4話 母子と地主の土地

1/1
前へ
/6ページ
次へ

4話 母子と地主の土地

 日がな家に引きこもって暮らしていたしくみは、宗教の勧誘に訪問販売、豊原の家に訪れた人々を一々激しい剣幕で追い払った。選挙前に和恵の従兄弟が家に来て、なにやら和恵に特定の政党に投票するように薦めているのを聞きつけた時も、しくみは「家で二度と政治の話をしないでもらえますか?」と言って追い出した。 「すいませーん」  と、その日も何者かが豊原家の門を叩いたので、しくみはリビングでぼーっと携帯ゲーム機でテトリスをやり続けている和恵に、「自分が出るから」と言って表に出て行った。  初夏の日差しを受け、額に汗を滲ませた郵便配達員が封筒を差し出す。 「どうも。こちらサイン貰えますか?」  パジャマ姿のしくみは、炎天下、労働に従事するその人に対して引け目を感じながらも、封筒を受け取った。差出人は条ヶ崎仁。茶封筒には『内容証明書在中』というスタンプが押されていて、しくみは、怪訝な顔でそれを睨みつけてから、ゲームに興じている和恵の前に置く。 「また地主から。なんて書いてあるの?」  封筒の中から出てきた二枚の紙切れ。びっしりと書かれた文面の中には、『権利』という言葉が繰り返し繰り返し念を押すように書かれている。 「えっと。土地のお金、値上げした金額を認めないなら買い取れって。そうじゃないなら、もう家賃は受け取らないって」 「買うって……幾らくらいでって言ってきてんの?」 「確か、前に送られてきたものに……」  和恵は、リビングの後ろに置かれた棚から、一枚の紙を取り出す。 「二千万。なんでこんな、不便な所を……」  吐き捨てるように和恵が言う。  この家に対する母の素直な感情を垣間見て、しくみは表情を曇らせた。 「ちょっと待って。調べてくる」  しくみは、自分の部屋に戻ってパソコンで、地主の受取拒否といった事例を検索してみる。幾つも同様の事例を説明したホームページがあったので、ざっと流し読んでから和恵にあらましを説明し始めた。 「供託金って言うのを法務局に渡せば、そこから地主にお金を送ってもらえるって書いてあった」 「そうしないとどうなるの?」 「支払いをしなかったって言いがかりを付けられて、追い出されるってさ。この家を」  その言葉を聞いた和恵はしばらく考え込んでから、大きく息を吐いて辺りを見る。黒ずみ傷ついた柱に、ひび割れた壁。じっと部屋を見渡すと、やはり奥へと沈み込んでいるように見える。 「しくみは、この家にいたい?」 「当たり前だろ」  苛立ちを滲ませ、しくみが言う。 「俺には、ここしかないんだ」 「そう。それなら今度、ちょっと借地人組合の人に相談してみる」  言って和恵は、携帯ゲーム機の電源を入れて、再びテトリスを遊び始めた。  しくみは、何やらやる気になったのか、部屋に戻って先ほど起動したパソコンで就職情報を調べだしたのだけれど、一時間もすると疲れ果て、お気に入りの映画を見始める。  しくみの部屋に置かれたテレビに映し出されているのは、有名な映画賞を受賞したイラク戦争の映画で、物語も佳境に入り死線を潜り抜けてきた人々の葛藤や狂気が巧みに表現されていくと、それを見たしくみは「これが本質だよ」と呟きながら、一人部屋で号泣し始めた。 「豊原さん、302号室の相川さん。来て欲しいって」  清掃業務が一段落したところ、休む間もなくそう呼び掛けられて、和恵は三階へと続く長い階段を上っていく。額に滲み出た汗が、ゆっくりと頬を伝って落ちていった。このところずっと息苦しさを感じていて体調が悪く、今日など昼食も喉を通らず持ってきたお弁当をほとんど残してしまった。  十年前、製紙工場の跡地に建てられた和恵の勤める老人ホームは、三階が個室、二階が相部屋の居室が設けられていて、三階には富裕層の老人が多く住んでいた。  302号室に入ると、肥え太った老婆がベッドに横たわっていて、高そうな指輪を幾つも嵌めた手を振って、和恵を呼び寄せた。 「遅い遅い!」 「すいません……」 「お天気がいいうちにお散歩行きたいのよ。連れていって」  早口でまくし立てる老婆の脇に腕を通して、持ち上げようと力を込めたその時だった。心臓に尋常ではない刺すような痛みが走り、和恵は思わずよろけてしまう。 「危ないじゃない!?」  どすんとベッドに腰を落とし、老婆が声を荒げるが、和恵はすぐに応じることもできずに心臓を押さえて、息を整え痛みを鎮めようとしていた。  老婆は、呻く和恵をしばらく不思議そうに眺めていたが、窓の外の青空にいくらか雲がかかってきたのを見ると、 「早く散歩に行きましょう!」  と、大声で急かした。  和恵は、苦しげな表情で老婆の巨体を再度持ち上げて、横に置かれた車椅子に乗せる。それから老婆が満足するまで一時間、老人ホームの周りを車椅子を押して歩き回ったのだけれど、その間ずっと突き刺すような嫌な痛みが胸に残っていた。  しくみと同じ年の頃の青年が、繁華街で包丁を振り回し殺人を犯したというニュースを見て、しくみは満面の笑みで声をあげる。 「この犯罪者、失うものがないんだろうなぁ。だからこんな無意味な、メリットとデメリットがつりあわない行動に出る。かー! 惨め、惨めすぎる! そしてそんな惨めな人間を、安全圏から上から罵れるってのは最高に楽しすぎるな。被害者でも加害者でもない。傍観者ってなんて楽しいんだろう。この家から出なければ俺は被害者になることはない。そう絶対的な安全圏から、常に傍観者として世界を解釈できる。ああ、なんていう安上がりな万能感だろうか! はいはいコメンテーターさん、傍観者を無責任だなんだと批判しちゃったりします? でもそれ無意味だから。意味があるのは、この安全と幸福。その現実だけだから」  テレビに向かって吠え続けてるしくみの言葉を無視して、デザートのプリンを黙々と食べている和恵。しばらくして興奮が収まったのを見計らって、「しくみ」とその名を呼んだ。 「お母さん、手術することになったから」  意気揚々と世の人々を上から目線で馬鹿にし続けていたしくみが、虚を衝かれて間抜けな高い声をあげる。 「手術ってなんの?」 「心臓。不整脈の手術で、一週間くらい入院するみたい」 「大丈夫なの!?」  前のめりになって問うしくみに、和恵はプリンを食べながら淡々と応答する。 「難しい手術じゃないみたいだから。あっ、ゴミを捨てる日とかそういうのまとめて紙に書いておいたから、これ」  和恵から受け取った用紙には、箇条書きで『ゴミは火曜日に家の前に置いておくこと』『カンや瓶は、通りに出た所にあるゴミ捨て場の箱に入れること』などと言ったことが書かれていた。 「えっと、ペスはどうするの?」  和恵が、足元で丸くなっているペスの頭を撫でる。 「ペットホテル頼んだから大丈夫」 「洗濯機って、服入れて洗剤入れてボタン押せばいいの?」 「うん。朝方干したら、夕方前には取り込まなきゃダメよ」  一息ついてしくみは、プリンを食べる母の姿を眺め見る。女にしては身長が高く、大柄だった和恵は、背が低いしくみからすると子供の頃、とても大きな人というイメージがあった。だけど改めて見ると、痩せ細り、どうも一回り小さくなったように感じる。 「お母さん、縮んだ?」 「あんたがおっきくなったんじゃない?」 「俺、高校の時からずっと160。ちびっこだよ」 「じゃあ、縮んだのかな」  和恵は不愉快そうにそう言って、カップにこびりついたプリンをかき集めて口にする。 「本当に大丈夫なの?」 「大丈夫よ。病院の先生は、98%成功するって言ってたし。それよりあんたも、ちゃんと病院で診てもらったほうがいいわよ、お腹」 「でも、大きな病気が見つかっても、直す金もないし。そういえば手術代はあるの?」 「保険が降りるから」 「保険、入ってたんだ」 「あんたも入っておきなさい。お腹の調子、ずっと悪いんでしょ」  それだけ言うと和恵は席を立ち、台所で食器を洗い始めた。  しくみは、そっと自分の腹に触れてから、リビングを見やる。そこには古めかしい食器棚や、油がこびりついたガスレンジに並んで、小さく頼りなげな母の背中があった。  数日して、和恵はペスを連れて家を出て行った。  その夜。ひとりきりの家の中、ずっとしくみは寝付けずにいた。このまま母が帰ってこなかったら、自分はどうなってしまうのだろうか。そうしくみは自らに問いかけるが、答えは出てこない。それは別に、経済的な問題だけではない。豊原の家から人の気配がなくなったその夜、しくみはとても寂しかった。人との関わりに傷つき、社会との断絶を望んだしくみだけれど、誰もいない孤独な世界で生きていけるほど強い人間ではないのだ。  その時だった。突然、長い縦揺れの地震が起きて、木造建ての豊原の家は震度以上にその身を揺らした。  いつか来たリフォーム会社の男が見せた、風呂場の下の腐食した土台の写真。柱に対して、斜めに垂れ下がったリビングの五円玉。しくみは、不安げにこの家が置かれた状態を思い返す。血の繋がりがなくともしくみを一人でここまで育て、この家の大黒柱となり、支えてきた和恵は、もうこの家にはいない。 「倒れる?」  弱々しく呟くしくみと、カタカタと音を鳴らし振動に耐える豊原の家。布団を頭から被って地震をやり過ごそうとするしくみの心の奥底に、嫌なイメージが沸き起こってくる。滑り落ちるようにして倒壊し、瓦礫と化した家のイメージ。それはとても鮮明で、見てきたことのように閉じた眼の中に浮かんできて、消えない。  夜の静けさに溶けていくように直に地震は収まったが、しくみの胸の内に沸き起こった不安は決して消えることはなかった。  和恵が勤める老人ホームの個室より、一回り狭い病室に和恵を含めた四人の病人は詰め込まれていて、オレンジ色のカーテンで仕切られた空間でそれぞれ退屈な時間を過ごしていた。  窓際のベッドを与えられた和恵は、呆け顔で空を見上げる。  午前中に診察を受けた時に、先生は改めて「98%の確率で成功する」と言って安心させてくれたけど、2%の確率で失敗して死んでしまうのかもしれないんだ、とつい和恵は後ろ向きに考えてしまう。 「死ぬ前に、どこかに行きたいなぁ」  思わず声が漏れる。青空には、彼方へと伸びる幾筋かの細い雲がたなびいていた。 「お母さん」  カーテン越しにしくみの声がしたので「こっちこっち」と言うと、カーテンが開き、よれよれのスーツを着たしくみが現れた。 「手術は、これから?」 「今日の夜にやるって。昨日から何も食べてないから、お腹減っちゃって」 「頑張ってよ。それで、ちゃんと家に帰ってきてよ」  家ではあまり聞いたことのない、優しげなしくみの声。あまり眠れてないのか、その目の下には深い隈が出来ていた。 「あっ、これ入院中にやって」  しくみは、鞄からテトリスのソフトが刺さった携帯ゲーム機を取り出して和恵に渡す。 「入院中、暇だろうし」 「ありがとう」  携帯ゲーム機を受け取って傍らに置くと、和恵はしくみを不思議そうに眺め見る。 「それよりそのスーツ。どうしたの?」 「俺は、これから面接。前の仕事紹介してくれた、派遣会社に連絡取ってみて……」  緊張で強張っていた和恵の顔に、笑みが弾ける。 「なんで、すぐ行くけど。何か欲しいものあったらメールして。持ってくるから」  照れ臭そうに母との会話を早々に打ち切って、しくみは病室から出て行った。  それから看護士達が手術の始まりを告げに来るまで、和恵は何時間もテトリスを遊び続けた。 「移動ベッドに移しますね」  普段、和恵が老人ホームの老婆にしているような手付きで看護士達が、そっと和恵の身体を持ち上げて移動式のベッドに乗せてくれる。 「緊張していますか?」  横たわった和恵の顔を覗き込んで、若い看護婦が聞く。  大きく息を吐いて、固く拳を握り締め、 「大丈夫そうです」  和恵は、毅然とそう答えた。  落ち着かない様子できょろきょろと会議室を見回し、時折首を締める窮屈なネクタイを締め直したりしながら、しくみは面接官を待っていた。共に面接先へとついてきた派遣会社の女性が、しくみを落ち着かせようとこの会社の素晴らしい点などを説明してくれたのだが、全く頭に入ってこなかった。  なんだか懐かしい感じだな、と胃の辺りを締め付ける感情に触れてしくみは思う。家に引きこもっている間は、先行きに不安を感じることはあってもこの手の他者を前にした圧迫感、緊張感とは皆無だった。しくみと和恵とペスと、二人と一匹、しくみを脅かすもののない暖かい世界がそこにあった。  久方ぶりのストレスが、しくみにいらぬ過去を思い出させる。  高校を卒業して大手家電量販店に就職したしくみは、仕事を覚える間もなく会社に行かなくなった。学生のときはずっと机に突っ伏して、拒絶してやりすごしていた人間関係というものが、容赦なくしくみの心を引き裂いていったのだ。  それからもいくつかの仕事についたが、軽いイジメがあったとか過酷な労働環境だったとか理由は様々だが、とにかくしくみは外の人間に馴染めずに辞めてしまった。  ただ座って人を待っているだけなのに、積み重なった過去に追い詰められて、しくみはすでに泣き出しそうな顔をしていた。そして面接担当者が部屋に入ってくる。 「お待たせして申し訳ありません」 「いえ、こちらこそ。本日は……あの……」  慣れた様子でこちらを伺う若い面接官と対照的に、しくみは動揺し、顔の筋肉はぴくぴくと震え、話すべき言葉を失ってしまった。挨拶を交わし名刺を差し出された後も、 「あの……えっと……名刺、持ってなくて……」  と、もごもごと言うことしかできず、派遣会社の女性の表情を曇らせた。  始終そんな調子で、面接は進む。日頃家で母親を前に見せていた、傲慢で饒舌なしくみの姿は、欠片も存在しなかった。  リビングに投げ出されたままのしくみの洋服。台所に置き去りにされた皿は、どれも食べ物の残りカスがこびりつき、汚れが定着してしまっている。磨りガラス越しの柔らかなひかりが、無残にも荒れ果てた豊原の家を照らしていた。  食卓の傍らに並べられた椅子の上、眠るしくみの顔には、苦悶の表情が浮かんでいる。先程から玄関の戸をノックする音がずっと聞こえているのだけれど、ただ何かに耐えるように身体を丸めるだけで起き上がることが出来ずにいた。  荒々しくドアを叩いていた主は直に諦め去っていって、涼やかな風を送るクーラーの囁くような音だけが、その静けさに響く。  そして一時の後。 「ただいま」  と、耳に馴染んだ声が聞こえてきた。薄く目を開け顔を上げたしくみの視線の先には、和恵とその足元を嬉々として駆け回るペスがいた。  帰って早々和恵は、投げ出されたしくみの洋服を拾い集めて、洗濯籠に放り込んでいく。 「どうしたの、こんな所で寝ちゃって」 「俺の部屋、クーラーないでしょ」 「それにお酒臭い」 「三日酔い……全然、治らないんだ」  しくみは、そっと目を閉じる。 「それと仕事、辞めたから」  そう呟いたしくみに、和恵はなにも言葉を返さなかった。慰めても諌めても、どう答えてもしくみの逆鱗に触れると思ったからだ。 「椅子、返して」  和恵は、しくみがベッド代わりに並べている椅子の一つを奪い、自分の席へと戻して座る。 「おかえり。身体の調子はどう?」 「あんたよりいいわよ」  見ればしくみの肌は土気色でぼろぼろ。相当、無茶な飲み方をしたことが窺い知れた。 「なら良かった」  しくみは、そう呟いて瞼を下ろす。閉ざされた視界の中、ステンレス製の台所に落ちる重たい水の音に混じって、カチャカチャと鳴る食器の音が聞こえてくる。こんなありきたりな生活音を耳にするのも、久しぶりのことだった。  荒れ果てた家を一通り綺麗にして、溜まっていた郵便物を一つ一つ確認していた和恵が、茶色の封筒を手に取り、封を開ける。 「条ヶ崎さん、家に来たんじゃない? 今日、大事な話をしに来るって。この手紙」  しくみは、もう心地良さそうに寝息をたてて眠り込んでしまっていて、和恵の問いかけはぼんやりと宙に浮いてしまう。  しんと静まり返った久しぶりの我が家。久々のせいか、リビングの奥へと傾く傾斜を和恵は、妙に意識してしまう。 「帰ってきちゃったわねぇ」  和恵は、膝に手を乗っけて甘えるペスに思わず独りごちてから、改めて条ヶ崎から送られてきた手紙を一読し、深い溜息をついた。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

6人が本棚に入れています
本棚に追加