一章 私のデイリー

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一章 私のデイリー

 木枯らしが吹きつける冷たい冬が終わり、若葉の香が大気に満ちて色鮮やかな花々が地上を彩る春の季節がやってきた。  私の通っている高校は一応東京にあるのだが、山もあるし、町並みも昔ながらの下町を思わせる古臭さが残っている。  もちろん電車で渋谷や新宿、六本木に出れば高層ビルやスクランブル交差点などのインスタ映えしそうなオシャレなカフェに巡り合えるのだろうけれど、なにせ敷居が高い。 憧れはあるものの、足を運べないでいた。  そんなこんなで十七年間この町で過ごしてきた私は、今日から晴れて高校三年生になる。 「進路希望調査票は月曜日までに提出だからな、忘れるなよー。それを参考に進路面談するから、くれぐれも【魔法使い】とか、ふざけて書くなよ」  担任のジョークを交えた説明にクラスにどっと笑いがわく中、私は配られた進路希望調査票をじっと見つめている。 そこには【天橋楓(あまはし かえで)】という私の氏名しか書かれていない。 「はぁ……」  つい最近、友人と美容院で染めたばかりの長い紅茶色の髪をクルクルと指に巻きつけながら、机の上にピラリと置かれた白紙の進路希望調査票にシャーペンの先をちょんとつけては離すを繰り返す。 その不安定なさまは、優柔不断な私の心を表していた。  ──私には、夢がある。  自分で言うのもあれだが、私は活発でアウトドア派だ。加えて頭で考えるより先に身体が動く性分で、とりあえずやってみよう精神がモットーの人間である。だからか、親友からは似合わない、想像できないと口々に言われた夢だったりする。  ──そう、私の夢は『物書き』になることだ。  きっかけは、高校一年生のときに書いた文化祭の劇の脚本。 白雪姫という定番な童話をリメイクしたのだが、原作とは全く違う世界観でオリジナリティーがあると生徒たちから絶賛された。 舞台の幕が下りるとき、どっとわいた歓声と拍手に鳥肌が立つほど感動したのを覚えている。  自分の手で生み出したものが、誰かの感情を動かせたこと。 それがすごく嬉しかったから、小説でも脚本でもいい。この手で物語を綴る物書きになりたいと強く思った。 「かーえーでっ!」 「ぐふっ……」  突然、うしろから抱きついてきた誰かの腕は悪気はないのだろうが、私の首をホールドして締め上げている。 「く、苦しいっ……首、軽く締まってる!」 「あっ、ごめんね楓」  肩のあたりで切り揃えられた茶髪の彼女は、悪びれた様子もなくはつらつとした目元を細めてへらっと笑った。 彼女とは高校一年生からの付き合いで、私の数少ない親友のひとり、時枝 彩(ときえだ あや)だ。 「彩、背後から忍び寄ってたし、確信犯」 「わっ、びっくりした!」  突然、ヌッという効果音が合いそうな登場をした彼女は、静かな深海を思わせる黒の瞳とお下げ髪が特徴的であるもうひとりの親友、清水 由美子(しみず ゆみこ)だ。 「三年間同じクラスとか、これはもう運命でしょ」  ヒシッと私たちに抱き着いてくる彩に、由美子は乏しい表情で「呪いの間違いじゃない?」と言った。 それに三人で顔を見合わせると、ぶっと吹き出す。 「そんなことより、進路希望なに書こっかなぁー。やっぱ、流行りのユーチューバーかな」 「彩、現実見たら? ユーチューバーなんて、お先真っ暗でしょ」  鼻で笑う由美子に、彩は頬を膨らませる。 古風な由美子と現代っ子の彩は基本的に考え方が真逆だ。こんな衝突も、恒例行事である。 「なに言ってるの由美子、今は自己プロデュースの時代なんだよ」 「自己満足、の間違いでしょ」  虫をあしらうようにサラッとひどいことを言う由美子は、決して悪気があるわけではない。 建前ばかりがあふれるこの世界で、正直に生きているだけなのである。 なので歯に衣着せぬところも大目に見てあげてほしいのだが、彩もある意味正直な人間なので引かない。 「一般企業に就職したからって、未来が明るいかって言ったらそうとも言えなくない?」  あれよあれよという間に、私の机を挟んでディベート大会を繰り広げる親友ふたり。 ちょっぴりおバカで正直者の彩と、頭の固い現実主義者の由美子は平常運転だ。  いつもなら由美子に加勢して彩をからかうところだが、『ユーチューバーなんて、お先真っ暗』という言葉がやけに胸に引っかかる。 私の夢もユーチューバー並みに約束された未来はないし、そうそう叶うこもない狭き門だからだ。 「物書きなんて、夢のまた夢だって笑われるのかな……」  高校生活も終わりに近づき、私たちに残された時間は卒業までの一年となった。 この時期になると担任は「進路、進路」と口を酸っぱくして言う。 そのたびに焦りながら漠然とした未来を探し続けて、現実性と夢の狭間で板挟みになって諦めたり、諦めきれなかったりを繰り返す。 私はやっとこれだと思える夢に出会えたのに、現実という高い壁を前に今も迷っていた。  ──いや、迷っているというより家族がなんて言うのかが怖いのかもしれない。 我が家の父は小説家になると言って、三十年間務めた会社を突然辞めてきた経歴の持ち主だ。 それからは執筆に集中したいからと働かず、お母さんは苦労したのだとか。 今は兼業で夢を追い続けているが、お母さんはよく思っていないだろう。 だからお母さんは「ひとりになっても、生きていけるような職につきなさい」と口癖のように言う。 そういった点で父からの理解は得られるだろうが、母を説得するのは至難の業なのである。 「そのお父さんと同じ夢だなんて、血は争えないって感じだよね」 「楓、なにひとりでブツブツ言ってんの?」  ため息をついていると、それに気づいた彩が顔をのぞきこんでくる。 私は白紙の進路希望調査票を指さして、苦笑した。 「これに悩まされてるわけよ」 「楓は小説家になりたいんだっけ?」  由美子もそう言って、私の机に手をつくと進路希望調査票を見下ろす。 「うん、だけどお母さんに反対されるだろうなーって」  私が物書きになりたいということは、親友のふたりだけが知っている。 文化祭のあと、プチ打ち上げと称してふたりとカフェに行った。 私は興奮冷めやらぬまま、物語を創作する楽しさについて何時間も語り聞かせたのだ。 「でもさー、楓の人生なんだし、好きに生きなきゃ損だよ」 「まぁ、彩の意見は極端だけどさ、茨の道を進む覚悟で一握りの夢に突き進むか、諦めて安定を求めるかは楓が決めることだよね」  珍しく意見を揃える彩と由美子の言葉から励ましを感じて、私は口元に笑みを浮かべる。 それから、ひと呼吸置いて決心する。 「彩、由美子……うん、決めた。私、時枝彩は物書きになります!」  決意表明を聞いたふたりから「「おぉっ」」という歓声と拍手が贈られる。  言葉にすると本当にやれる気がして、私は強気にシャープペンを取り出すと進路希望調査票の希望する進路の欄に【物書き】と大きく夢を書き出したのだった。 *** 「ただいまー」  家へ帰ってくると靴も揃えずに脱ぎ捨てて、廊下を駆け足で進む。 この人生最大の決意を聞いて欲しい一心で、リビングに駆け込んだ。 「お母さん!」 「きゃあっ、びっくりした。もう少し静かに帰ってきなさいよ、もうっ」  リビングに入ってすぐのところにあるキッチンに立つお母さんは、危うく手に持っていた包丁を落としかけていた。  お母さんは今年で四十歳になる。 とはいえ看護師として現役で働いているせいか、実年齢よりも五歳ほど若々しく見える。 「ご、ごめん。それより聞いて!」  申し訳ないとは思ったけれど、はやる気持ちを抑えきれない。 今すぐにでも聞いて肯定して欲しかった私は、スクールバックの中を漁って、クリアファイルの中から例の用紙を取り出した。 「あのね、学校で進路希望調査票が配られたんだけど……」  お父さんの前科があったとしても、お母さんは私の母親なのだ。 きっと、そこまで言うならって認めてくれるに違いない。 家族に応援してもらえれば、私も諦めずに頑張れる気がする。 だから、背中を押してほしかった。 「あら、もう高校三年生だものね。それで、楓はこれからどうしたいの?」  お母さんは流し台の下にかけられたタオルで手をふくと、私の前にやってくる。  いよいよだと、心臓がドキドキと早鐘を打つ。 目の前に立ちはだかるお母さんこそ、最大の試練の壁のように見えた気がした。  でも、物書きになるならこれからもっとたくさんの試練があるはずだ。 これくらい乗り越えられなくてどうする。 そう自分の心にムチを打ち、お母さんを真っ向から見据えた私は告げる。 「私、物書きになる」  まるで果たし状を出すかのように、進路希望調査票をお母さんに突きつけた。  すると、お母さんの顔は進路希望調査票に書かれた【物書き】の文字に、みるみると険しくなる。 「こんなの、どうやって食べていくの? ダメに決まってるじゃない」  それを聞いて感じたのは、“やっぱり”だった。 想定内の反応だったので、私は誠意を見せて認めてもらおうと畳みかけるように自分の気持ちを伝える。 「お母さんが反対する気持ちは分かるけど、私が初めて熱中できたことなの。だから応援してほしい」  今まで、こんなふうにお母さんに意見したことがあっただろうか。 ううん、たぶん一度もないと思う。 基本的にお母さんの言っていることは正しいので、言い負かされることのほうが多く、なんでも「はい」のふたつ返事だった。  でも今回のことに関しては正しい、正しくないの物差しで測れることではないと思っている。 大事なのは私の気持ちだと、親友たちが教えてくれたからだ。 「楓、物書きなんて誰もがなれるわけじゃないのよ?」 「それは分かってるよ」 「第一、芽が出るまでどうやって生活していくの?」  しかしながら、お母さんの意見は正論過ぎて言い返すことができない。 大して賢くもない頭をフル回転させて、私はしどろもどろに答える。 「それは、バイトとかして……」 「それって、フリーターになるってことじゃない。若いうちはいいけど、歳を取ったらそうもいかないのよ? 働く先がなくて、生活していけなくなったらどうするの?」  今から歳をとったときのことを考えろって言われても、いまいちピンとこない。 先のことよりも大事なのは、今この胸で熱く燃えている気持ちなのに。伝わらない、なにもかも。   黙り込んだ私を見て、お母さんはため息をつく。 私の話から興味を失ったかのようにキッチンに戻り、まな板を取り出して今晩の夕飯であろう青魚をさばき始めた。 私はそのあとを追って、めげずに声をかける。 「お母さん、真剣に聞いてよ」 「はぁっ、何度話してもいいとは言わないわよ。お母さんは楓より何十年も長く生きてるから、あなたの思い描いている通りの未来にはならないって想像がつくのよ」  人生経験が豊かなお母さんが言うことは確かに正しいけど、でも私の人生じゃん。 一握りの夢かもしれないけど、諦めたら絶対に叶わない。 だから確約のない未来でも、私は物書きの道に進みたいって言ってるのに、どうしてわかってくれないの? 「私は諦めたくないの、お願いお母さん!」 「ダメよ、あなたには苦労して欲しくないの。だから、この話はもう終わり」  私が夢を打ち明けるのにどれほどの勇気を振り絞ったかも知らないで、一方的に話を終わらせるなんていくらなんでもひどすぎる。 「どうして……。私の話をちゃんと聞いてくれないの?」  どうして、勝手に私の夢を諦めるのだろう。 お母さんに認められないと、私は夢を持ってはいけないのだろうか。 私の未来が分かる預言者だというのなら別として、確証もないのに頑なにダメだと連呼するのは理不尽だ。  たくさんの悔しさと疑問が、胸にモヤモヤと浮かぶ。 言葉に出来ない複雑な感情が、なぜか目元を熱くして泣いてしまいそうになった。 「聞いてるじゃない、それで助言もしたわ。それでもやりたいって言うなら、本業の傍らで細々とやったらいいじゃない」  ぐずる子供を相手にするかのように、お母さんは呆れ混じりに言う。  でもそれって、趣味に留めておけってことだ。 そんなことを言って、私がお母さんの言う通りにして後悔したら責任をとってくれるのだろうか。 娘の夢を潰してなにが楽しいのかと、苛立ちが募る。 「どんなに心では否定してても、楓なら出来るって最後には応援してほしかったのに……」 「楓、お母さんはあなたのためを思って……」 「そんなの、私のためでもなんでもないじゃん! お母さんの思い通りの未来を私に押しつけたいだけなんだよ!」  つい声を荒らげてしまった、だけど止まれなかった。  私のためを思うなら、なんで背中を押してくれないの?  私のためだって言いながら、お母さんは自分の価値観を押しつけてるだけだ。  でも、それに言い返せない自分が悔しくて、目尻から収まりきらなくなった涙がぽろりとこぼれる。 「大声を出して、どうしたんだ?」  するとそこへ、この張り詰めた空気に気づかないお父さんが呑気な顔をしてやってきた。  そもそもお父さんが仕事を突然やめてお母さんを困らせたりしなければ、こんなに反対されることもなかったかもしれないのに。 「お父さんのせいだから!」 「なんだよ楓、藪から棒に」 「お父さんが好き勝手したせいで、私は自由に好きなことさせてもらえないんだよ!」  私は苛々していたせいで、お父さんにまで当り散らす。 わけが分からないという顔をするお父さんに、さらに苛々して罵声を浴びせてしまった。 「楓、お父さんに謝りなさい」 「よく分からないけど、楓、お母さんを困らせてはいけないよ」  お母さんもお父さんも、まるで人格者かのような物言いで私を咎める。  今の言い方は私が悪いってことくらい、百も承知だ。 でも言った手前、引き下がるのも癪で、述べた意見は間違っていないと譲れないものもあった。  大人の勝手な見解を押しつけて、私を押さえつけようとする両親。 それに私の人生は私だけのものなのに、という思いが膨れ上がって爆発しそうになる。  この世界中のすべてが私の敵になったかのような孤独感に苛まれて、家族なのに分かってもらえないことが辛くてたまらなかった。 「もう、いい……」  私は唇を噛んでゴシゴシと制服の袖で涙を拭うと、お父さんとお母さんをキッと睨みつけた。 「分かってくれないなら、もういい!」  そう言い捨てて踵を返すと、私は玄関へリターンする。 せめてもの反抗に、ドスドスと大きく足音を立てて走ってやった。 玄関でローファーをもう一度足に引っ掛けると、手ぶらでドアの取っ手に手をかける。 やけに取っ手が冷たく感じたのは、私の身体と心が怒りやもどかしさに火照ってていたからかもしれない。 「楓、こんな時間にどこへ行くの!」 「戻ってきなさい、楓。母さんの夕食の準備も手伝わないとだろう?」  振り返ると、お母さんとお父さんがゆっくりとした足取りで廊下に出てくるのが見えた。 焦った様子もなく駄々をこねる子供を見るような目を向けてくる両親に、私の決意もどうせ一時のものだろうと軽く捉えていることは一目瞭然だった。  それになおさら、言葉に出来ない刺々しい感情が膨れ上がる。  お父さんとお母さんが分かってくれないなら、二度と許可なんかとるもんか。  取っ手を強く握り、ドアを開け放つ。 このときの私は完全にぶち切れていて、彼らの声を無視すると勢いよく家を飛び出した。  ──走る、走る、走る。  東の空はすでに宵の闇を連れてくるかのように暗く、私はまだ明るい西の茜空を目指して全速力で駆けていた。 「信じられない、分からずや!」  長い髪を振り乱しながら、ときどき頬を打ちつけるのも気にせずに、高台にある私の家の前の坂を下りていく。  目的地なんてないけれど、今は少しでも遠くへ行きたかった。 「はぁっ、はぁっ」  息を切らせながら坂の終わり、道路へと続く石段の前にたどり着く。 階段の両脇は桜の木がアーチを描くように立っており、花びらがハラハラと舞っては地面に桃色のカーペットを作る。 石段は銀の手すりを堺にして、上りと下りに分けられていた。私は上がってくる人とは反対側の石段を駆け下りる。 真ん中のあたりまでやってくると、石段を上がってくる人の姿が見えてきて、自分と同い歳じくらいの男の子だということが分かった。 よく見れば、近所の仲良くしていたお兄さんも通っていた偏差値が七十八と高い進学校の制服を着ている。 サラサラとした濡れ羽色の髪とメガネの奥に輝く黒曜石のような瞳は、いかにも優等生といった風貌だ。  じっとその人を見ていたからなのか、はたまた石段を全力で駆け下りる私を不審に思ってなのか、彼の視線がゆっくりと私を捉えた。  うわっ……すごく冷たい目。  どこか温かさを感じさせる桜吹雪の中、彼の瞳の冷たさは真冬の如く凍てついている。 世界と彼の纏う空気の温度差は、天と地ほどあった。  しかし視線が重なったのは一瞬で、すぐにすれ違う。行く当てもなく逃げる私と、帰宅途中なのだろう男の子は反対方向へ進んでいく。  進学校に進むあの男の子には、私みたいな凡人の悩みなんて理解できないんだろうな。 そんなひがみを胸の内でこぼして「本当、羨ましいよ」と悪態をつきながら、石段を下りきった。 そしてそのまま、左右を確認せずに道路に飛び出したとき──。 「お嬢ちゃん、危ないよ!」  道路を挟んで向かいの歩道から、青い顔でおじいさんが叫んでいた。 ハッとして振り向いた瞬間、視界が真っ白な光に包まれる。 「えっ……?」  初めに分かったのは、キキィーーッという耳をつん裂くような大きなスリップ音。 次に感じたのは、竦む身体にすぐに訪れた強い衝撃。 私の身体は痛みすら感じる間もなく、宙へと放り出される。 そして地面に叩きつけられたと思った途端、私の意識はブツンッとテレビの電源が落ちるかのように途切れた。
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