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12
「じゃあ、ごめんね、まひろ。また夜電話するから。気をつけて帰ってね」
「うん。補習がんばってね」
教室を出て行くはるくんに手を振りながら、もやもやとした後ろめたさがこみ上げてくる。
べつにやましいことはない。はるくんに内緒にしなければいけないのは加納くんに頼まれたからで、もしはるくんがこのことを知って怪しまれたとしたら、加納くんに説明してもらえばいい。放課後付き合ってほしいと言ったのも、はるくんには内緒にしてほしいと言ったのも加納くんなのだし、それぐらいはしてくれるはず。いや、してもらわなければ。
言い聞かせるように思いながら、加納くんのほうへ目をやる。加納くんはまだ自分の席にいて、携帯をいじっていた。動き出す気配はなかったので、私もそのまま自分の席で大人しく待っていた。
加納くんが私のところへ歩いてきたのは、教室に残るのが、私たちの他に三人になったときだった。
「行ける?」
「あ、うん」
加納くんは腕時計にちらと目を落としてから、歩き出した。私もその後ろに続いて、教室を出る。なんとなく、何の用事があるのかは聞けないままでいた。
いつもはるくんと歩く道を、加納くんと二人で歩いているのはなんだか不思議な気分だった。加納くんの歩調ははるくんより少し早くて、遅れないよう私も少し早足に歩いていると
「あ、瀬名。悪いけど」
「ん?」
「ちょっとコンビニ寄ってっていい?」
加納くんが言ったのは学校からいちばん近いセブンイレブンが目の前に現れてきたときで
「え、あ、もしかしてあのセブン?」
「そうだけど」
「あ、えっと、じゃあ私、ここで待ってるね!」
あわてて早口に告げると、「なんで」と加納くんは怪訝そうに眉を寄せた。
「中入ってればいいじゃん。暑いのに」
「ううん、大丈夫。ここにいるから、加納くん行ってきていいよ」
口調に少し必死な色がにじんでしまった気がして、しまったと思う。けれど、加納くんはそれ以上追求してくることはなかった。あからさまに不思議そうな顔をしながらも、「わかった」と頷いて
「じゃあ、ごめん。すぐ戻るから」
そう告げてコンビニの自動ドアをくぐった加納くんの後ろ姿を見送ってから、ふうと息を吐く。ガラス越しにちらっと中を覗いてみたけれど、レジに先日見かけたあの子の姿は見あたらなかった。
あれ、とちょっと力が抜ける。見える範囲で見渡してもみたけれど、品だしをしている姿もとくに見あたらない。今日はバイト休みだったのだろうか。それか、もう辞めたとか。それならいいな、とぼんやり思いながら視線を外したとき、「あれ?」とふいに後ろから声がした。
どくん、と心臓が鳴る。
「もしかして、瀬名さん?」
嫌になるほど聞き覚えのある声に、じわりと背中に汗がにじむ。
ゆっくりと振り返れば、えんじ色の制服がまず目に飛び込んできた。
あ、と乾いた声がこぼれる。
「……藤井、さん」
「わ、やっぱり! 久しぶり。瀬名さん、西高なんて行ってたんだ」
およそ三ヶ月ぶりに見たその顔は、こちらはちっとも久しぶりなんて気はしなかった。薄く化粧をした顔は以前より垢抜けたようには見えるけれど、それでも中学の頃と大きく変わってはいない。笑ってはいるけれど、たいして再会を喜んでいるようには見えない笑顔で
「あたしね、ここでバイトしてるの。うちの学校バイト禁止だからさ、地元だとばれちゃうし。でもすごい偶然。こんなところで中学の同級生に会うなんて。びっくりした」
「そう、だね」
「でも瀬名さん、大変じゃない? こんな遠くの高校通うなんて。なんでこんなところ選んだの?」
さらっとした口調で尋ねる彼女の顔からは、理由なんてわかっていて訊いているのか、それとも本当にわかっていないのか、よくわからなかった。知らず知らず握りしめていた拳が、ちりと痛む。
「え、と……行きたかったから」
「なんで? 似たような高校もっと近くにあるじゃない? なんでわざわざこんな遠くに?」
「うん、でもなんか、西高がよかったの。校風とか、自由そうだし」
「ああ、たしかにね。校則はゆるそうだよね」
頷いて、ふっと目を細める。そうしてなにかを探るようにじっと私の顔を見つめられ、また背中に汗がにじむのを感じた。
「そういえばさ」口元だけで笑う、見慣れた笑顔で言葉を継ぐ。
「なんか変わったよね、瀬名さん」
「そう、かな」
「うん。中学のときと雰囲気違うっていうか。ほら、もっと地味だったじゃない? 中学のとき」
「え……」
「髪切ったし、化粧もしてるし。一瞬誰だかわかんなかったもん」
吸い込め損ねた息が、喉で音を立てた。
「ねえ、瀬名さん」こちらから目を逸らさず高い声でしゃべり続ける彼女の顔は、やっぱり中学の頃とみじんも変わってはいない。
「高校は、楽しい?」
頷けばよかった。なにも迷うことなんてなかった。
だって、楽しい。中学の頃とは違う。彼氏だってできた。私のことを好きだと、かわいいと言ってくれる彼氏が。だからもっと好きになってもらえるように、彼好みの女の子になれるように、たくさん努力して、そのたびたくさん褒めてもらって。今はそんな毎日を送れているのだから。なにも臆することなく、ただ頷いてみせればよかったのに。
私は咄嗟になにも言えなかった。
え、と小さな声だけがこぼれて、それに続く言葉が出てこなかった。
その反応を見ただけでなにかを察したように、彼女はより口角をつり上げる。そうしてまたなにか言いかけたのがわかったけれど、ちょうどそのとき後ろで自動ドアが開く音がした。
「ごめん、待たせて」
振り返ると、加納くんが立っていた。
心臓が跳ねる。「あ、ううんっ」あわてて笑顔を作って首を振れば、え、と藤井さんが声を漏らすのが聞こえた。
「なに、彼氏?」
ちょいと裾を引っ張られ、藤井さんのほうを振り返る。けれど目は合わなかった。藤井さんは驚いたように目を見開いて、まじまじと加納くんを眺めている。その顔がかすかに強張っているのがわかって、気づけば声がこぼれていた。
「う、うん」
えっ、と声を上げる藤井さんの顔に、今まで決して私に向けられることのなかった感情が浮かぶのを見た。
「うそ、いいなあ」と呟いた藤井さんの視線は、まだ加納くんのほうを向いている。そうしてなにか加納くんに声を掛けようとするのがわかって
「あ、あの、じゃあ私たち、行くね。ちょっと急ぐから」
「あ、うん」
「じゃあね、また」
軽く手を振って、逃げるように踵を返す。加納くんの顔を見る勇気はなくて、そのまま早足に歩き出せば、加納くんは少しだけ迷うような間を置いて、けれどけっきょくなにも言うことなく着いてきてくれた。
「何すか、さっきの」
しばらく歩いたところで、ぼそりと加納くんが呟いた。
「……ごめんなさい」まだ隣を歩く加納くんの顔を見ることはできずに、私はうなだれたまま小さく謝ると
「つい、見栄というか、なんというか……」
「べつにいいけど。今の知り合い?」
「う、うん。中学のときの、クラスメイト」
「仲良くなかったん?」
「え、なんで」
「なんかそんな感じだったから」
私は少し迷ったあとで、うん、と小さく頷いた。
「私、たぶん、嫌われてたの」
「さっきのやつに?」
「うん」
思いがけない遭遇に喉のつかえが押し流されたのか、妙にするりと言葉がこぼれていた。ふうん、と静かな声で相槌を打った加納くんは
「瀬名がうちの高校来たのって」
「え」
「さっきのやつのせいなん?」
私は加納くんの顔を見た。前を向いたままの加納くんの横顔には、相変わらずこれといった表情は浮かんでいなくて、なんだか今はそれがありがたかった。
うん、と私は頷いた。
「あの子ひとりだけじゃないけど。とにかく離れたかったの。中学の頃のクラスメイトと」
「わざわざこんな遠くの高校通ってまで?」
「うん。でも、よかったと思ってるよ、私。この高校に来て」
握りしめていた拳を開くと、じっとりと汗に湿った手のひらを涼しい風が撫でた。
「はるくんに会えたし。はじめて、私のこと好きだって言ってもらえたから」
加納くんが私のほうを見た。目が合った加納くんは、少しだけ眉をひそめて、なにか言いたげに軽く唇を噛んだ。
けれど加納くんがなにを言おうとしたのかはわからなかった。加納くんが口を開くより先に、声が私たちのあいだに割り入った。
「あっ、弘人―!」
明るい、女の子の声。振り向くと、早足にこちらへ近づいてくる女の子がいた。彼女の着ている白と藍色のセーラー服を見て、ああ、と私はふいに思い出す。そうだった。
――加納くんは、私のことが嫌いなんだった。
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