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「昨日はごめんね。ケーキ」  はるくんが思い出したように私を呼び止めて言ったのは、加納くんといっしょに、ボランティア委員の仕事のため中庭に向かっている途中だったから、私はちょっと焦ってしまった。 「あ、ううん」急いで首を振りながら、私は隣にいる加納くんの表情が気になってしまう。ちらりと窺えば、加納くんもこちらを見ていて目が合った。あわてて視線を逸らし、はるくんのほうに向き直ると 「全然、気にしないで。苦手なの知らなくて作っちゃった私が悪いから」 「でもせっかく持ってきてくれたのに、本当にごめん。ね、今度はなにか違うお菓子作ってくれる? なんかリクエストしてもいい?」 「うん、もちろん。あんまり、おいしく作れないかもしれないけど」 「まひろが作ってくれるなら、なんでもおいしいよ、絶対」  ふんわり、柔らかく笑って、その笑顔と同じだけ柔らかな声ではるくんが言う。いつも私をどうしようもなく幸せな気分にしてくれるその優しい言葉に、なぜだかふと顔が強張るのを感じた。  あわてて笑顔を作って、「ありがとう」と返す。はるくんはなにも気づいた様子はなく、にこにこと笑いながら 「でもいいな、まひろがお菓子作りが趣味ってさ」 「そう、かな」 「うん。俺、甘いもの好きだし。これからいろいろ作ってもらえたりすんのかな。楽しみ」  無邪気な声でうれしそうに呟くはるくんに、私は曖昧に笑い返すぐらいしかできなかった。隣にいる加納くんの表情は、もう確認する勇気がなかった。 「お菓子作り、趣味なん?」  加納くんが口を開いたのは、はるくんと別れて、二人で中庭に出たときだった。  今日のボランティア委員の仕事は中庭の清掃とのことで、遠くのほうにちらほらゴミ袋を手に歩き回っている姿が見える。 「……まあ、わりと」 「昔から?」 「全然、最近から」  きっと何もかもわかっているのだろう加納くんに、なんだかやさぐれた気分になって、加納くんのほうは見ないまま短く答えを返す。あからさまにあきれた顔をされているのは、見なくてもわかった。 「昨日はなに作ったん? 晴也に」 「ショートケーキ。はるくん、生クリームが苦手らしくて食べてくれなかったけど」 「え、初耳。普通に食べてた気がするけど、中学んとき」  かすみちゃんの作った、ショートケーキは。加納くんが言わなかった言葉を、心の中で引き継ぐ。  私は足を止めた。 「……なんで」  加納くんも数歩進んだところで立ち止まると、こちらを振り向いた。 「なんで、教えたの?」 「なにを」  顔を上げると、まっすぐにこちらを見据える加納くんと目が合った。  なんの色もない、冷たい目。嫌われているのは知っていた。だけど、それなら放っておいてくれればよかった。嫌いなら、関わろうともせずに、黙って遠くから、バカな女だなって眺めていてくれれば、そうすれば。 「加納くんが教えてくれなかったら、私、なんにも知らなかったのに。なんにも知らないで、幸せなままで」 「幸せ?」  加納くんの声は、耳の奥に突き刺さるように響く。もう夏も近いのに、手のひらを撫でる空気がひどく冷たい。 「幸せだったのか? なんも違和感なかった? 気づかない振りしてただけだろ、必死に」 「でも、ちゃんと、気づかない振りできてたよ」  私はぎゅっとスカートの裾を握りしめた。  髪型とか、服装とか、メイクとか。はるくんの好みは全部わかりやすくて、はっきりしていた。しかも統一性があって、寄せ集めれば一人の女の子が出来上がりそうな。  だけど私がそれに応えれば、はるくんは私を褒めてくれた。私を、かわいいと、好きだと言ってくれた。だから、私は、それでよかったのだ。 「それで幸せだったよ。ちゃんと。好きな人といっしょにいられて、優しくしてもらえて、好きだって言ってもらえて、私はそれだけで」 「好きな人」  加納くんがぼそりと、私の口にした単語を拾って繰り返した。皺の寄った眉間に、不快感が滲んでいる。 「好き、ってさ」 「な、なに」 「瀬名はあいつのどこが好きなん?」  あきれたような顔で、そんな質問が向けられる。え、と一瞬動揺してしまったけれど、そんなに難しい質問ではなかった。  明るくて、いつも笑顔で、友達も多くて、女の子にだって人気があって。はじめて見たときから、はるくんはキラキラしていた。私とは別世界にいる人なのだと感じた。きっと、これまでも、これから先もずっと、陽の当たる道しか歩いていかないのだろうと、そんなことを思うような人なのに、それなのに。 「……私なんかにも、優しくて、私なんかに、好きだって言ってくれて。だから」 「そんだけだろ」  鋭い声が飛んできて、私は思わず口をつぐんだ。  加納くんは、私が返す答えなんてわかりきっていたみたいに 「優しくしてくれるから、好きだって言ってくれるから、好きなんだろ。でもあいつが好きなのは、瀬名じゃない。ずっと、あいつは瀬名のことなんて見てない」  加納くんの声は、嫌になるほどくっきりと耳に響いた。胸の奥までずしりと落ちていったその声は、きっとそのまま沈み込んでもう忘れることはできない。それだけははっきりとわかって、絶望的な気分になる。耐えきれなくなって、私は足下に視線を落とした。  どうして。まだ新しいローファーの爪先を睨む。  どうして、それじゃ駄目なんだろう。私は。 「……それでも、よかったのに」  息苦しい喉から声を押し出す。強く握りしめた拳に爪が食い込んで、痛い。一度口を開いたら、言葉は堰を切ったように溢れてきた。 「私はうれしかったんだもん。べつに、心からの言葉じゃなくても。髪切った次の日に、かわいいって言ってくれたり、似合うよって褒めてくれたり、バカみたいだって思うかもしれないけど、私はそれが本当にうれしくて、なんだか救われたような気にもなって。だって」  だって、と繰り返した声が掠れた。 「他に、誰もいないから。そんなふうに私のこと肯定してくれるの、はるくんだけだったから。嘘だったとしても、そんなふうに言ってくれるはるくんのほうが、なにも言ってくれないみんなより大事だし、手放したくないって思うのは、おかしくないでしょう。なんにも、駄目なことじゃ、ないでしょう」  顔を上げると、変わらずまっすぐにこちらを見据える加納くんと視線がぶつかった。  その表情がなんだかひどく静かで、私は一瞬言葉が詰まる。加納くんはじっと私を見つめたまま、その表情と同じだけ静かな声で、言った。 「似合ってなかったから」 「……え?」 「短い髪。瀬名には似合ってないと思った。この前までしてたボブも、今の髪型も」  唐突な言葉に、私はぽかんとして加納くんの顔を見た。 「瀬名はさ」加納くんはかまわず、淡々とした声で続ける。 「前の髪型が似合ってたよ。長くて、なんか毛先くるくるした、手かかりそうなやつ。ふわふわしてて柔らかそうで、なんていうか瀬名らしかったから。髪切ったとき、正直残念だったし。だから似合うとか言いたくなかった。俺は」  そこでいったん言葉を切った加納くんの表情が、なぜだか、少し歪んだように見えた。 「瀬名の長い髪のほうが、好きだったから」  ――その瞬間、ふいに喉の奥で熱が弾けた。  熱は、すぐに瞼の裏にまで広がった。あわてて顔を伏せたら、地面にぽたりと水滴が落ちてぎょっとした。吸い込み損ねた息が喉で音を立てる。震えた不格好な声が漏れそうで、私は口を手で覆った。涙は、とめどなく溢れてきた。止めようもない勢いに、私はどうしようもなくなって、気づけば駆けだしていた。  口を押されたまましばらく走ったところで、崩れ落ちるようにしゃがみ込む。  加納くんは追いかけてはこなかった。周りに人がいないことだけ確認したあとで、口を覆っていた手を外せば、途端、さらに勢いよくあふれ出る涙といっしょに、嗚咽まで漏れてきた。  どうして泣いているのかは、よくわからなかった。ただ頭の中には、中三の冬にお年玉で買ったコテアイロンが浮かんでいた。  ようやくおしゃれに目覚めはじめた頃で、アイロンを使って長い髪をあれこれいじってみるのが楽しかった。うまく巻けたときはテンションが上がった。少し、かわいくなれた気がした。誰も、褒めてくれる人はいなかったけれど。  ああ、本当は。  ぐしゃりと、短くなった前髪を掻き上げ、握りしめる。  好きだったんだ、長い髪。  伸ばし始めたのはたしかになんとなくだったけれど、それでも私にはこのほうが似合っている気がしたし、いろいろアレンジができるのも楽しかった。ふんわりしたフレアスカートもワンピースも、似合っているのかはともかく、本当に気に入っていた。  頑張れば、私でもかわいくなれるような気がした。こうして頑張って、いつか誰かが、かわいいって言ってくれないかな、なんて。そんなことを夢見ていた。いつか、こんな私のことを。かわいいって、好きだって。本当は。本当は。  ――私ははるくんに、そう、言ってほしかったんだ。
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