが倒れちゃって、それで俺がしばらく地代の管理とかすることになったんで。よろしく」  男の言葉が終わらない内に再び唸り声をあげ始めたペスを、和恵は慌てて窘める。 「すいません。いつもは、こうじゃないんですけど」 「いやー俺、動物に嫌われる性質なんで気にせずに。まっ、俺も嫌いなんでね。近づいて来ないようにだけしてくれれば」  一呼吸置いて、いきなり男は「ハッ!」とペスに向けて大声を発した。突然のことに面食らったペスは、抵抗する素振りも見せずに奥へと逃げていき、和恵もまた屈み込んだ姿勢のままびくりと肩を震わせた。 「それで毎月の地代の話なんですけどね。じいちゃんの書類を見たら、戦後のままっつーか。ちょーっとこの時代、ありえない値段じゃないですか? そこで少しばかり、値上げを……」  話しながら男は、ずいっと一歩踏み出して家の中へと入り込もうとする。突然の怒声を受けて困惑したままの和恵は、ただ呆然とそれを眺めていた。 「メシ時なんで。話は外でお願いします」  声を聞いてやってきたしくみが、前に出て押し出す形で条ヶ崎に対峙した。ようやく腰を上げた和恵もその後ろから、心配そうに顔を覗かせる。 「お、息子さん?」 「はい」 「凄い剣幕だねぇ。機嫌でも悪いの?」  男の威圧感に圧されないようにと、しくみは息を吐いてじっと男の目を睨みつけた。 「それで話って? 突然、値上げなんて言われても困るんですけど」 「んー、まぁそうだな。詳しいことは後で弁護士から送らせてもらうわ。不満だっていうなら、この土地を買ってもらってもいいんだし」  言うと男は、口に溜まった唾を庭に吐き捨てる。 「そもそも、じいちゃんから預かったとはいえさ。数万のはした金のために、こんなことしたくないんだわ。面倒くせぇ。まぁ素直に値上げに従うか、買い取るか、どっちでもいいから早く決めちゃってちょうだい」  しくみや和恵の返す言葉も待たずに、男はさっと振り返り、豊川家の庭から出て行った。  しくみは、軒先の水道からホースを引っ張ってきて、「殺してやる」と呟きながら、念入りに男が唾を吐き捨てた場所に水をかけ、洗い流す。  和恵はそんな異様な息子を、ご近所さんに見られたくなくて「蜜柑の用意が出来た」と言って、とっとと家の中へと入らせた。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

6人が本棚に入れています
本棚に追加