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 いつの間にかクローゼットのだいぶ奥に追いやられていた、ギンガムチェックのフレアワンピースをハンガーから外した。  はじめてのバイト代で買った、高校生にしては少し値の張るブランドのワンピース。あんなにお気に入りだったのに、袖を通すのはずいぶん久しぶりだった。  鏡の前に立って、自分の姿を確認してみる。短くなった髪が、甘いワンピースとはあまり馴染んでいない。今更ちょっと後悔しながら、サイドをねじってピンで留めてみたり、出来る限りのアレンジをしてみる。なかなか満足のいく出来にはならなかったけれど、気づけば待ち合わせの時間が迫っていたから、そのまま家を出た。  久しぶりに履くヒールの靴に少し苦戦しながら駅に行くと、すでにはるくんが待っていた。 「ごめんね! 遅くなって」 「全然。俺も今来たところだし」  はるくんは笑顔で首を振ったあとで、ふとなにかに気づいたみたいに私をじっと見た。あれ、と小さく呟く。続く言葉に、私が思わず緊張して、右手でワンピースの裾をつかんだとき 「なんか今日のまひろ、いつもと雰囲気違うね」 「そ、そうかな」 「うん。なんか新鮮。そういう格好もするんだね」  ああ、本当に。強張りそうな顔を隠すように、私はうつむいて曖昧な相槌を打つ。本当に、はるくんはわかりやすい。おかしいかな、と尋ねかけて、やっぱりやめた。返ってくる言葉なら、よくわかっていた。思わず黙り込んでしまった私に、はるくんはなにも気にした様子はなく笑って 「じゃあ、行こ。映画、始まっちゃうよ」  明るく言って、私の手を握った。  映画を見に行きたいと言ったのは私で、見る映画も、私が決めた。  日曜日の映画館は混んでいて、チケット売り場の前には長い列が出来ている。その最後尾に並びながら、「そういえば」とふと気づいたようにはるくんが言った。 「はじめてだね、まひろと映画って」  ほんとだね、と私も今気づいたみたいに相槌を打ってから 「ごめんね、私の見たい映画に付き合わせちゃって」 「え、全然。俺も見てみたかったから」  からっとした笑顔で首を振って、はるくんは列の前のほうに目をやった。列は長く、まだ当分順番は回ってきそうにない。けれどそのことに嫌な顔はせず、はるくんは笑顔のままこちらを向いて 「まひろ、映画好きなの?」  そう訊かれて、なんと答えようか少し迷った。好きというほどではなかった。見たい映画があっても一人で行くのはあまり気が進まなかったし、かと言って気安く誘える友達もいなかったから、映画館なんてめったに行ったことがない。ただ、だからこそ憧れだった。 「実は、そうでもなくて」 「え?」 「夢だったの。映画館デート」  正直に言うと、はるくんはきょとんとした顔で私を見た。「え、それなら」と不思議そうに首を傾げる。 「なんでもっと早くに言わなかったの? 映画行こうって」 「はるくん、あんまり好きじゃないって言ってたから」 「俺?」 「うん。映画、あんまり行かないって。映画観てる間は話せないし、せっかくいっしょにいるのにもったいないって」  ああ、とはるくんは思い出したように呟いた。「俺、そんなこと言ったっけ」罰が悪そうに笑って、指先で頬を掻く。 「そんなの気にしないで誘ってくれればよかったのに。まひろが行きたいなら、俺喜んで行くよ」 「うん、ごめんね」 「いや、謝ることじゃないけどさ」  困ったように笑ってから、はるくんはこちらに体ごと向き直ると 「じゃあ、これからいっぱい行こうね。映画館デート」  ふんわりした笑顔と同じぐらい柔らかな声に、ぎゅっと心臓が絞られるように痛む。私はうつむいて視線を逸らしながら、曖昧な相槌だけ打った。  映画のあと、近くの洋食屋で食事をしながら、はるくんと映画の感想を言い合った。はるくんはあまり興味がなさそうな映画だと思っていたけれど、はるくんもそれなりに楽しんでくれたようで、ほっとした。 「これからどうしよっか」  デミグラスソースのかかったオムライスをスプーンですくいながら、はるくんが言った。私は口の中に残っていたナスとトマトのパスタを急いで飲み込んでから、あの、と口を開く。 「私、行きたいところがあって」 「へ、どこ?」 「えっと、私の地元に行きたいの」  え、とはるくんはちょっと驚いたように顔を上げた。 「いいの?」不思議そうに聞き返される。 「何にもないから、行きたくないって言ってたのに」 「うん、本当に何にもないところだから、面白くないかもしれないけど……」 「俺、行きたいよ」  はっきりした声で言ってから、はるくんは楽しそうに笑って 「まひろの地元、興味あるし。何にもなくていいから、行きたいな」  優しい声になんだか鼻の奥がつんとする。ありがとう、と早口に返しながら、私は顔を伏せた。皿に残っていたパスタをフォークに巻き付ける。喉が詰まったように息苦しくて、大好きなトマトソースのパスタも、うまく喉を通らなかった。  いつも一人で降りる駅に、はじめて、はるくんと手をつないで降りた。  快速電車も止まらない小さな街には、これといって目立つような建物もない。けれどはるくんは、「はじめて降りたー、この駅」なんて感慨深げに呟きながら、子どもみたいにきょろきょろと辺りを見渡していた。  そんな彼の隣で、私もつい忙しなく辺りに視線を巡らせてしまう。中学の同級生に会ったりしないだろうかと不安になって、けれどすぐに、会ってもいいかと思う。  加納くんといっしょにいる私を見たときの、あの子の顔を思い出す。あのとき彼女の表情にあったのは、間違いなく嫉妬だった。それにほんの少し胸のすく思いがしたのはたしかで、もっと見せてやりたい、なんて思ってしまう。バカにしていたクラスメイトの、幸せな姿を。今のうちに。  駅を出たあとは、近くの神社まで歩いた。強い日差しに汗が滲み、夏の気配を感じさせた。 「ここ、恋の神様がいる神社なんだよ」  参道を歩きながらはるくんに説明する。大きな赤い鳥居をくぐると、控えめに蝉の鳴き声がした。 「恋の?」 「うん。良縁成就とか、夫婦円満とか。そういうの専門なの」 「そうなの? じゃあお祈りしなきゃ」  からかうような口調で笑って、はるくんは私の手を引いた。  並んで賽銭箱の前に立つと、それぞれ百円ずつ入れて、律儀に二礼二拍手一礼してから手を合わせる。だけど私は、なにを祈ればいいのかわからなかった。なんの言葉も出てこなかった。そっと、隣にいるはるくんの横顔を窺う。はるくんはじっと目を閉じて、なにかを祈っているみたいだった。なにを祈っているのだろう。考えようとして、やめた。ただ、その静かな横顔の向こうに、私はいない気がした。 「そろそろ帰ろっかー」  日が暮れかけた頃、はるくんが口にした言葉に、にわかに緊張が戻ってきた。「あ、あの」足を止めると、手をつないでいるはるくんもいっしょに立ち止まった。 「ん?」 「よ、よかったら」  全身を巡る血液が、数倍速度を速めている。手持ち無沙汰だった左手で、ぎゅっとワンピースの裾を握りしめた。 「私の家に、行かない?」  え、と返ってきた声には、少し困惑の色があった。それに気づいた途端、すっと背中を冷たい震えが走る。「あの、今日ね」だけど気づかない振りをして、急速に渇いた喉から、私は追い立てられるように声を押し出す。 「うちの親、いないの。それで、家、誰もいないから」 「でも、もう遅いし」  慎重に、言葉を選ぶようにしてはるくんが口を開く。できるだけ、私を傷つけないように。きっと困ったように、だけど優しく笑っているはるくんの顔を見る勇気がなくて、私はうつむいた。 「今日は遠慮するよ。明日も学校だし」 「……そっか」  はっきりと返ってきた返事に、すうっと体の奥から力が抜けていくような感覚がした。 「そっか」なにかを確認するように、私はもう一度頷く。 「わかった」 「ごめんね」 「ううん」  首を横に振って、私は顔を上げた。つないでいた手を、そっとほどく。 「じゃあ、今日はここでいいよ」 「え、送るよ」 「大丈夫。家、すぐそこなの。また明日、学校でね」  はるくんもそれ以上言い募ることはなく、わかった、と頷いた。私はまっすぐにはるくんの顔を見た。すっと短く息を吸う。 「ありがとう」  はっきりした声で告げると、はるくんはきょとんとした目で私を見た。うん、と聞き返す調子の相槌を打つ。 「楽しかったよ」  声は震えなかったはずだけれど、はるくんはどこか怪訝そうな顔で私を見ていた。笑えていると思うのだけど、もしかして変な顔をしているのだろうか。うん、とはるくんは軽く首を傾げながらもう一度相槌を打って 「俺も楽しかった」 「また明日ね」 「うん、また明日」  にっこりと笑って、はるくんが片手を挙げる。何度も私に向けられた、嘘みたいに眩しい、その笑顔。向けられるたび喉の奥がつんと甘くなって、私を、どうしようもなく幸せな気持ちにしてくれた。今日もそれだけは変わらなくて、なんだか途方に暮れる。なんとか笑顔は崩さないよう頑張りながら、私も右手を挙げる。 「ばいばい」  さっきまではるくんが握ってくれていたその手は、もう、すっかり冷たくなっていた。
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