5話 侵入する蟻

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5話 侵入する蟻

 二階にある和恵の部屋は、元々は夫婦二人の寝室だったのだけれど、夫が死んでからずっと和恵の私室になっていた。十二畳の畳張りの広い部屋に、一人用のベッドと白い木造の棚が置かれただけのからっぽの部屋。ガラス戸が取り付けられた古ぼけた白い棚も、夫の写真や犬の小物やらが、三段の中棚にちらほら置かれているだけで隙間だらけだった。  和恵は、自分の部屋を通り抜けた先にあるベランダで、洗濯物を干している。入院していた間に溜まっていた洗濯物が、所狭しと物干し竿にぶら下がっているけれど、まだまだ干さなければならない洋服は山積みだった。  退院明けで身体が本調子ではないのか、和恵は息切れをしてしまい、ふと手を止めて彼方を見る。  崖沿いに建っている豊原家のベランダからは、辺りの住宅街が一望できた。様々な色をした屋根が、モザイク状にどこまでも広がっていて、その先には雲ひとつない青空がある。  条ヶ崎から送られてきた手紙には、正式な地代としては供託金は受け取らないから、出て行くか家賃の値上げに同意するか、この土地を買い取るかして欲しいという旨の内容が書かれていた。前よりも手紙の語調は険しいものになっていて、裁判やら告訴やら、責めるような言葉が目に付いた。 「裁判なんて、する理由もないのに」  鉛色の鉄柵に、和恵は手をかける。ベランダを越えて、滑り落ちるように屋根を落ちていけばきっと命は潰える。向こう側へと傾いたこの家の傾斜も、わずかながらにせよ和恵の落下を勢いづけてくれるだろう。  澄んだ夜空にくっきりと浮かび上がった中秋の名月に、豊原家はふわりと照らされ、崖から突き出た不安定な姿を辺りに曝していた。 「なんでレタスだけなんだよ。虫かよ、お前」  夕食時の食卓。しくみの前には、豚肉の生姜焼きや唐揚げといったおかずと一緒にご飯が置かれているのだけれど、和恵の前には、鉄のボウルに入った大量のレタスしか置かれていなかった。 「そういう気分だったから。後、お前って言わないで」 「お前お前お前お前お前お前お前お前!」  怒りを滲ませたしくみの言葉に、不満げに顔を上げる和恵。 「こないだの朝食や昼食も、お母さんレタスだけだったろ。おかしいなと思ってたんだよ」 「何食べても勝手じゃない」  舌打ち一つ、突然、しくみは自らの椅子を殴りつけた。 「死ねよ馬鹿野郎! 身体壊したばっかだろ。しっかり炭水化物取って、栄養のバランス考えて生きろよ。食事は、食べたいから食べるものじゃないんだ。生きるために食べるものなんだよ!」  しくみは、打った手をさすりながら大声をあげる。  怒声を聞きつけて、慣れた調子でペスは二階へと逃げていった。取り残された和恵は、突然喚きだしたしくみの声にひるんでしまう。 「大体、前もそういうことあったろ。夕飯、お菓子で済ませて食べられないとか。お前はガキか!? 大人だろ!? そういう病的なの気持ち悪いんだよ。気分じゃなくてきっちり自分のこと、一から十まで全部コントロールして生きろよ馬鹿野郎!」 「ごめんなさい」 「何がごめんだよ。こっちの話、何も理解してないだろ!? 一体、何を謝ってるんだよ」  早口でまくしたてるしくみの言葉に和恵が戸惑っていると、しくみはいよいよ苛立ち席を立つ。 「ほら、説明してみろよ。一体、何を悪いと思ったんだよ?」 「その……レタスばかり食べてて……」 「それは表層的なものだろ。そういう行動を取るお母さんには、どういう欠陥があったっていうんだよ。そういう部分をきちんと認識しないと意味ないだろ」 「欠陥なんて別に……」 「ほら、理解してないだろ! いや、俺だって完璧にコントロールできてないよ。ストレスが溜まったら酒に逃げて、身体を壊す。だけどその異常を認識して生きるのと、無意識に行い続けるのは違うだろ!」  すっかり赤みを帯びた顔で、しくみは叫び続ける。 「真剣に、生きようと考えろよ! お前も俺も、百まで生きるんだよ。この家で!」  しくみの言葉を聞いて、和恵は、勤め先で介護されている老人達を思い浮かべた。寿命を延ばすことに執着し、呆けていき、横柄な態度で介護士達に我侭を言い続ける人々。中には穏やかに最期を迎える人もいるが、どのみち誰かに迷惑をかけながら生きていることに変わりはない。 「別に、長生きなんてしたくないし……」 「なんでだよ! 生きてなきゃゼロだぞ。自分が生きてなきゃ、全ての存在に意味なんてないんだぞ」 「迷惑かけずに、ぽっくり逝きたいの」 「面倒なんて、俺が見てやるよ。だからちゃんと栄養取れよ!」  いきり立ち、両手を大きく震わせてしくみが叫ぶ。  和恵は、自分の身体が動くなった時に、しくみに介護ができるとはどうしても思えなかったし、されたくもなかった。 「わかった」  だけど、勢いよく突きつけられたしくみの言葉に押されるように頷いて、台所からご飯と蒲鉾を持ってきて、サラダと一緒に食べ始めた。 「やりたいこととかないのかよ」  一息ついたしくみが、まだ熱い感情を燻らせながら聞く。 「しくみは、あるの?」 「夕焼けや桜を見たり、映画を見たり、ゲームやったり。なんでもいいんだ。もっと生きて沢山、感動したい。できればあまり人と触れ合わずに」 「凄いね」 「馬鹿にしてんの?」 「なんでそう思うの。素直にそう思っただけよ」  和恵は野菜と、しくみは豚肉の生姜焼きと併せてご飯を食べる。  結局その夜、怒鳴り散らしながら夕飯を食べたせいで消化を悪くしたのか、しくみの方が腹を壊してしまい、朝方まで冷や汗をだらだらと流して悶え苦しむこととなった。  年が明けてから、どうも和恵の様子がおかしい。  夜遅くまでパソコンをいじっていたかと思えば、やたらと長電話などしたりする。それに出不精だった和恵が、妙に外出するようになった。その日も夕食は外で食べるからと、おでんを作り置いて出て行って、しくみは一人、リビングで味の染み込んだ大根をつまみにビールを飲んでいた。 「まさか男でも……」  と、ふと思ったが、滅多に化粧などしない和恵が、ぶっきらぼうにしていた厚化粧を思い出し苦笑いしてしまう。彫りの深い男顔も相まって、まるで男が女装しているような感じだった。  一番ありそうなのが親戚や友達経由で、宗教やネズミ講の販売会などに誘われ食い物にされているといったパターンだった。前にも親しい親戚を名乗る政治団体の党員が家に来て、人の好い和恵に自分達が支持する人間に投票するよう熱心に語りかけていたことがあって、しくみはそれを目撃するや否やすぐに家から追っ払った。  夜遅くに疲れきった様子で帰ってきた和恵は、それでもすぐ寝ずに、やはりパソコンで何かを熱心に調べ始める。トイレに行こうとリビングを通りかかったしくみが「何やってるの」と聞いても、上の空で「うん」と答えるだけで要領は得ない。部屋に戻る際、こっそりパソコンの画面を覗き見たが、なんの変哲もない旅行会社のホームページが表示されているだけだった。  ゴミのたまった豊原家の雨どいは、雨水を集水器へと運ぶこともできずに崖下へ雨水をこぼしていく。漏れ出た雨水は、激しく地面へと落ちて音を鳴らした。  また胃腸を悪くしたのか、お腹をさすりながらリビングへ入ってきたしくみを、机に突っ伏して眠る和恵が出迎えた。和恵の前には点けっぱなしになった携帯ゲーム機が置かれていて、ざぁざぁと振る雨の音に混じって、電子音の音楽が聞こえてくる。 「お母さん、風邪引くよ」  火が灯った灯油ストーブが傍らにあるとはいえ、この隙間だらけのリビングはやはり肌寒い。雨など降っていれば、尚更だ。 「あっ、しくみ。お母さん、来週からイタリアに行くから」  寝ぼけ眼の和恵が、ぼんやりとした調子で言う。 「急だな。しかもイタリアって」 「二週間。ペスは、またペットホテルに預かってもらうし、後は……ゴミの出し方とか大丈夫?」 「うん。燃えるゴミは火曜日だよな、確か」  突然の話に驚きはしたが、しくみはそれを表に出すのも格好悪いと平静を装うことにした。 「でも、どうしたの。急に旅行なんて」 「健康な内に、行っておかないとって思って」 「ふぅん。でも、海外旅行なんて行ったことあるの?」 「ずっと昔、新婚旅行で行ったきりよ。ハワイ」 「楽しかった?」 「うん。でもドライブに出たら、譲ちゃん道に迷っちゃってね。せっかく良いホテル取ったのに帰れなくて。向こうに着いた日は、結局、モーテルに泊まることになっちゃったの」 「ちゃんって、そんなおっちょこちょいだったんだ」 「たまにねぇ」  和恵が、小さなテーブルに置かれた位牌に視線を送る。 「殺風景なモーテルだったけど譲ちゃん、これじゃあんまりだからって花を買ってきて飾ってくれたの。ハイビスカスとか、そういうのいっぱい」 「ロマンチストだ」  思わず半笑いになり、からかい気味にしくみが言う。 「まぁ、楽しんできてよ。あ、お土産よろしくね」 「わかった」  話を済ますと和恵は、そそくさとペスを連れて二階へ上がって行く。  しくみは、食卓の脇に山積みにされた紙束の中から、イタリアのツアーパンフレットを取り出してぺらぺらと捲ってみたが、どうにも興味が持てずに、すぐに閉じて部屋へと戻っていった。 「ベチャベチャ気持ちわりぃんだよ!」  と、声を荒げたしくみが手元にあったポカリスエットを壁に向かって投げつけたのは、深夜三時の頃合だった。和恵は、青ざめた顔でリビングに飛び散った薄白い液体を雑巾で拭き取っている。  泥酔していたのでそこに至った経緯を、しくみは、細切れにしか覚えていなかった。確か酔っぱらいながらも一応は騒ぎ立てずに帰ってきたはずだったのに、物凄い剣幕で和恵がリビングに下りてきたのだ。 「前に警察に捕まった日のこと。トラウマになって、眠れないのよ。どこかで騒いでないかって気になって」  責めてたるような調子の和恵の言葉に、逆上した覚えがあった。 「俺が自殺するとすればお母さんへの嫌がらせのためだけだな。朝、お前が降りてきたらそこで首を吊っているんだよ。せいせいするだろ」やら「お前程度のついてる嘘が分からないと思ってるのか? バレてるんだよ全部。知恵もないのに何が和恵だよ恥を知れ」だの思いつく限りの罵声を浴びせかけた。 「こんな無職と血が繋がってなくて、清々してるんだろ?」 「生まれ直せよ出来損ない!」 「なんで生まれてきたんだよ!」  酔いに任せて、和恵に投げつけたはずのその言葉は、いちいちしくみの心を傷つけていった。しくみはそうして最終的に、行き場のない不満を吐き出すように、ポカリスエットを投げつけてしまったのだ。  ひとまずその夜は、気まずさを感じたしくみが部屋へと引っ込みそこで事態は収まったのだけれど、二日後のこと。昼頃にしくみがリビングへ赴くと、そこら中を列を成した蟻の大群が行進していた。ひび割れた壁や、台所に備え付けられた窓枠の端から、次から次へと侵入してきている。  日々を暮らすその場所が、小さな黒点に埋め尽くされた悪夢のような光景を前に、しくみは思わず思考を止め、母の帰りをただひたすら待った。 「なにこれ!?」  声をあげながらも和恵は、そそくさと塗らしたペーパータオルで蟻を殺してはバケツに投げ捨て始める。 「しくみもやって」 「えっ……うん」  促されるまま、家へと侵入してくる蟻をひたすらに殺した。しかし殺しても殺しても、すぐまた蟻は老朽化した家の隙間から入り込んでくる。 「ポカリスエット、ちゃんと拭き取ったのに」  うんざりとした様子で、和恵が言うと、 「ごめんなさい」  と、珍しくしくみは素直に謝って、蟻を殺す。  一度、甘い汁の味を覚えた蟻は、翌日もその翌日も現れては豊原の家を蝕んだ。和恵が仕事に出ている間、しくみは必死に蟻を殺し続けたが、無尽蔵に蟻は湧いてきて豊原の家を蹂躙した。蟻と親子ふたりの戦いは続き、和恵が旅行に行く前日になってようやく不気味な黒点の群れを駆逐することができた。しくみがインターネットで調べ、購入した蟻を撃退する薬品が効いたのだ。  敷石が敷かれた豊原家の昔ながらの玄関。朝の薄いひかりが落ちて、爪先が破けたしくみの靴や、規則正しく並んだ和恵のスポーツシューズを白く照らす。  銀色のキャリーケースを引いてやってきた和恵が、キャリーケースを土間に降ろそうとしたところ、その重さを支えきれずに勢いよく倒してしまった。 「なにやってんの」  と、物音を聞きつけて起きて来たパジャマ姿のしくみが、キャリーケースを起こすのを手伝う。ぎゅうぎゅうに物が詰め込まれているキャリーケースは思ったよりも重くて、二人がかりでも持ち上げるのに力が要った。 「そういえば、今日だっけ。行くの」 「起こしちゃった? ごめんなさい」 「まぁ気をつけて行ってきてよ」 「しくみも火の始末には気をつけて。後、譲ちゃんのお花の水と、庭の水撒きよろしくね」  譲の遺影が飾られた小さなテーブルには、桃色のスイートピーが生けられている。しくみは玄関からリビングに置かれたそれを見やると、「わかった」と頷いた。 「それじゃ行ってきます」 「いってらっしゃい」  キャリーケースを引きずって出て行く和恵を見送って、一人きりになった家を歩く。しんと静まり返った朝の空気も相まって、「この家にはもう誰もいないのだ」と改めて思った。元々、祖父と祖母、それに両親としくみ、五人で住んでいた家なのだ。一人で暮らすには、やはり広すぎる。 「ちょっと、しくみ!」  しんみりと俯いたしくみと、外から聞こえてくる和恵の声。外に出ると家の前の階段の踊り場で、キャリーバックを傍らに置いて立ち尽くす和恵がいた。 「上まで持っていくの手伝って」  階段の途中に家の入口がある立地上、キャリーバックを上なり下なりに持ち上げて運ばなければならなかった。 「アホ。マヌケ」  しくみは悪態を吐きながら、和恵と一緒にキャリーバックを両脇から抱える。どこか嬉しそうなしくみとうんざり顔の和恵は、同じものをふたりで抱え、一段一段階段の上まで歩いていく。 「ありがとう。それじゃ改めて。さよなら」  言って和恵は、去っていく。 「さよなら?」  しくみが、和恵が残した言葉を反芻する。  柔らかな朝日を、大きな手を広げ受けとめる桜の枝々には、また今年も新たな春を咲かせんと小さな蕾が実っている。その瑞々しい芽吹きとは対照的に、豊原の古屋は、日々命を削り取られ、逃れられぬ死へ緩やかに向かうやつれきった老人のように、そこに佇んでいた。 「俺、今日なんもやってないっすよぉ」  夜道を歩く赤ら顔のしくみが、後をついてくる二人の警察官に大きな声で語りかける。 「ふらふらだろ。それに、さっき叫びながら電柱殴ってたぞ」  見ればしくみの拳の頭は裂け、夜道に点々と血痕を残しているが、しくみは酔いで痛覚が鈍っているのか、気にする様子も見せずにふらふらと歩いていた。 「家まで送っていくだけだから」 「それはそれは! どうもありがとう!」 「声大きい。みんな寝てるんだから」  しくみをたしなめている白髪の警察官は、しくみが警察署に保護された時に応対した年配の警察官だった。警察官は、あのとき警察署に迎えに来た所在なさげな和恵の姿を思い浮かべながら、しくみに声をかけた。 「お母さん、心配させちゃダメだろう」 「心配も何も、もういないんすよ」 「何かあったのか?」 「旅行で、イタリアに行ってて」 「だったら尚更、心配かけるようなことはしない」  幼くして父親をなくしたしくみにとって、初老の警察官の低い、落ち着いた声の響きはどこか懐かしいものに感じられた。だからかしくみは泥酔しながらも、素直に「俺も誰にも迷惑かけたくないんすけどね」などと打ち明ける調子で、言葉を返す。 「中身の伴ってない、でっかくなった自意識があって。それがどこに出掛けても、軋轢を作るんすよ。学校でも、社会の中でも、女の子と話してても。中身がないから思ったように認められない。認められてないって気持ちだけが、心をバリバリ侵食してって、俺はそいつらを攻撃するか、離れるかの二つの選択肢しか選べなくなる」  うわ言めいたしくみの言葉を聞き流しながら警察官は、しくみの後をついてくる。 「やっぱり俺、病気なんすかね?」  別れ際、しくみが警察官にそう聞くと、 「それは医者じゃないと分からん。まぁ、もういい年なんだから大人になってな」  と、答えて去っていった。  しくみは、暗がりの家に明かりを灯して、うなだれたまま立ち尽くす。 「愛してるんだよ!」  和恵もペスもいない家。しくみの荒げた声に、応じる者はいなかった。  渇いた血に染まった拳と、おぼろげな記憶と二日酔い。それに鬱々とした気持ちだけが、翌朝目覚めたしくみに残った。手を洗い、かさかさになった顔を洗面所で洗っていると、急に内臓の奥から突き上げてくるようなものを感じてトイレに駆け込んだ。  何度も何度も吐いていると、透明な胃液しか終いには出なくなってくる。そしてその後、吐き出した胃液の中に、血が混じっていた。  しくみはトイレに浮かぶその赤い血を見た時に、自らの身を案じるよりも先に、この血に和恵の血は流れていないんだな、とおかしなことを考えた。
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