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07
その日は、普段ほとんど関わりのないクラスメイトが、妙に親しげに話しかけてきた。
こういうときの用件は、すぐにわかる。なんだろう、ノートだろうか、掃除当番だろうか、と考える私の前に、「ねえねえ瀬名さん」と人懐っこい笑顔で座った彼女は
「ボランティア委員、やっぱり瀬名さんもやりたくないよね?」
このクラスの学級委員である桜井さんは、いつもこんな尋ね方をする。
決して無理強いはしない。お願いもしない。ただ、こちらの気持ちを確認する。返してほしい答えとは、反対の答えを示しながら。それがわかるから、私はいつも彼女の問いに頷けない。
「……ううん」
ボランティア委員。そういえば先週、担任の先生が言っていた。今月中にクラスから男女一人ずつ、ボランティア委員を選出しなければならないと。
何をするのかはくわしく聞いていないけれど、だいたい予想はつく。草取りだとかゴミ拾いだとか、間違いなく誰かが進んでやりたがるような役職ではないことだけはたしかだった。それなのに先生からは、適当にみんなで話し合って決めといて、なんて無責任な投げ方をされたものだから、学級委員は困っていたのだろう。
「やっても、いいよ。私」
答えると、ぱっと目の前で笑顔が弾けた。
「ほんと?」と聞き返す桜井さんの顔は本当にうれしそうで、これも彼女のお願いを断りづらくさせるひとつの要因だ。そう思っているのは、私だけなのかもしれないけれど。
「ありがとう! ごめんね、私、瀬名さんに何でもお願いしちゃって」
「ううん。私、部活もやってないから」
笑顔で首を振ると、桜井さんはおもむろに私の手を取って、「ありがとう」と繰り返した。私が桜井さんのお願いに頷いたあと、彼女はいつもそうした。
それにしても、とちらっと思う。プリントの配布を手伝ってほしいだとか、掃除当番を代わってほしいだとか、これまでも桜井さんからお願いされることは何度かあったけれど、今回のお願いはちょっと重たかった。ボランティア委員の任期は、たしか一年間だ。こうしてどんどんお願いの重さが増していったら、ちょっと困るかもしれない。私には彼女のお願いを断ることなんて、きっとできないから。
「本当にありがとう。これ、ボランティア委員についてのプリントね。とりあえず、直近ではゴミ拾いがあるみたい」
「わかった。ねえ、桜井さん」
「うん?」
「男子のほうのボランティア委員って、誰に決まったのかな?」
できれば話しやすい人だといいな、なんて思いながら軽く訊いてみたのだけれど
「たしか加納くんだよ。生徒会役員さんはほぼ強制だって聞いたから」
返ってきたのは、なんとも無情な答えだった。え、と思わず声をこぼしてしまった私にはかまわず、桜井さんは立ち上がると
「じゃあ、よろしくね。瀬名さん」
にこっと万人に好まれそうな明るい笑顔を見せて、私の前から立ち去った。
教室にいるあいだは加納くんの周りには常に誰かしら友達がいて、ハンカチを返すタイミングを掴めなかったため、放課後に書庫へ行く際にハンカチも持って行くことにした。
教室を出る前、ちらりと目を通したプリントには、今後のボランティア委員の活動予定が載っていた。直近のゴミ拾いのあとには、すぐ一週間後に草取りも入っていて、意外と予定が詰まっているらしい。
はあ、と知らず知らずのうちに口からはため息が漏れる。桜井さんのお願いに頷く前に、確認しておけばよかった。それで断ることができたかどうかわからないけれど。でも桜井さんから落胆されるか、加納くんから嫌な顔をされるか、どちらかなら絶対に桜井さんのほうがマシだったはずだ。
加納くんにハンカチを返すときに、ボランティア委員になったことも話して、軽く謝っておこう。私なんかが相手でごめんって。そんなことを考えながら私は書庫のドアを開けたのだけれど、中に加納くんの姿はなかった。
「あ、瀬名さん」
いたのは、遠山さんともう一人、梅田さんという隣のクラスの女の子だった。今日はこの二人で作業をしているらしい。
私に気づいた遠山さんは、昨日と同じように私の分のパイプ椅子を取りに行ってくれながら
「今日も手伝いに来てくれたの?」
「うん。昨日、全然終わらなかったから、大変だろうなって」
「ありがとう! 助かるな」
ぱっと明るい笑顔を見せる遠山さんの横から、「手伝い?」と梅田さんの驚いたような声が飛んでくる。
「生徒会でもないのに、手伝ってくれるの? すごい。優しいねえ、瀬名さんって」
「ほんと。ありがたいよね」
心底感心したような梅田さんに、遠山さんも心を込めた相槌を打ってくれて、なんだかこそばゆくなる。「そんなことないよ」と首を振りながら、私は遠山さんの用意してくれた椅子に座ると
「今日、加納くんは?」
「先生から別の仕事頼まれて職員室に行ってる。あとで来ると思うよ」
「そっか」
文書の山を、今日は女子三人で囲む。女子だけの場だと、会話の内容も昨日とは変わった。
「今ね、うちの学年なら誰がいちばんかっこいいと思うかって話してたんよー」女子高生らしい、きゃらきゃらとした声で梅田さんが言う。
「あたしは小野塚くんに一票なんだけどさー、瀬名さんは?」
「え、私……」
「あ、そっか! 瀬名さんは生井くんだよね。そうだった」
私が答える前に、はっとしたように声を上げた梅田さんは、「ごめんねー野暮なこと聞いて」と、ファイルから文書を外す手を止めずに明るく笑った。なんだか恥ずかしくなって私は首を横に振る。
「ねえねえ」その横から、興味津々な目でこちらに軽く身を乗り出してきた遠山さんは
「瀬名さんと生井くんって、どれくらい付き合ってるの?」
「一ヶ月ちょっと、かな」
「じゃあ、けっこう入学してすぐ付き合いはじめたんだ」
「うん。まだ二週間ぐらいしか経ってなかったかも」
だから、本当にびっくりした。はるくんの告白を受けたのは、まだ、ようやくクラス内で仲の良いグループだとかが出来はじめたような頃だった。その中で、はるくんは早々からクラスでもいちばん目立つグループに入っていたし、私なんかが目を留めてもらえるとは、みじんも思っていなかった。
へえ、と遠山さんと梅田さんの相槌がきれいに重なる。
「よっぽどビビッときたんだろうね。この人だ! って。なんか、いいね」
「ね。運命感じちゃったってやつ?」
「うらやましいなあ。生井くん、優しそうだし。大事にしてくれそうだもんね」
ぽんぽんと交わされる会話に、どう反応すればいいのか迷ってしまう。
「そう、かな」と曖昧な相槌だけ返せば、「うん」と梅田さんが力のこもった相槌を打って
「D組ならさあ、やっぱり生井くんたちのあのグループがいいよね」
わかる、と遠山さんも楽しそうな声で頷く。私は梅田さんの言うあのグループに、はるくんの他には誰がいるかを思い出そうとしていて、そういえば加納くんもいたな、ということだけぼんやり思い出したとき
「加納くんとかさ」
同じタイミングで、梅田さんがその名前を口にした。
「けっこうよくない?」
あー、と遠山さんが頷きながら声を漏らす。
「頭良いし、なんだかんだ気も利くしさ。まあ、カノジョ持ちだけど。加納くん」
「え、そうなの?」
梅田さんがさらっと口にした言葉に、ちょっと驚いて顔を上げる。はじめて聞く事実だった。うん、と頷いたのは隣の遠山さんで
「直接聞いたことはないけど。目撃情報がいくつもあるんだよね。加納くんが女の子と二人で歩いてるの見たって」
「他校の子でしょ、たしか。明稜だったっけ」
「そうそう、明稜の子。かわいかったらしいよ」
やっぱいい男は先に売れちゃうもんだよねー、と軽い調子で梅田さんが言う。ね、と遠山さんが頷いて、だけど私はなんだか曖昧に笑うことしかできなかった。
梅田さんが口にした加納くんに対する評価は、私の中にある加納くんとはうまく結びつかなかった。
無愛想というほどではないけれど、どこかつっけんどんで、口調には冷たさが滲む。私の中の加納くんは、そんな、少し怖くて苦手なクラスメイトだった。
だけど梅田さんや遠山さんに対しては、そうではないらしい。つっけんどんな態度も、冷たい口調も、二人に向けられたことはないのだろう。気の利く、いい男。私の前以外での加納くんは、そんな人なのだ。
だとしたら。にわかにお腹の底に重たいものが落ちる。
やっぱり、私が嫌われているだけなのか。
あらためて突きつけられた気のする事実に私がひっそり落ち込んでいたら、書庫のドアが開く音がした。
目をやると、加納くんが書庫に入ってくるところだった。あ、と声を上げて私は思わず立ち上がる。私に気づいた加納くんの顔が少し顰められたように見えて、お腹の底に沈む重たさが増したけれど
「加納くん」
私は早足に彼のもとへ歩み寄ると、ポケットからハンカチを取り出した。
「こ、これ」昨日丁寧に手洗いして、しっかりアイロンもかけたから大丈夫なはずだ。
「ありがとう。借りっぱなしでごめんね」
ああ、と思い出したように呟きながら、加納くんはハンカチを受け取る。
「どういたしまして」という彼の言葉が終わらないうちに、「あ、あの」と私は急き立てられるように言葉を継いでいた。
「ボランティア委員、私も、なったの」
「知ってる。さっき桜井から聞いた」
「ご、ごめんね」
「は?」
「私なんかと、いっしょで」
加納くんは眉をひそめて私の顔を見た。昨日も見た、理解ができないものを見る目だった。
そこには、隠すことのない嫌悪があった。すっと身体の奥から冷たさが這い上がる。だけどそのあいだも、私は笑っていた。全身に広がる冷たさも息苦しさも関係なく、私の口元は笑みを作る。
いつからか、そうなっていた。
「……それさ」後ろにいる遠山さんたちを気にしてか、加納くんは少し声を落として
「やめれば。そういうの」
「え」
「もう帰っていいよ。整理、あとちょっとだし、今日は梅田もいるから」
来てくれてありがと、と平坦な声を付け加えて、加納くんは私の横を通り抜ける。
整理があとちょっとではないのは、さっきまで文書の山の前にいたのだからよくわかっていた。だけど私は動けなかった。振り返ることもできず、加納くんのいなくなった場所を見つめたまま、うん、と小さく頷く。そうして逃げるように書庫を出ると、ポケットから携帯を取り出した。
はるくん、とか細い声がこぼれる。
早く、あの陽だまりみたいな声が聞きたい。いつだって、私をまっすぐに肯定してくれる言葉を聞きたい。祈るように思いながら真っ暗な画面の携帯を握りしめても、手の中の携帯が震えることはなかった。
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