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14
髪を切った翌日、登校して最初に顔を合わせた知り合いは、今回も加納くんだった。
下駄箱から上履きを取りだそうとしていた加納くんに、「おはよう」と声を掛けると、加納くんはこちらを見て、動きを止めた。驚いたように目を見開いていたのは一瞬で、すぐに思いきり眉をひそめた彼は
「……なに、それ」
私の顔をまじまじと見つめながら、そんな失礼なことを呟いた。
「なにって」私も靴を脱ぐと、上履きを取り出すため下駄箱を開けながら
「切っちゃった。暑くなってきたし、前の髪型、重たかったから」
なにも気づかない振りをしてそれだけ返す。そうしてさっさと教室に向かおうとしたけれど、加納くんはまだその場に立ち止まったまま、私を見ていた。遠慮なく顔をしかめ、なにか今まで見たことのない奇妙な生き物を見るみたいな目で
「なんでだよ」
「なにが?」
「わかったんじゃねえの、晴也のこと」
私も加納くんの目をまっすぐに見つめ返した。
うん、と頷いて、指先で昨日切ったばかりの髪に触れる。つい先日セミロングから肩上のボブにした髪を、昨日さらに短くした。顔周りの髪だけ長めに残して、襟足はかなりすっきりとするように。
「はるくん、この髪型のほうが好きなんでしょ」
よく、わかった。
はるくんの好きなもの。はるくんが私に求めているもの。
わかったのだから、それに応えるのは当たり前だ。それではるくんが喜んでくれるのだから。もっと、私のことを好きになってくれるのだから。
「この髪型のほうが、はるくん、喜んでくれるかなって思って」
加納くんは、やっぱり奇妙なものを見るような目で私を見ていた。これまでも何度も向けられた、心底理解ができないものを見る目。べつによかった。わかってもらえなくてもいい。私は、こうしたいのだ。だって。
「私、はるくんの彼女だから。はるくんの好みに、少しでも近づけるようにって」
「違うだろ」
吐き捨てるような低い声が、私の言葉をさえぎった。
「わかってんだろ、もう」加納くんは眉をひそめたまま、まっすぐに私の目を見る。そうしてひとつ息を吐いたあとで、これまでずっと喉につかえていたものを放り出すように
「あいつは、瀬名が何しても瀬名のことなんて見てないよ。あいつが見てるのは、ずっと」
「それでいいの!」
気づけば、声が溢れていた。叫ぶようなその声は、静かな玄関に思いのほか響いて、その場にいた何人かの生徒が驚いたようにこちらを振り向いた。けれど気にする余裕なんてなかった。加納くんの言葉をこれ以上聞きたくなくて、加納くんが口を開くより先に、捲し立てるように続ける。
「だって、はるくんしかいないから。私のこと好きだって言ってくれて、かわいいって言ってくれて、そうやって私のこと肯定してくれるの。私、本当に救われたんだもん。これで、これからも生きていけるって思ったぐらい。私、これからもはるくんの彼女でいたいの。それがいちばん幸せだから」
いっきに喋ったせいで、息が苦しくなった。私の言葉が途切れたら加納くんがまたなにか言う気がして、私は咄嗟に駆けだした。加納くんの横を抜け、下駄箱を出る。さすがに廊下を走るのは憚られて、途中で早歩きに変えたけれど、加納くんが追いかけてくることはなかった。声も、聞こえなかった。
教室に入ると、私は真っ先にはるくんのところへ歩いていく。はるくんはめずらしく自分の席について、なにかのノートを広げていた。
「はるくん、おはよう」
机の横に立って、声を掛ける。「あ、おはよ……」言いながらノートから顔を上げたはるくんは、私を見た途端、驚いたように目を丸くした。
「まひろ、それ」と私の頭を指さす。
「切ったの?」
「うん。暑くなってきたし、軽くしようと思って。前の髪型、重たかったから」
笑って自分の髪に触れながら、ついさっき加納くんに言ったものと同じ言葉を繰り返す。
はるくんはしばしびっくりした表情で固まったまま、私を見つめていた。それから思い出したように持っていたシャーペンを机に置くと、椅子から立ち上がった。勢いが良かったものだから、がたん、と結構な音が鳴る。私がちょっと驚いていると、はるくんは私の顔をまっすぐに見つめて
「まひろ!」
「うん?」
「超かわいい、それ!」
ふにゃり、と口元を緩めたはるくんの顔が、ようやく満面の笑みになる。
先日、ショートボブにしてきたときの反応とは明らかに違った。本当に、はるくんはわかりやすい。笑おうとしたけれど、ふいに喉元を押さえつけられたような息苦しさが襲って、うまくできなかった。
「えー、ちょっと待ってちょっと待って」急に興奮した様子であわただしく動き出したはるくんは
「とりあえずさ、写真撮っていい? あんまりかわいいから、まひろ」
「え、ここで?」
「ああ、そっか。せっかくなら格好もちゃんとしたほうがいいよね。ね、今度また明稜の制服着てよ。今の髪型であの制服着たまひろ、絶対もっとかわいいもん」
ひゅっと心臓をつかまれたような気がした。
きらきらした目でこちらを見つめるはるくんを、見つめ返す。ちゃんとした格好。はるくんの言葉が耳に残る。
ああ、そうか。私にとってのちゃんとした格好は、あのセーラー服なのだ。この髪型も、あのセーラー服を着た私でなければ意味がない。
この前かすみちゃんに教えてもらった、色つきリップの名前はメモしてある。今度探しに行こう。そういえば、かすみちゃんのチークはオレンジだったけれど、私のものとは微妙に色が違った。それも今度、教えてもらおう。そうすれば、もっと、はるくんは喜んでくれるだろうか。
そんなことを考えながら、いいよ、と笑って頷けば、はるくんは、やった、と子どもみたいな声を上げてうれしそうに笑った。
その目はたしかに今も私を見ているのに、見つめ返しても、ちっとも目が合っている気はしなかった。
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