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オーバーイート
一滴のクラムチャウダーが、持ち上げられたスプーンからお椀に落ちる。そんなごく小さな音も響くくらいの、静かな静かな食卓だった。
テーブルに向かって座っているのは二人。しかしそこは、円満な食事風景とは言い難いほどの空寂だった。
唸り声のようなものが辺りに渦巻き、テーブルのあちこちには零れたクラムチャウダーや唾液が散乱していた。
ボーン、ボーン、ボーン、と突然時計が三回鳴った。つまり三時を告げたとき、重力に耐えられなくなった一滴のクラムチャウダーが、またスプーンから落ちた。
二人いるうちの片方は母親らしき人物で、もう一人の娘であろう少女の口元にスプーンを運んでいた。
だが、少女はそれを一向に口に放り込もうとしない。
少女と言ってもその容姿はおおよそ中学生か高校生くらいで、まさか親の扶助がないと食事ができない年齢でもあるまいに、少女は母親の差し出すスプーンには目もくれず、半開きの口から唸り声のようなものを上げるだけだった。
一方で母親は、笑顔を取り繕ってはいるもののそのやつれた容貌からは疲弊した様子が感じられる。
しかし、計らずともそんな気の滅入るような雰囲気は払拭されることとなる。
少女の体が一瞬グラリと揺れ、無造作に母親の持ち上げるスプーンにかぶりついた――。
「食べた。」
母親はそのことに対し、安堵ではなく歓喜を覚えた。
自分の娘が心配故に付き添っていたにも関わらず、いつしか娘が早く昼食を食べ終わることを望んでいるという些細な矛盾に気付かないで、母親の表情が明るくなる。
だがそれはぬか喜びであったとすぐに気付かされた。
娘の顔が不快に歪み、グチャグチャと陋劣な音とともにテーブル上に吐き出される物体。
その光景を目にした途端、微かに緩んでいた母親の頬はしなびたように元に戻る。そして黙ってスプーンを置き、まるで機械のようにウエットティッシュでそれを拭き取った。
もはや愛しの娘に大丈夫と声を掛けてあげられる心の余裕すらも、彼女にはなくなっていた。
もう三時か、と彼女は思った。三時間ほどこれを続けていることになるが、そんなに時間が経ったとは思えない。
老いたのだろうな。彼女はそう思った。
ある日彼女の元に、一件の電話が掛かってきた。それは大学を出て以来疎遠となっていた旧友からのものであった。
旧友は、声も話し方もあのころのままで、彼女は電話をしながら懐かしさに浸っていた。
あのころは楽しかった。充実していた。
あのころは何にも前向きで、一生懸命で、やりたいことがあって、友達も沢山いて――。考えていて反吐が出そうになる。
それもこれも、夢があったからなのだと彼女は思う。
いつから可笑しくなってしまったのだろう。
大学を出てすぐ、彼女はずっと付き合っていた男と結婚した。男の職は決して収入がいいものとは言えなかったが、男は一生懸命仕事をしたし、彼女はそんな男を心から愛していた。
だが夫の方はそうでもなかったようだ。
その冷めた夫は、別の女性を連れて忽然と家を出ていった。娘と妻をただ二人残して。
彼女の心を裏切りの衝撃が真っ白に支配しているさなか、今度は娘が危険ドラッグに手を染めたと聞いた。
唯一の拠り所さえなくした彼女は落胆した。一切の希望も残さず。
娘は、喋ったり笑ったり、食事をすることも満足にままならない状態だ。
もはや、夢を叶えようと志す時間も金銭も活力も、彼女には残されていなかった。
その旧友は、とても充実した毎日を送っているようだった。
いつから可笑しくなってしまったのだろう、と彼女は幾度となく繰り返す。
別に、自分の運命を呪ったり、目の前の娘に対して憎悪を持っているわけではない。母親が自分の子に責任を持つのは当然のことだから。
というように彼女は自分に言い聞かせようとするも、自分の心の隅の闇から這い上がってくる別のどす黒い感情が怖かった。
いつから可笑しくなってしまったのだろう――。
痛い。苦しい。頭の中がぐちゃぐちゃして何も考えられないし、何を喋っても誰も応えてくれない。
自分の体が他人に憑かれたようだった。
母が私に向けているものは、スプーンなのだろうか、包丁なのだろうか。
そんな感じで、私は母が私を殺そうとしているように思えてならない。それは幻覚によるものなのかもしれないし、もしかしたらそうではないのかもしれない。
母に負い目はないから。全部私が悪いのだから。
もしかしたらこのクラムチャウダーにも、毒が盛られているのかもしれない。そんな恐怖が常に込み上げてくる。
でもまぁ、もし入っていたならそれはそれでいいかな。
私は過食だ。
食べ物は何一つ喉を通らなくとも、母親の夢を貪る大食らいだ。
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