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 ふっとはるくんの手から力が抜ける。急に放り出された手が心許なくて、私は思わずぎゅっと手のひらを握りしめた。 「……なんで?」  困惑したようなはるくんの声がする。 「だって」その表情を見る勇気がなくて、私はうつむいたまま口を開いた。 「私は、行かないほうがいいから」 「なんで? その子、まひろにも会いたがってたよ。前にね、俺に彼女できたって話したら、どんな子か会ってみたいって」 「私、会ったことあるの。その子」 「え?」  ごめんなさい、と私は項垂れて呟くと 「かすみちゃんでしょう。私、何回か会ってた。はるくんに内緒で」  そう告げると、はるくんは驚いたように一瞬黙ったあとで、「え、なんで?」と戸惑ったように再度尋ねてきた。 「なんで内緒にしてたの? 言ってくれればよかったのに」 「俺が言ったんだよ」  私が答えるより先に、加納くんが口を挟んだ。 「晴也には黙っててほしいって、瀬名に」 「弘人が?」  聞き返すはるくんの声がふと鋭くなって、私は顔を上げた。「じゃあ」はるくんはなにか警戒するみたいに眉を寄せて、じっと加納くんのほうを見ている。 「弘人が会わせたの? かすみに」 「そうだけど」 「なに、なんでそんな勝手なことすんの」  重ねて尋ねるはるくんの口調は、やっぱり棘があった。普段のやわらかな口調とは似つかないその冷たさに私は思わず肩をびくつかせてしまったというのに、加納くんのほうは平然として、事もなげに答えてみせる。 「瀬名に教えてやろうと思って」 「なにを」 「お前のこと。何にも知らないみたいだったから」 「は?」  はるくんがぎゅっと眉を寄せ、顔をしかめる。 「意味わかんない。かすみに会わせてどうするつもりだったの」 「晴也がなんで瀬名と付き合ってんのか、わかるかと思って」 「なに、なんでって。好きだからに決まってんじゃん」 「誰のことを?」 「はあ?」  しかめた顔も投げつけるような声も、私の知らないはるくんで、私はひゅっと心臓をつかまれたみたいな感覚になる。はるくんにあんな顔を向けられたら、私ならきっと泣いてしまう。だけど加納くんはやっぱり平然としていて、もしかしたら、そう珍しいものではないのかもしれない。こんなはるくんにも、これまでも加納くんやかすみちゃんは会ってきたのかもしれない。  私だけが、きっと、なにも知らない。 「なんなの、お前」  今度こそはっきり苛立った様子で、はるくんは低く呟くと 「そんなに俺とまひろを別れさせたいの? 前からいろいろ口出ししてきてたけどさあ」 「そうだよ。さっさと別れねえかなって思ってる」  突っ返す加納くんの語気も強まってきて、横を通りかかった女子生徒がちらっと怪訝な視線を向けてから通り過ぎていった。 「だってお前、誰でもいいんだろ。だったら瀬名にそんな長くこだわらなくてもいいだろ」  あいかわらず容赦がない加納くんの言葉は、心臓の奥のほうを深く抉る。だけど今は、その痛みがありがたい。ここ数日、私はこの痛みを繰り返し確認してきた。 「はあ?」とはるくんは目を見張って 「なに言ってんの。誰でもいいわけないじゃん」 「ああ、そっか。訂正。自分の言うこと聞いてくれるやつなら、誰でもいいんだろ。髪型とか服装とか、お前の好みにぜんぶ合わせてくれるやつなら」  一瞬だけ、はるくんは表情の消えた目で加納くんを見た。それからふっと視線を落とし、「ていうか」と吐き捨てるような口調で呟く。挙がった右手が、ぐしゃっと苛立たしげに前髪を掻き上げた。 「なんで弘人にそんなこと言われなきゃなんないの。お前、何も関係ないじゃん」 「関係はあるよ」 「どこが」 「俺、瀬名が好きだし」  へ、と場違いに間の抜けた私の声が、二人のあいだに落ちた。固く握りしめていた拳からも、一瞬力が抜ける。あまりにさらっと告げられて、聞き間違いだったかと私がひとり混乱している横で、はるくんのほうはとくに驚いた様子もなく、「知らないよ」と苛立った顔のまま吐き捨てると 「だから何なの、関係ないじゃん。どうせそうだろうと思ってたけど。俺はまひろが好きで、まひろは俺が好きで、だから付き合ってんの。お前が首突っ込んでくる余地なんてないから」 「だから、お前は瀬名じゃなくても誰でもいいんだろ」 「なに、だからまひろと別れて俺に譲れって?」 「そう。お前と違って俺はちゃんと好きだから」 「うっざ。俺もちゃんと好きだよ。別れるわけないじゃん」  心の底からあきれた調子で吐き捨てて、はるくんはこちらを振り向いた。目が合って、一瞬どきりとする。けれどすぐに、はるくんはにこりと笑みを浮かべてみせた。その鮮やかなほどの切り替えの速さに呆気にとられていると、「まひろ」といつもと同じやわらかな声が、私を呼んだ。 「――帰ろう?」 「え」 「まひろが行きたくないならいいよ。友達のところ。俺も行かないから、いっしょに帰ろう」  そう言って、はるくんが私に手を差し出す。何度もつないだ、やわらかな手。男の子にしては細くて、だけど私よりは大きくて、暖かな手。はじめてこうして差し出されたときからずっと、その手に包まれるたび喉の奥がつんと甘くなって、胸が高鳴った。  大好きだった。手放したくなかった。ずっと、私のものでいてほしかった。  だから。 「……だめ」  確認する。見て見ぬ振りなんて、する隙もないぐらいに。 「はるくんは、行かなきゃ」  ぎゅっと右手でスカートの裾を握りしめて、顔を上げる。そうしてまっすぐに、はるくんの目を見た。笑顔を作る余裕はなかったから、きっと変な顔をしていたのだろう。はるくんが戸惑ったような顔になる。 「まひろ?」 「かすみちゃんが待ってるから。かすみちゃん、今日、はるくんに話したいことがあるの。はるくんがずっと相談にのってあげてた、かすみちゃんの好きな人のことで」  だけど視線を逸らさないことだけは頑張って、一息に告げた。  一瞬、はるくんの顔から表情が消える。無言で何度かまばたきをする。そんなかすかな仕草の裏にある動揺を見逃さないように、私はずっとはるくんを見ていた。 「はるくんもきっと、聞きたい話だよ」 「……まひろ」 「だから、行って。じゃないと後悔しちゃう。私は帰るね。今日用事があるの。ごめんね」  声が震えないように気をつけていたら、やたら早口になってしまった。はるくんは戸惑ったような目で私を見ていた。だけど私が踵を返しても、追いかけてはこなかった。  ただ数歩歩いたところで、「ごめん」と呟く小さな声が、かすかに聞こえた。  早足に歩き続けていたら、息が苦しくなってきた。  喉の奥が熱くてうまく呼吸ができない。息を吸おうとしたら喉が引きつって、変な声が漏れた。気づけばそれは嗚咽になっていて、私は堪えきれずに地面にしゃがみ込んだ。下を向くと、暗い地面に涙がぼたぼた落ちた。 「なんの涙、それ」  丸めた背中に平淡な声がかかって、私は手の甲で目元を拭った。だけどけっきょく意味はなく、次から次に涙が足下へ落ちていく。 「……わかんない」  そこで今更、自分が駅と反対方向に歩いてきてしまっていることに気づく。だとしたら、加納くんはわざわざ私を追いかけてきてくれたのか。気づいたら胸の奥がじわりと温かくなって、だけどよけいに涙があふれてきた。 「はるくん、は?」 「知らない。たぶん行ったんじゃねえの、かすみのとこ」 「……そっか」  今ここにいないということはそうなのだろう。それで充分だった。誰でもいいんだろ、と加納くんに言われて、そんなわけないと返したはるくんの言葉を思い出す。どうして付き合っているのかという言葉に、好きだからだと言ってくれた。そんなことがまだ、どうしようもなくうれしい。縋りたくなってしまうくらいに。だから私は、確認しなければならない。私が、みじんも愛されていないということを。  そうでなければ、私はあの手を離せない。 「ごめん。俺よけいなこと言った」  私があまりに泣いていたからか、加納くんがぼそっとそんなことを言った。らしくもないその殊勝な言葉に、私はぶんぶんと首を振る。違う。加納くんは言わなかった。きっと、はるくんと私のために。その、決定的な言葉だけは。  誰でも、よかったんだ。きっと。  ――かすみちゃんの、代わりになってくれるなら。
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