二章 君のデイリー

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二章 君のデイリー

──ジリリリリッ。  聞き覚えのない目覚まし音に、泥沼に沈んでいた意識が急速に浮上する。  うるさいな、まだ眠いのに。  ハッキリしない意識の中で文句を言って、そういえば私の目覚ましってこんなに単調だったっけと疑問に思う。  よくよく考えれば、私の目覚まし音は好きなアーティストの曲になっているはずだ。 「ん……朝か」  軽く混乱していると、聞き覚えのない低い声が聞こえた。 それは確かに私の声帯を震わせて、私の口から発せられているはずなのに、私のものではない違和感。 私の意識に関わらず、ゆっくりと目が開けられると眩しい光が差し込んだ。  やがて目が光に順応してくると、自分が見たこともない部屋にいることに気づく。  なっ、なんじゃこりゃ! と、心の中で悲鳴を上げる。 人間、本当に不可解な出来事に遭遇すると、心が先に叫ぶらしい。  私はパニック状態で、とりあえず周りを見渡して情報を収集しようと試みる。 自分に起こっている状況を把握する材料が、圧倒的に少ないからだ。  部屋はベッドやカーテン、絨毯に至るまで紺色に統一されており、机や棚には参考書や文庫本がぎっしりと並べられている。  なによりいちばん目を惹かれたのは、私の腰の高さまである大きな望遠鏡だ。 『こんな都会で、星なんか見られるのかな』 「な、なんだ!?」  思わず呟くと、先ほどの低い声がまた口から飛び出す。 そして立ち上がったのか、グンッと視界が高くなった。  えっ、私……。こんなに背、高かったっけ。  私の身長は百五十二センチと低い……はずなのだが、まるで高台にでも上ったかのように世界が広がって見える。  というか、そんなことより知らない人と一緒にいることの方が大問題だ。 聞こえるのは明らか男の人の声だったし、私は誘拐されたのだろうか。 頭に浮かぶのは『監禁』という最悪な結末。 『あなた……だ、誰?』  恐る恐る尋ねて、自分の頭でも考えてみる。 最後に見たもの、聞いたもの、いた場所はどこかと記憶を手繰り寄せる。  聞こえてきたのはキキィーーッというタイヤの擦れるような音。 そのあと、私はどうなったのだろうか。 さらに思い出そうとしたら、頭がズキズキと痛み出した。 「なんだ、頭が痛いぞ……」  やっぱり声がハスキーになってる。 女なのに変声期かと戸惑っていると、私の身体は眉間を押さえるように手を動かした。 そこで見えた骨ばった手と血管の浮き出た前腕に、目を見張る。 『う、うそ……。いや、まてまて』  私の身体にしては、筋肉質すぎる。 これではまるで、男性のようじゃないか。 見間違いであることを神様に願いながら身体を確かめようとすると、指先ひとつ動かせないことに気づく。 『ちょっと、これどうなってんの!』 「なんなんださっきから、お前は誰なんだ! ここは俺の部屋だぞ、どこの誰かは知らないが、隠れてるなら出てこい」 『そっちこそ、私を誘拐したんでしょ! 早く姿を見せなさいよ!』  私は姿のない誰かと言い合っているのだが、声は確かに自分から発せられている。 逆に私の声は声帯を介することなく、身体の中でマイクのエコーのように響いていた。 『もう、どういう状況なの? 説明して!』 「お前が説明しろ!」  彼がもくろんだことでは、ないのだろうか。 私たちは同時にパニックを起こしており、事態の収拾がつかない。 「ひ、ひとまず落ち着け……。お前は誰だ?」  私じゃない誰かが身体を乗っ取ったみたいに、勝手にベッドに座る。 いや、逆だ。 この身体の感じ、よくよく考えると私のものとは違う気がする。 「おい、聞いてるのか……って、まさかな。疲れて幻聴でも聞こえたんだろう……はぁっ」  声の主はため息をつき、それに合わせて視界が下がる。 どうやら俯いているらしく、胸の膨らみもない平坦な身体が視界に入る。  それでハッキリとした。 私の意志とは関係なしに動くこの身体は、私のものじゃない。 『まさか私、この人に憑りついた?』 「お前、またか! まさか幽霊? いや、そんな非現実的なものは信じないぞ。なにかからくりがあるんだろう、白状しろ」  騒いでいる彼の声も耳に入らないほど、私は混乱していた。 なにが原因かは分からないけれど、私は死んでしまったんじゃないだろうか。 でなければ、目覚めて他の誰かの身体の中にいるなんておかしい。 『まさか』と『なんで』の文字が頭の中を堂々巡りする。  悩みに悩み抜いた末に私がたどりついた答えは、なんらかの理由で死に、幽霊としてこの男に憑りついたという仮定だった。 『本当に幽霊かも、私……』 「その手には乗らないぞ、いい加減に出てこい」  出ていきたいのは山々だけど、それができないから困っている。 というか、身体がないのだからどうしようもない。出る出ないの以前の問題なのだ。 「どうせ、クローゼットにでも隠れてるんだろ」  彼はもう一度立ち上がると、クローゼットへ近づいて両手で左右に開け放つ。 その勢いにカチャンッと、コートやセーターのかかったハンガーが揺れる。  しきりにクローゼットをのぞく声の主はそこに誰もいないと気がついて、二、三歩後退った。 「どうなってる……。本当に、どこにいるんだよ」  私はどうやら、この男の身体に取り憑いているだけでなく感覚も共有しているらしい。 今しがた開け放ったクローゼットの取っ手の冷たさも、後退ったときの足裏に感じる絨毯の摩擦も、実際に自分の身体のように感じている感覚があった。 『あのー、憑りついておいて大変恐縮なんですけど、落ち着いてください』 「この状況で、落ち着けるわけがないだろう。しかも、幽霊のお前には言われたくない」 『本当にそうですよね、すみません』  私に取り憑かれている彼は、迷惑千万な話だろう。 とはいえ、私もここにいたくているわけではない。 できることなら家に帰りたいけれど、この身体から出る方法も分からない。  まさか、こんなことになるなんて……。 もうお父さんとお母さん、彩や由美子にも会えないのだろうか。 物書きになる夢も叶えられない、やり残したことばかりだ。 「謝罪はいい、それでお前は誰なんだよ」  頭をガシガシと掻きながらベットに戻った彼は、頭を抱える。 正直に言うと、頭を抱えたいのは私のほうだった。 『私は広瀬楓、高校三年生。あなたは?』 「……俺は加賀見 宙(かがみ そら)だ。それで、こうなった経緯を説明してくれないか」  そうは言われても、私自身もこの状況をなんと説明していいのやら。 説明を求めたいのは、むしろ私のほうだ。 『私も目が覚めたら加賀見くんに取り憑いてたから、よく分かってないんだよね。他に分かることといえば、感覚を共有してるっぽいってことかな』 「お前の言ってることの半分も理解できない……。というか、したくない。俺は非科学的なものは信じない性質なんだ」  加賀見くんは、さっきからそればかりで頭が硬い。 彼がなかなか私の話を受けとめてくれないせいで、話が進まないから困る。 「こんなことがありえるのか? 幽霊が俺に憑依? これは夢か? そうに違いない」 『落ち着いてよ、加賀見くん。私だって、気がおかしくなりそうなんだから』  どうして死んだのか、どうして幽霊になって加賀見くんに取り憑いたのか、分からないことだらけで発狂しそうだ。 いっそ夢だと言われたほうが納得できそうだが、その言葉で片づけるには音も感覚も匂いもすべてにリアリティがありすぎる。 「──って、そろそろ出る時間じゃないか!」  急にスイッチが入った加賀見くんはハンガーにかかっている制服に着替えて、机の上にある筆記用具やスマートフォンをスクールバックに詰め込む。 『加賀見くん、高校生だったんだね』  彼の着ている制服は、私が住んでいた場所の近くにある進学校のものだった。 それをつい最近も見た気がする。 それはいつだっただろうと思考を巡らせていると、加賀見くんがそれをぶった切る。 「そうだ、俺には幽霊と話している時間は微塵もない」  宙くんは慌ただしくベットの隣にあるナイトテーブルに駆け寄ると、その上に乗っているメガネを手に取ってかけた。 その瞬間、視界が驚くほど鮮明になる。 『おおっ』 「急に大きな声を出すな、うるさいぞ幽霊」 『私、もともと目はよかったから、メガネをかけたときの感動がですね……』 「くだらない、いちいちそんなことで騒がないでくれ」  うんざりしている様子の彼にそこまで邪険にしなくてもとむくれていると、身体は私の意思に構わず部屋のドアの横にある鏡台へ移動する。  ついに姿が拝める。そう思ってワクワクしていると、その瞬間が訪れた。 「お前のせいで、朝から災難だ」  文句を言いながら制服のネクタイを締める彼の姿を見て、私は息を呑んだ。 黒曜石のような落ち着いた光沢を放つ切れ長の目に、スッと通った鼻筋。 凹凸のない頬骨にシャープな輪郭。 どれにおいても整いすぎて、冷え冷えとした印象を与える端正な顔立ちがそこにあった。 『なんという……イケメン』 「頼むから、頭の中で喋るのをやめてくれないか?」  この口調だけは好きになれないけれど、彼の姿には一瞬目を奪われた。 あとは愛想があれば申し分ないのに、なんて考えていると「宙、起きてるの?」とドア越しに女性の声が聞こえる。 「あぁ、今行くよ母さん」  声の主はどうやら、加賀見くんのお母さんだったようだ。 返事をした加賀見くんはドアを開けて部屋の外へ出ると、突き当りの階段を降りていく。 一階にやってくると、玄関前の廊下に出た。 掃除が行き届いているからか、埃ひとつなくフローリングが艶めいている。 玄関を背にして歩いていた宙くんは、ふと足を止めて廊下の途中にある小さなドアの取っ手に手をかける。 『ちょっと待って、その部屋は……!』   誰の自宅にもあるだろう一際小さな空間のドア、それはあきらかにトイレだ。 まさかとは思うけれど、この感覚も共有なのだろうか。 そうだったとしたら、絶対に阻止しなければと叫ぶ。 『お願いっ、それだけは待って!』 「生理現象なんだぞ、我慢しろっていうのか」 『トイレはダメ! 私、乙女! ストップトイレット!』 「なんで急に片言になるんだよ。あと、英語の使い方おかしいからな」 『そんなことより、トイレは我慢して!』  真っ青になりながら、私は加賀見くんを必死に引き止める。 男性の排泄動作の流れは、なんとなく想像できる。 見たくないなら、視線を外してもらえばいいという問題ではない。 拭く、ブツをしまうという動作で直接触らなければならないことが大問題なのだ。 「俺の身体なんだぞ、嫌ならさっさと出ていけ」 『それができるなら、とっくにやってるよ!』  大声で言い合っていると、背後から声をかけられる。 「お前、ひとりでなにを騒いでるんだ。静かにしないか」  加賀見くんが振り返ると、スーツを着た年配の男性がいた。 加賀見くんにそっくりで整った顔をしているが、ニコリともしないので威圧感が凄まじい。  ここでもうひとつ、分かったことがある。 男性は加賀見くんがひとりで騒いでいると言っていたので、私の声は聞こえていないらしい。 つまり加賀見くんだけに、私の声が聞こえるということだ。 『誰、この人?』 「父さん……」  私の問いに答えたというより、お父さんを呼んだのだろう。 そんな加賀見くんの声は、ひどく冷めきっていた。 「社員二千人を抱える加賀見不動産を継ぐ人間が時間にだらしないなど、許されないぞ。くれぐれも遅刻なんてするんじゃない」  加賀見不動産?  お父さんの口から語られた会社の名前を私は知っている。 確かあれだ、テレビのCМで見たことがあったんだ。 リーズナブルな家具付き賃貸をやっているとかで、上京してくる大学生にも人気の不動産会社らしい。  その会社を継ぐということは、加賀見くんは社長息子ということだろうか。 大手会社の社長であろうお父さんの威厳ある眼差しを前に加賀見くんは俯き、床を睨みつけて感情を押し殺したように返事をする。 「……分かってる」 「お前は加賀見の名字を背負っているんだからな、忘れるなよ」 「あぁ、忘れてなんかない」 「俺はもう仕事へ行く。さっさと用意して学校へ行け」  それだけ言ってお父さんは加賀見くんのすぐ側をすり抜けると、玄関で靴を履き替える。 その間はお父さんも加賀見くんも無言で「行ってきます」も「行ってらっしゃい」もない。 それが当たり前かのように、お父さんはこちらを一度も振り返ることなく家を出ていってしまった。  唖然としながらお父さんの背中を見送っていると、胸のあたりがチクチクと痛みだす。 これは加賀見くんが感じている痛みだろうか。 どうやら彼の感情も、私に伝わってくるらしい。 「会社を継ぐ人間ね、ふた言目にはそれか」 『…………』  皮肉めいた言い方に、思わず言葉をかけるタイミングを失った。 彼はなにかを考え込んでおり、おそらくほとんど無意識でトイレのドアを開ける。 『えっ、ちょっとまっ……いやぁぁぁぁっ』  そんな私の悲鳴も届かないまま、加賀見くんは膀胱と大腸をすっきりさせてしまった。 ジャァァッという水の流れる音が、やけに虚しく響く。 「人が用を足しているときに、叫ぶやつがあるか」  額に手をあててげんなりとした声を出す加賀見くんに、私は深い、それは深いため息をついて泣きそうになる。 『はぁぁぁっ……。信じられない、初めてだったのに……』 「誤解を招く言い方をするな」 『加賀見くんのバカ! 人手なし! 変態!』  さっきまでは大事なものを喪失したような気持ちで気を失いそうになったけれど、今は怒りでどうにかなりそうだ。 「お前……いいか、よく聞け。俺にもう話しかけるな、鬱陶しくて敵わない、いいな?」 『えぇっ、そんな横暴な……』  私の声は加賀見くんにしか聞こえないというのに、話し相手を失うのは排泄の感覚を共有するより辛い。 こんな状況で平静を保っていられるのは、加賀見くんが私を認識してくれているからだ。 これが透明人間みたいに誰にも認知されなかったら、今頃おかしくなっていただろう。 「俺の平穏を壊すな」  加賀見くんの平穏……か。 確かにこの身体は加賀見くんのものだし、私がいたらきっとさっきみたいに迷惑をかけてしまう。 この状況をどうしたら解決できるのかは分からないけれど、ときが来れば私も解放されるかもしれないし、大人しくしていよう。 『わかった、大人しくしてるよ』  渋々頷いて、私は黙っていることにした。  それから加賀見くんはリビングに行ってお母さんと無言の朝食を終えると、スクールバックを手に学校へと向かった。 「おはよう、加賀見くん」 「委員長、おはよう!」  学校へ到着すると、男女問わず視線が加賀見くんに集まった。 そして廊下を歩くと道行く人が挨拶をしてくるので、ちょっとした殿様気分だ。 『ねぇ、委員長って?』  生徒たちに「おはよう」と短くかつ事務的に返事をする彼に、こっそり尋ねる。 私の声は彼らには聞こえないので別に声を小さくする必要はないのだが、今朝お父さんがいるところで話しかけてしまい、加賀見くんはいらぬ注意を受けてしまった。 また迷惑をかけてしまうかもしれないし、人前で堂々と話すのは躊躇われたのだ。 「……お前、もう約束を忘れたのか」  怒りに震える声が返ってきて、私はうっと呻く。 そういえば大人しくしているという約束だったっけ、とばつが悪くなった私は「すみません」と謝って黙ることにした。  ややあって教室の入口へやってくると、三年A組と書かれた札が見えた。  加賀見くん、私と同い歳だったんだ。  そんな事を考えていると、教室に入った加賀見くんの方をチラチラ見ながら皆が「委員長って、全然笑わないよね」「この間のテストもダントツで学年トップだったらしいよ」「勉強にしか興味がないんじゃない?」と噂している。  そんな中を平然と突き進み、真ん中の列のいちばん前の席に座る加賀見くん。 皆は遠目に加賀見くんの話をしており、誰も近づこうとしない。というより、人を近づけさせない雰囲気を加賀見くん自身が纏っているのだ。 「あの……加賀見くん」  そこにたったひとりだけ、勇者が現れた。 その子は栗色の可愛らしいショートヘアーの女の子で、チワワを彷彿とさせる瞳が印象的だった。 ポテッとしたピンク色の唇なんて、男の子ならほっとけないだろう色気がある。 「前田さん……なにかな」  そっけなく名前を読んだ瞬間、加賀見くんの心臓が大きく跳ねたのが私にも伝わってきた。 平静を装っている彼だが、鼓動が尋常じゃないほど加速している。 「今日のホームルームで委員会決めをしてほしいって、先生から頼まれたんだ」 「そうか、ならやろうか」  前田さんとの会話中、声の感じに変化はないけれど胸がずっと騒いでいる。 これってまさか、もしかしなくても加賀見くんは前田さんに気があるのではないだろうか。 「加賀見くんがいてくれて安心するよ。私、人前で話すの苦手で……」 「ぜんぶ俺がやるから、安心していい」  へぇ……、優しいところもあるじゃん。 なんて、上から目線の感想を抱く。 さっきまで私に悪態をついていた加賀見くんとは、同一人物に見えないほどの変わりようだ。  加賀見くんは有言実行とばかりに席を離れると凛とした姿勢で教卓の前に立ち、クラスメートの顔を見渡す。 「皆、聞いてくれ。すでにクラス委員は決まっているが、三年度の委員会決めはまだなので、この時間を使って決めさせてほしい」  前田さんも同じクラス委員なのだろう。 率先して仕切る加賀見くんの隣にちょこんと立っている。 人前に出るのが苦手な彼女に代わって堂々と発言する加賀見くんの姿に、クラスメートが尊敬の眼差しを向けていた。  私が話しているわけではないのに、なんか優越感を感じる。 平凡な私とは違って、彼は皆から慕われる優等生でもあるらしい。 私とは違う人生を生きる加賀見宙がどういう人間なのか、もっと興味がわいた。  お昼休み、加賀見くんは屋上のフェンスを背にお弁当箱を開け始めた。 皆は教室で食べているのに、どうしてわざわざ屋上でご飯を食べているのだろう。 『教室で食べたらいいのに、ひとりでご飯なんて寂しくない?』  気になって聞いてみると、卵焼きを口に運びながら加賀見くんは短く答える。 「話しかけるな」 『いーじゃん、誰もいないんだし』  ずっと黙っているなんて、苦痛で耐えられない。 ただでさえ、加賀見くんの身体から出られなくて窮屈な思いをしているのに。 『ケチ! 前田さんのときとは対応が大違いじゃん。まったく、私にも優しくしてよね』  不満を口にすれば、ゴフッと加賀見くんが咳き込む。 咀嚼していた卵焼きが気管に入りそうになって、私まで肝が冷えた。 『ちょっと、感覚を共有してるんだから気をつけてよ!』 「お前、そこでなんで前田さんが出てくるんだ」  あそこまであからさまに彼女に反応していれば、恋愛に疎い私でも分かる。 好きな人と、その他の人間の扱いの差が激しいと文句を伝えたつもりなのだが、彼は私が知るはずないと思っていたようで動揺していた。 『加賀見くんさぁ、前田さんのこと好きでしょ』 「……意味が分からない、根拠のないことを言うな」 『忘れたのかなぁー? 加賀見くんと私は感覚を共有してますから』 「だからって、心までは分からないだろ」 『なんとなくなら感じるよ。この胸のトキメキは確実に恋だって』 「……面倒なヤツに知られた……」  無意識になんだろうが、加賀見くんは白状した。 すぐに自分の失言に気がついた彼は、ハッとしたように口元を手で押さえる。 『好きならなおさら、教室で食べなよ。話す機会は多い方がいいと思うよ』 「余計なお世話だ」  力尽きたように項垂れた加賀見くんは、気を取り直すようにペットボトルのお茶をゴクゴクと飲む。  クラス委員で同じ委員会というだけでは、接点が少なすぎる。 委員会だって、そんなに頻繁に開催されるわけではないのだから。 『もう高校三年生だし、前田さんと一緒にいられるのは一年しかないんだよ?』 「そうは言っても俺が教室で飯を食べてみろ、遠巻きにコソコソ噂話しされてたまったもんじゃない」 『まぁ確かに、居心地はよくないだろうね』  朝、加賀見くんが教室に入った瞬間に、皆が声を潜めて仲間内で耳打ちするような素振りを見せていた。 決して悪い噂話だけではなかったけれど、彼の不愛想ぶりが祟って笑わないだの、勉強にしか興味ないだの、好き勝手に言われていたのを思い出す。 「朝のは、まだ序の口だ」  不快極まりないといった顔で、彼は前髪をかき上げる。 『え、あれで?』  あれで序の口ならば、いつもはどれだけひどいのだろう。 どんな内容にせよ、コソコソと自分のことを言われるのは気分が悪い。 彼が屋上に避難したくなる気持ちも分かる。 「こっちがなにも言わないことをいいことに、あいつらは勝手に僻んでくるからな」  それっきり口を閉ざした加賀見くんに、私は胸が重くなるのを感じた。 皆に尊敬されるくらい勉強ができて、大手企業を経営している裕福な家に生まれて、委員長という責任ある地位にいる彼は、なにもかもを手にしているはずだった。 なのに、加賀見くんは少しも嬉しそうではない。  私は黙々とお弁当を食べている彼と、言いようのない切なさを共有していた。  午後の授業は、古典の授業だった。 「加賀見くん、教科書二十三ページを読んでください」 「はい」  先生に指名されて席を立つと、加賀見くんは古典の教科書の文を読み始める。 「いまはむかし、たけとりの翁といふものありけり。野山にまじりて竹をとりつつ……」  あ、竹取物語だ。 加賀見くんって綺麗な声で読むんだな。  低いけど聞き取りやすくて、なんだか落ちつく声音だ。話しなれない古文でさえ、スラスラと朗読できる彼は、さすがは優等生だ。 「よろづのことにつかひけり。名をば、さぬきのみやつことなむいひける……」  加賀見くんが教科書を読み上げる中、気になったのは教室がざわついていることだ。 「やっぱり加賀見くんってすごい」 「ただ教科書読んだだけでこれだよ」 「加賀見ってお高くとまってるのが、なんか鼻につくんだよな」  女子からの称賛とは打って変わって、一部の男子からは悪口もチラホラ聞こえる。 「いつも冷めた顔してさ、まじテンション下がるよな。だからいつもひとりなんだろ」 「大手企業の跡取りらしいし、一般人の俺らとは関わりたくないんだろ」  私に聞こえているということは、その声は加賀見くんの耳にも届いているはずだった。 なのに好き放題言われても、加賀見くんはなにも言い返さない。 「その竹の中に、もと光る竹なむ、ひとすじありける。あやしがりて……」  気にした素振りもなく、そのまま読み続ける。 尊敬されても疎まれても、加賀見くんの周りには誰もいない。人が遠かった。 淡々と竹取物語を読み続ける加賀見くんは、孤独の中にいる。 それを知ってしまった私は、胸がチクチク痛んでしょうがなかった。  放課後、クラスメートと短い別れの挨拶を済ませた加賀見くんはそそくさと教室を出て帰路についた。 午後十六時前だからか、まだ空は青い。 学校前の桜並木の道は花びらが薄く降り積もって、桃色の絨毯が敷かれている。 それだけでも華やかなのだが、この通りは『渋谷駅』に繋がっているため、お洒落なブティックやレストラン、カフェが立ち並んでいて、いかにも東京という感じだった。  ただ今は、そんなキラキラした景色でさえ心踊らない理由がある。 『ねぇ、加賀見くん』  ぼんやりとコンクリートを眺めて歩いている彼に、私は声をかける。 話しかけるなって怒られるのを覚悟で加賀見くんの返答を待っていると、予想外なことに「なんだ」と短くはあるが返事をくれた。  それだけで、なぜだか嬉しくてたまらない。 滅多に懐かない猫がほんの少しだけそばにきてくれたような感動に背中を押されるように、思い切って今日のことを聞いてみることにした。 『どうして、なにも言い返さなかったの?』 「……そのことか、別にどうでもいいからだ」 『どうでもいいって……。私なら、あんなこと言われたら辛いって思うのに』  本当にどうでもいいって思っているのなら、加賀見くんは私と違って強いんだな。 私はクラスメートに陰口ひとつでも叩かれたら、その日一日ブルーだ。 人目を気にして、家に帰っても悶々と考えていると思う。 「本気でどうでもいいんだ。どうせ、僻むことしか出来ないバカなやつらの戯言だろ」 『そんな……人を蔑んで見てるのは、加賀見くんも同じじゃない』 「群れるしか能がない人間をどう敬えっていうんだ」 『群れてるんじゃなくて、友達なんだよ』 「友達、ね」  興味なさげに言う宙くんに、私は胸の奥に火が灯るのを感じた。 彼が自分以外の人間と繋がることの意味を、見出せていないことにやきもきする。 宙くんは、気づいていないだけなのだ。 友達や仲間がどれだけ心強いのか、必要な存在なのかを。 私は彩と由美子の姿を頭に思い浮かべながら、彼に言葉を重ねる。 『もっと自分のことを話して知ってもらえば、友達ができるはずだよ』 「そんな上っ面の付き合いに、必死になるだけ時間の無駄だ」  時間の無駄、上っ面の付き合い……。 友達全員がそういうわけじゃない。 足がすくんで踏み出せないとき、背中を押して勇気をくれたり。 くだらないことも、一緒にいるとバカみたいに笑えたりする。 そういう関係を友達と呼ぶのではないのだろうか。  私にとっては、彩や由美子がそうだった。 もう会えない、そう思ったら胸が張り裂けそうなほどに痛くなる、そんな人達。  そうだ、加賀見くんは強いんじゃない。人を信じることが怖い弱虫なのだ。 『加賀見くんは、まだ知らないんだよ』 「どういう意味だ」 『友達がどういう存在なのか、それを知ったら加賀見くんもいいなって思えるって』  加賀見くんは人生を損している。 地位も名誉も人望も持っている彼には嬉しいとか、楽しいという気持ちが欠落していた。 「俺は加賀見不動産の跡取りだ。学校は経営学部のある大学に入学するための学力を養う場所であって、仲良しごっこをする場所じゃない」  それは柔軟性というものをどこかにおいてきた、彼らしい言葉だった。  仲良しごっことかではなくて、辛いときに支えてくれる仲間を作ってほしいだけなのだ。 それが伝わらないやりきれなさに、腹の底からふつふつと怒りがわいてくる。 『勉強なんて、しようと思えばいつでも出来るじゃん。友達と語り合ったり、恋に勤しんだり、今しかできないことに時間を費やすことのほうが価値があると思う』  そう言えば、彼はフンッと鼻で笑った。 「実りのない会話に耳を傾けるくらいなら、家に帰ってテレビのニュースを見ていたほうがずっと価値があると思う。恋に勤しむくらいなら、勉強していたほうがずっと有意義だ」  ニュースのくだりは百歩譲って聞き流すとして、恋するくらいなら勉強するとはどの口が言っているのか。 前田さんにときめいていたのは、どこの誰だ。 『この、わからずや! こうなったら、楓様が直々に教えてあげようじゃないの!』  変な使命感に燃えて、私はまたもや加賀見くんの中で叫ぶ。 案の定、加賀見くんは両手で耳を塞ぎ、苛々した様子で声を上げる。 「だから叫ぶな!」  道のど真ん中で叫んだ彼に、通行人が好奇の目線を向ける。 それに気づいた加賀見くんは、苦虫を噛み潰したような気分になっているのが伝わってきた。 それをしめしめと心の中で意地悪く笑いながら、私はからかうように話しかける。 『ぷっ……私の声は加賀見くんにしか聞こえないんだから、気をつけなよね~』 「誰のせいだ、誰の……」  心底疲れきった声で恨めしそうに呟く加賀見くんに、私はざまぁみろと笑いながら話を戻すことにした。 『人生一度限りなんだから、もっと楽しく生きなきゃもったいないよ』  実感はないけれど、私の一度きりの人生は終わってしまった。 でも加賀見くんは、この先もシワシワのおじいちゃんになるまで生きていく。 これは幽霊になって分かったのだが、その命が終わる瞬間に、あぁ、自分の人生ってこんなにも彩っていたんだなって思えることが重要なんだと思う。 「おせっかいな幽霊」 『あのねぇ、これは経験者からの助言なんだよ。私みたいに中途半端な生き方して死んじゃうと、後悔するってことを言いたいの』  今日死ぬってわかっていたなら、両親に反対されても夢を突き通したはずだ。 分かってもらえるまで、両親を説き伏せたはずだ。 なんて、未来は誰にも見えないから仕方のないことなのだけれど、先がある彼には私と同じ過ちを犯さないでほしい。 『ということで、私がいるうちは加賀見くんの人生を楽しくするからね』  私が彼に憑りついたことに、意味があるとしたら。 きっと損得でしか、有益かそうでないかでしか、世界を見られない加賀見くんの凍りついた心を溶かすためなのではないか。 そんな使命感に突き動かされて、自分でも驚くくらい必死にそう言っていた。 「俺は許可してないぞ、嫌な予感しかしないからやめろ」 『残念、もう決定事項ですので』  ふてぶてしい言い方をされても、私はふふんと笑う。 これからは話しかけるなと言われても無視しよう。 いつこの身体から出られるかは分からないけれど、そばにいる間だけでもなにかできたら、私の人生も少しは意味のあるものだったって思えるかもしれないから。 『さっそく明日から『加賀見くん、友達百人できるかな』計画立てなきゃ』 「なんだ、その小学生向けの計画は……却下」 『その却下を却下!』  加賀見くんとガヤガヤ騒ぎながら歩く帰り道。 死んでなにもかも失って、普通なら戸惑っておかしくなっているところだけど、私は笑えている。 それはたぶん、私が今ひとりじゃないからなのだろう。  だから、ありがとう加賀見くん。 なんて、本人にはなんとなく言いにくくて、私は心の中でそっとお礼を言った。
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