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 次にはるくんと話したのは、翌日の昼休みだった。 「まひろ、いっしょに食べよ」  お弁当を手に私の席へやって来たはるくんが、そう言って私を誘う。それはいつもと同じ時間の、いつもと同じ台詞なのに、なぜだかはじめて聞く響きがした。  中庭に出ると、陽が高くて日差しが眩しかった。  木陰になっているベンチに座っても、地面から立ち上る熱気がまとわりついてきて、以前ほど風の涼しさを感じられない。少し遠くでは蝉も鳴いている。 「暑くなったね」  お弁当のふたを開けながら言うと、そうだね、と隣に座るはるくんもお弁当のふたを開けながら相槌を打った。 「前はここ涼しかったのに。外でお弁当食べるの、もうきついかもね」 「そうだね。明日からは教室のほうがいいかな」  なにも考えず口にしたあとで、私はすぐに後悔した。明日、なんて。  はるくんが言葉を探すように一瞬黙って、すっと背中を冷たい震えが上る。 「あ、そういえば」早く流してしまおうとあわてて口を開いたら、思いきり声が上擦った。 「もうすぐ中間テストだね。はるくん、英語は大丈夫――」 「まひろ」  ひどく静かな声で、はるくんが遮った。はじめて聞く声だった。 「今日で最後にしよう」  その言葉は、鼓膜に突き刺さるみたいに響いた。  硬い鼓動が頭の裏まで高く鳴って、つかの間、息が止まる。 「……なに、を?」 「いっしょにお弁当食べたり、いっしょに帰ったり、休みの日にどっか遊びに行ったり、そういうの」  言いたいことは、たくさんあったはずだった。だけどいざはるくんにそう言われてしまうと、息が詰まってなんの言葉も出てこなかった。  うつむいたまま、うん、と小さく頷く。箸を握る指先が冷たい。 「……昨日、かすみちゃんと話したの?」  うん、と頷いてから、はるくんはちょっと迷うような間を置いて 「話したよ。まひろが言ってた、かすみがずっと片思いしてた相手のこととか」  私は膝の上に置かれたお弁当に視線を落とした。  煮込みハンバーグに半熟のゆで卵と、ポテトサラダ。今日に限って好きなものばっかり詰まっている。だけど重たい鉛がお腹の底に落ちたみたいで、なにも入りそうにない。 「結婚するんだって、その人。ずっと付き合ってた彼女と。だけどかすみは、それでもまだ好きで、あきらめきれないって」  抑揚のない口調で言って、ため息をつくみたいに笑う。心底あきれたようなその声は、だけどどこか穏やかにも聞こえて、ちりっと胸が痛む。 「……はるくんは、かすみちゃんになんて言ったの?」 「バカじゃねえの、って」  え、と思わず声を漏らしてしまうと、はるくんはごまかすように笑って 「たまにイライラしちゃうんだよね。かすみの、そういう話聞いてると」  イライラ、と口の中で復唱する。ふと昨日聞いた加納くんの言葉を思い出した。加納くんも、私を見ていたらイライラするのだと言った。でも。 「……でも、好きなんだね。かすみちゃんのこと」  うん、とはるくんは静かに頷いた。 「俺もかすみといっしょで、バカみたいなんだけど。かすみは俺のことなんて全然見てなくて、でも、どうやっても無理だった。かすみをあきらめるの」  ごめん、と絞り出すような声ではるくんが言う。はるくんのほうを見ると、途方に暮れた子どもみたいな横顔があって、私は大きく首を横に振った。  はるくんのお弁当箱も、ふたを開けられたきり、なにも手をつけられずただ膝の上に置かれている。プチトマトとか花形のにんじんとか、いつも彩り豊かでかわいらしいそのお弁当は、お母さんではなく大学生のお姉さんが作ってくれているのだと、前にはるくんから聞いた。まだ、付き合いはじめたばかりの頃、この場所でいっしょにお弁当を食べながら。 「勝手で、ごめん。付き合ったときは、まひろのこと、好きになれると思った。そうやってまひろのことだけ見てれば、かすみのことなんていつの間にか忘れてるって。でも」 「いいよ」  楽しかった。いっしょにお弁当を食べるのも、いっしょに駅まで帰るのも、休みの日にいっしょに出かけるのも。その柔らかな声で名前を呼ばれるだけで、胸がいっぱいになって叫びだしたくなるくらいうれしくて、幸せだった。私のこれまでの人生で、きっといちばん幸せな時間だった。  だから。 「私、うれしかったから。はるくんといっしょにいられて、幸せだった」  ただ純粋に感謝を伝えたかったのだけれど、我慢できずに声が少し震えてしまったから、はるくんをよけいに困った顔にさせてしまった。 「だって私、私ね」それを見て、私はちょっと焦って言葉を継ぐと 「はじめてだったんだ。誰かに、あんなふうに好きだって言ってもらえたの。中学とか、人に嫌われてばっかりで、こんな私に、はるくんみたいなすてきな人が近づいてきてくれたんだもん。それだけで夢みたいで」 「……まひろ」 「だから、いいの。むしろ、私なんかに何ヶ月も付き合ってもらって、もう充分すぎるほど夢見させてもらったから、だから」 「やめなよ」  ふいにはるくんが強い口調で遮った。  私が驚いて黙ると、はるくんは膝に置いていたお弁当を横に置いて、身体ごとこちらに向き直った。なにか苦いものを食べたみたいな、だけどひどく真剣な表情で、まっすぐに私を見る。その強い視線に、思わず息を詰めて彼の目を見つめ返すと 「私なんか、とか言うの。まひろ、かわいいし」 「え」 「今更俺に言われてもあれかもしれないけどさ、でも」  そこではるくんは一度言葉を切ると、少し悲しそうに目を伏せて 「俺、ほんとにかわいいと思ってた。まひろのこと。髪型とか服装とか、頑張って俺の好みに合わせようとしてくれてるのも知ってたし、そういうとこかわいくて、大事にしたいって思ってたのは嘘じゃなくて」 「……うん」 「弘人の気持ちも、俺ほんとはだいぶ前から気づいてた。でも弘人に渡すのは嫌で、手放したくなくて、ほんと勝手なんだけど、俺はまひろといっしょにいたかった、これからも。かすみの」  ふいに中途半端なところで言葉を切ったはるくんは、そこでちょっとためらうような間を置いて 「かすみの、代わりとかじゃなくて」  だけどはっきりとした声で、そう続けた。  だから、とはるくんは押し出したような笑みを見せる。いつもの柔らかくてきれいな笑顔とは違う、どこかぎこちなく、不格好な笑顔。だけど今まで見たはるくんのどの笑顔より優しくて、ふいに目の奥が熱くなる。口を開くとなにか堤防が壊れそうで、きゅっと唇を噛む。 「そんな卑下するようなこと言わないでほしい。私なんか、とか。まひろはかわいいよ。俺、自信もって言えるもん」  顔を伏せて何度も頷いていると、はるくんがふっと私の頭へ手を伸ばしかけたのがわかった。けれど途中で思いとどまったようにその手は動きを止め、またはるくんの膝に落ちる。 「ごめんね、本当に」  はるくんが繰り返す。だから私も、何度も首を横に振った。  遠くで、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。  はるくんがお弁当を片付けて、ベンチから立ち上がる。そうして私のほうを見て、「戻ろっか」と言った。だけど私は首を横に振ると 「私、もう少し、ここにいるね。はるくん、先に戻ってて」  はるくんはちょっと戸惑ったような顔をして、なにか言いかけたのがわかった。だけど思い直したように、「わかった」とだけ返すと、ひとり校舎のほうへ歩いていった。  遠ざかる背中を見送りながら、私はゆっくりと息を吐く。涙は、すぐにあふれてきた。よく耐えた、と思う。はるくんの前で泣かなかったことは自分で褒めてあげたい。昨日、気が済むまで泣かせてもらったおかげかもしれない。  中庭からは潮が引くみたいに人がいなくなって、授業の開始を告げる本鈴が鳴る頃には、私以外誰もいなくなっていた。だから嗚咽も堪えず、思いきり泣いた。  はるくんとかすみちゃんがうまくいってほしいとは、まだ思えなかった。今はただ、もうあの手が私に触れてくれることはないのだという事実が痛くて、かわいいとか好きだとか、私に向けてくれたそんな甘い言葉を、あの柔らかな声ではるくんはかすみちゃんにも言うのだろうか、とか、そんなことを考えたら指先から引きちぎられるような感覚が襲ってきて、ただ、その痛みのために泣いた。  失ったものを刻みつけるために。恋の終わりを、しっかりと見送るために。
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