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 加納くんと入れ替わるように、はるくんが書庫に飛び込んできた。 「まひろ!」  青い顔をして駆け寄ってくるはるくんは、まるで私が死にそうになっているかのような顔をしている。加納くんの伝え方がちょっと大袈裟だったようだ。私は苦笑して、大丈夫だと示す意味で右手をひらひらと振りながら 「はるくん、ごめんね」  迎えに来てもらって、という私の言葉が終わらないうちに、はるくんは私の前にしゃがんだ。 「怪我したって? これ?」  ハンカチを載せている足の甲を指さす。うん、と私は頷いて 「全然たいした怪我じゃないんだ。ちょっとね、さっきファイルが足に落ちてきちゃって」 「うわ、それめっちゃ痛いやつじゃん」  安心させたくて言ったのだけれど、はるくんはよけいに顔をしかめてしまったので 「でも、薄いファイルだったから。大丈夫だよ」 「本当に?」  大袈裟なほど心配そうなはるくんの声に、うん、と私は笑って頷く。そうして不謹慎ながら、ちょっとうれしくなる。怪我をしたとき、こんなに心配してくれる人なんて、今までいなかった。  はるくんは載っていたハンカチを取ると、もうすっかり赤みもひいた足の甲にそっと触れながら 「痛い? まだ立てない?」 「ううん、もう大丈夫だよ。帰ろっか」  うん、と頷いてはるくんは立ち上がると、私へ手を差し出した。ありがとう、と言ってその手をつかむと、はるくんがぐっと私の身体を引き上げてくれた。ふわふわしたハニーミルクラテみたいな彼だけれど、その力強さは男の子らしくて、ちょっと胸が鳴る。 「腕につかまっていいよ」 「え、でも」  学校じゃ恥ずかしいかも、という私の言葉はあっさり流された。はるくんは握っていた私の手を自分の腕に導くと、私がおずおずとその腕をつかむのを待って 「行こう」  とにっこり笑った。  六時を過ぎた学校は、もうひとけがなかった。おかげで、校内をはるくんと腕を組んで歩いていても、あまり恥ずかしい思いはせずにすんだ。  一度だけ英語の先生とすれ違って、「仲良しねえ」なんてのんびりした声をかけられただけで、はるくんはうれしそうに「はい!」なんて返していた。 「そういえばさ、なんでまひろ、書庫にいたの?」  下駄箱から白いスニーカーを取り出しながら、はるくんが思い出したように訊いてくる。 「生徒会の人たちの手伝いしてたの。古い文書の整理」 「生徒会? ああ、それで弘人といっしょだったんだね」  弘人というのは加納くんの名前で、私は、うん、と頷いた。そうっとローファーを履いてみたけれど、幸いたいした痛みはない。その隣ではるくんもスニーカーを履きながら、「手伝いかあ」と私の言葉を繰り返して 「ほんと優しいね、まひろは」  しみじみと呟かれた言葉に、ちょっと頬が熱くなる。 「ただ、先生に頼まれただけだよ」 「でもまひろ、いつもそうじゃん。頼まれたら何でも引き受けるし。すごいなって思う、まひろのそういうところ」  純粋に感心した調子で言われて、なんだか腹の奥のほうがむずむずする。私に向けられたはるくんの言葉は、まるでサイズの合っていない服を着ているみたいな、違和感があった。  違うよ、と言いたかった。けれど、それに続く言葉を私ははるくんに言える気がしなかった。だからただ、「ありがとう」とだけ返せば 「そうだ、コンビニ寄って行こう」  ふと思いついたようにはるくんが言った。 「まひろにお菓子買ってあげる」ふんわりと笑って、甘やかすような口調で続ける。 「今日待っててくれたお礼とー、弘人の手伝いしてくれたご褒美ね」 「え? い、いいよ、そんな」 「ううん、てかね、俺が行きたいの。さっきいっぱい頭使ったからさあ、なんか無性に甘いもの欲しいんだよね、今」  ね、行こ、とにこにこ笑ってはるくんは私の手を取る。そうしてまた自分の腕に回させると、上機嫌な足取りで歩き出した。  外に出ると、落ちかけた夕陽が眩しかった。橙色に包まれたグラウンドでは、野球部がまだノックをしている。テニスコートのほうからは、女の子たちの黄色いかけ声が聞こえてくる。 「何食べよっかなー」  ふわふわした声で言いながら、はるくんが隣を歩く。「パフェかなー、暑くなってきたしアイスもいいなー」なんて、子どもみたいに無邪気にしゃべり続けていたのが 「英作文の書き直しは、無事終わった?」  と何とはなしに尋ねてみたら、ぷつんと途切れた。途端にはるくんの表情が曇る。 「……終わらなかった。明日も補習です」 「そうなの?」 「ごめんね、まひろ」  しゅん、という効果音が聞こえそうなほど項垂れるはるくんに、「いいよ」と私は首を振る。 「じゃあ私、明日も文書整理の手伝いしながら待っていようかな」  書庫に残された山積みの文書ファイルたちを思い出しながら、言う。加納くんは明日も整理を続けると言っていた。そのあとで、明日も手伝うと告げた私の言葉に、加納くんがあまり良い顔をしなかったことも思い出したけれど、手伝うと言ったくせにけっきょく来なかった、というのもますます印象が悪くなりそうな気がした。それに、ハンカチの恩もある。 「それはうれしいけど、まひろ」  はるくんは眉を寄せて私の顔をじっと見ると 「また怪我したりしないでよ?」  はい、と真面目な顔で頷けば、はるくんはまた、ふんわりと笑った。  高校からいちばん近いコンビニは、ほんの歩いて三分ほどの距離にある。だから、はるくんがまだ何を食べるか決めてきれていないうちに、もう着いてしまった。 「どうしよっかなー」なんて、はるくんはまだぶつぶつと呟きながら、入り口の自動ドアをくぐる。さすがに店内でまで腕を組む勇気はなくて、私はそっとはるくんの腕から手を離そうとしたけれど 「……え」  ふとレジのほうへ目をやった瞬間、私はまたはるくんの腕を強くつかんでいた。  意気揚々とデザートコーナーへ向かいかけていたはるくんの足が、その場に引き留められる。「え、なになに」はるくんが驚いたようにこちらを振り向いたのがわかったけれど、私ははるくんのほうを見ていなかった。  なんで。心臓が硬い鼓動を打つ。なんで、あの子が、ここに。  コンビニのえんじ色の制服を着て、レジに立ち接客をしている一人の女の子。その子の顔がよく見知ったものだと気づいた瞬間、私は身動きがとれなくなる。  いっきに口の中が渇いていくのを感じながら、「ちょ、ちょっと待って」と私は夢中ではるくんの腕をひくと 「はるくん、あのね。やっぱり、あっちの、駅前の、ローソンに行こう」 「え、ローソンがいいの?」 「うん。どうしても、ローソンのお菓子がね、食べたくなったの」  わかった、とはるくんは何も訝しむことなく頷いてくれたから、心底ほっとした。  入ったばかりのコンビニを出たあとで、私はもう一度後ろを振り向いてみる。レジに立つ、バイトの女の子の顔を確認する。間違いなかった。なんで、という疑問詞ばかりが頭を巡る。彼女が通っているのは、地元の進学校のはずだ。電車で三十分の距離にあるこのコンビニで、どうしてあの子がバイトなんかしているのか。  考えても答えなんて出てくるはずはなくて、ただひとつわかったのは、今後私は、もうあのコンビニには通えないだろうということだった。 「はい、まひろ」  はるくんは自分の分のアイスクリームを取り出したあとのビニール袋を、そのまま私に差し出してきた。中を覗くと、シュークリームにアーモンドチョコレート、抹茶プリンに、さらにミルクティーまで入っていて 「これ全部、私に?」 「そうだよー。俺のはこのアイス」 「こ、こんなにたくさん、悪いよ。これも、はるくん、食べて」  そう言って袋からシュークリームを取り出すと、「いらなーい。俺クリーム嫌いだもん」とはるくんはアイスの袋を開けながら言った。 「あ、そ、そっか」私はすごすごとシュークリームを引っ込めて、代わりに抹茶プリンを取り出すと 「じゃあ、こっち……」 「いいってば。まひろが食べなよ。それとも、嫌いだった?」 「う、ううん! 好き」 「じゃあ食べて」  はるくんは屈託なく笑って、棒付きのアイスをひとくち囓った。しゃり、と氷の粒が溶ける音がする。  コンビニの目の前にある駅まで二人で歩いている途中、「まひろも食べる?」なんて言ってはるくんが食べかけのアイスを差し出してきたから、私はちょっとどきどきしながら一口もらった。   改札の前まで行くと、はるくんは電光掲示板を見上げながら 「次の下りは六時四十五分だって。もうすぐじゃん」 「ほんとだ。ちょうどよかったね」 「じゃあ、これは電車ででも食べなさい」  そう言ってはるくんにコンビニの袋を渡される。ありがとう、と今度は素直に受け取った。  たくさんのデザートが詰められた袋はけっこうな重みがあって、つんと喉の奥に甘いものが広がる。硬い鼓動を打っていた心臓も、柔らかく動き始める。顔を上げると、はるくんの優しい笑顔があって、ついさっきひどく動揺した心も、穏やかさを取り戻していくのがわかった。  そうだ、ローソンがいい、と思う。学校のいちばん近くにあるセブンイレブンが寄り道の定番だったけれど、これからはローソンに行けばいい。ローソンのデザートだって、おいしい。 「じゃあ、また明日ね」 「うん。ばいばい」  別れの挨拶を交わして、改札を通る。そこでもう一度、はるくんのほうを振り返る。  はるくんは今日も、そこにいてくれた。目が合うと、明るい笑顔で手を振る。それに私も笑って手を振り返してから、ホームに向かって歩き出した。  大丈夫だ、と思う。私は今、幸せだから。
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