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三章 人生のプロデュース
ジリリリリッという聞き慣れない単調の目覚まし音で、一気に浮上する意識。
やがて加賀見くんが覚醒したのか、眩しい光が視界を占領する。
昨日は加賀見くんが眠るのと同時に、私の意識もなくなった。
それどころか眠気まで共有しているので、やっぱり死んだという実感はない。
あるとすれば、身体が不随意に動くという違和感だろうか。
『おはよう、加賀見くん』
「うわぁっ」
一日の基本である朝の挨拶をすると、彼はバサバサッと掛け物ごとベッドから落下した。
ドスンッと尻餅をついたせいで、臀部から腰に掛けてじりじりと痛みが襲ってくる。
『痛いっ、その身体は今や私のものでもあるんだから気をつけてよ!』
こういうとき、感覚を共有している不便さを痛感する。
「やっぱり、昨日のことは夢じゃなかったのか……。そうだ、ひとつ修正しておきたいんだが、この身体は俺のものだからな」
まぁ、今のは言葉の綾だ。
感覚を共有している以上は、私だって快適に過ごしたい。
毎度驚かれて尻餅をつかれては、たまったもんじゃない。
夢だと思いたい気持ちもわかるし、私だって彼の立場だったら卒倒する。
現実逃避をしたくなるだろうけれど、加賀見くんは極端にキャパシティーが狭すぎる。
実際に私がこうして話しかけているのだから、そろそろ受け入れてくれてもいい頃じゃないか。
『加賀見くんは夢だと思いたいんだろうけど、残念ながら現実だよ』
ノソノソと起き上がってベッドに腰掛ける加賀見くんに、私は声をかける。
「幽霊に現実がどうこう語られたくないな」
『幽霊じゃなくて楓、ちゃんと名前で呼んでよ』
「呼び名なんて、どうでもいいだろう。幽霊で十分だ」
『そんなんだから、友達ができないんだよ。友達への第一歩は、名前で呼び合うこと。それで相手が親近感を持てれば、作戦成功なんだから』
「あいにく、幽霊に構ってる暇なんてないんでな。話はここで終わりだ」
『だから、かーえーで!』
また加賀見くんの中で叫ぶと、加賀見くんが額に手をあてて天を仰ぐ。
「だから、俺の中で叫ぶなって言ってるだろう!」
そういう加賀見くんも叫んでいるのだが、自覚はなさそうだ。
名前を呼ぶだけで揉めるなんてこんな調子で大丈夫だろうかと、朝からどっと疲れてしまった。
***
「いただきます」
『いただきます』
挨拶をして、朝ごはんを食べる私たち。
正確に言えば加賀見くんが食べているのだけれど、味を共有できることに深く感謝した。
『んうぅ~、このアボカドベーコンのサンドイッチ、最高!』
今日の朝食は目玉焼きにアボカドベーコンのサンドイッチ、そしてミネストローネ。
天橋家の食卓には一度だって並んだことのない、豪華なメニューだった。
朝食の席には昨日と同じく、お父さんの姿はない。昨日も加賀見くんが起きてきた頃に家を出て行ったから、忙しいのだろう。
なので今は加賀見くんとお母さんのふたりきりで向かい合って食事をしているのだが、気になるのは食べ物を咀嚼する音が聞こえるほどの沈黙だ。
我が家の朝食では会話が途切れることがなかった。むしろ会話の主導権を誰が握るかで争いが始まるくらいなので、落ち着かない。
ただひたすらにサンドイッチを噛んでは嚥下する加賀見くんに、私は『ちょっと!』と声をかける。
「…………」
もちろん加賀見くんはお母さんの手前、話そうとはしない。
けれど耳を傾けてくれているのは、彼の纏う空気で分かった。
『ご飯おいしいよ、とかないの?』
「…………」
『お葬式だって、もっと騒がしいはずだよ』
「…………」
『ねぇ加賀見くん、よくこの沈黙に耐えられるね』
「うるさい、騒ぐな!」
ガチャンッと机についた手が、食器とミネストローネの水面を揺らす。
あーあ、加賀見くんも懲りない人だ。
まるでお化けでも見るかのような目で見つめてくるお母さんに、加賀見くんは「あ」と短く声をもららす。
加賀見くんもやっと、自分の犯した失態に気づいたのだろう。
それ以上の言葉を紡げずに、狼狽しながら視線を彷徨わせた。
ほっておいてもいいのだが、この事故の発端は私にある。
このまま知らんぷりするのも後味が悪いので、ここは人肌脱ごうじゃないか。
『俺の心が母さんの手料理の素晴らしさに騒いでるんだ、とかどうかな』
「……は?」
呆れたような、気の抜けた声を出す加賀見くんは、完全にお母さんの前だということを忘れているらしい。
それから少し間を置いて、彼は呆れた声を出す。
「なんだ、その小説の描写みたいな発言は」
『あはは、私、物書き志望だったからね。って、そんなことはいいから早く言って!』
「断る」
『じゃあ他に、この気まずい空気をなんとかする方法が思いついたわけ?』
「ぐっ……元はといえばお前が……っ」
もごもごと口を動かしている彼を『ほら』と急かす。
すると加賀見くんは「わかったよ、やればいいんだろ!」と髪を搔き混ぜて、静かにお母さんを見据えた。
「……あの、母さん。俺の心が……だな」
「え? えぇ……」
突然話し始めた加賀見くんに、お母さんは目を瞬かせる。
それだけ朝食の席で、彼が口を開くことは珍しいのだろう。
「母さんの手料理の……素晴らし、美味しさに騒いでて……」
「は、はぁ……」
宇宙人でさえもっとうまく話せるだろう片言も、加賀見くんにかかれば暗号だ。
お母さんは怪訝そうに眉をひそめながら、静かにミネストローネをすくっていたスプーンを置く。
「つまりは……その、ご飯が美味しいって言いたかっただけだ」
無理やり完結した加賀見くんだったが、言いたいことは伝わったはずだ。
お母さんの言葉を待っている間、心臓が早鐘を打っていて、あげく顔に熱が集まるのが分かる。
加賀見くんはすごく照れているらしかった。
感覚の共有というのは便利なもので、彼の思いがなんとなくではあるけれど自分のことのように分かる。
「宙……ありがとう」
声を震わせて涙ぐみ始めたお母さんは、心の底から嬉しそうに続ける。
「あなた、普段そういうこと言わないから……驚いちゃったわ」
「……ごめん」
「いいえ、ごめんなさい。なにも言えなくなるような、この環境があなたから言葉を奪っているのよね」
なんとなく、私が聞いてはいけないような話な気がした。
かと言って、私は耳を塞ぐことも目を瞑ることも出来ない。
勝手に盗み聞きしてしまうことを申し訳なく思いながらも、お母さんの言うなにも言えなくなるような環境、それは加賀見くんが家族とあまり話さないことと関係があるのだろうかと、耳をそばだてている自分がいる。
「……母さんのせいじゃない、父さんが……」
加賀見くんは、そこまで言いかけて口を噤む。
その言葉の続きの代わりに、胸がズキズキと痛みだすのを感じた。
これはおそらく、加賀見くんの感情だ。
『加賀見くん……』
どうしてこんなに胸を痛めているのか、感覚を共有しているだけで考えていることすべてが分かるわけではない。
それがもどかしくて、私はかける言葉が見つけられないでいた。
「さぁ、冷めてしまうから宙も食べて」
この話はここで終わり。
お母さんのひと言に、そんな意味が込められている気がした。
「いただきます、母さん」
話がそれたことにほっと息をついた加賀見くんはほんの少しだけ、表情を崩して笑みを浮かべた。
止まっていた時間が動き出すかのように、お母さんがミネストローネに口をつけると、加賀見くんもサンドイッチにかじりついて、食事はゆっくりと再開される。
会話は少なかったが、さっきよりもうんと和やかな空気に包まれていた。
加賀見くんの家は立派な家ばかりが建っている住宅街の一角にあり、そこから学校までは十五分ほど歩く。
昨日も通った桜並木の道を進みながら、私は念を押すように加賀見くんに声をかけた。
『加賀見くん、忘れたわけじゃないよね?』
「なんの話だ」
『友達千人できるかな計画の話だよ』
「昨日は百人って言ってたけどな」
『ということは、私の話をしっかり聞いてくれてたってことだね』
しらばっくれる加賀見くんに、私はカマをかける。
見事に引っかかってくれて、私はふふんと笑い、ちょろいなと思った。
「お前な……」
加賀見くんは苛立ちに声を震わせる。
『学校が楽しみだね、加賀見くん』
「俺は楽しみじゃない、今から引き返したい気分だ」
そんなことを言いながら、彼はいかにもな優等生なので引き返したりはしないだろう。
それからも、ぶつぶつと不満を口にする加賀見くんに笑みがこぼれる。
朝食の時間にお父さんの話題が出たとき、彼は辛そうだった。
なのでいつもの調子を取り戻した彼の悪態は、なんだか聞いてて嬉しくなった。
***
教室へやってきた加賀見くんは「おはよう」と昨日と変わらず、事務的に挨拶を澄ませて着席する。
「おはよう、加賀見」
「おはよう」
うしろの席に座る男の子が、少し身を乗り出して挨拶をしてくる。
運動部だろうか、日に焼けた色黒の肌にガッシリとした身体つき。
アッシュブラウンのソフトモヒカンが、とてもよく似合っている生徒だった。
これは願ってもない最大のチャンスだ。
ぜひとも人生初の友達第一号にと、そんな期待を込めて私は目を血走らせる。
厳密に言うと見るのは加賀見くんなのだが、そういう心持ちでという意味である。
『加賀見くん、加賀見くん』
さっそく教科書を広げて、予習をはじめようとしている彼の名前を連呼する。
「……っ、うるさい」
私が声をかけると、小声で文句を言ってくる加賀見くん。
ただ、加賀見くんの席とうしろの席は手を伸ばせば届く距離なわけで……。
案の定、うしろの席の彼に聞こえてしまったらしい。困惑したような顔で、こちらを見ていた
『今のうるさいってやつ、たぶん勘違いされたよ』
「勘違い?」
うしろの席の彼、俺がうるさいってこと? みたいな顔してる』
「…………」
『なにか言ってあげなって、友達百人計画はもう始まってるんだから』
「その計画に乗ったつもりはないが……」
そこまで言いかけて机に視線を落とし、加賀見くんは考え込む。
そして面倒そうではあったが、意を決したように「風間(かざま)」と名前を呼んだ。
「お、おう……」
すると風間くんは身構える。
お世辞にも目つきがいいとは言えない加賀見くんとの見つめ合いは、警察の取り調べを見ているような張り詰めた緊張感があった。
「そういう意味じゃない」
そしてなにを言うかと思えば、主語の抜けた弁解。とてもじゃないが、頭がいい人の発言とは思えない。
「……は?」
風間くんも目や口をあんぐりと開けて、加賀見くんの顔を凝視している。
一度で理解されなかったことに苛立ったのか、加賀見くんは語気を強める。
「だから、そういう意味じゃないと言っている」
「…………」
今、チーンという漫画の効果音が鳴りそうなほど、世界が静止している。
風間くんは眉根を寄せて、必死に加賀見くんの言いたいことを考えている様子だった。
私はすかさず『ヘタか!』と突っ込んだ。
私に身体があったなら、全力で床にすっ転んでいるところだ。本気で。
「ヘタ言うな、幽霊のくせに」
『うるさいっ、根暗っ』
「俺の話し方のどこに、問題があるんだ」
『全部だよ! 皆の前ではちゃんと話せるのに、どうして風間くん相手だとそうなるかな』
加賀見くんが私に対してぶっきらぼうな口調になるのも、ただ人との接し方が苦手だからなのかもしれない。
きっと、ただ不器用なだけなのだ。
そう思うと、なぜかほっとけないと思ってしまう。
『えーと……。風間くんがうるさいんじゃないよって、伝えたらいいんじゃない?』
「……か、風間が……うるさいって、意味じゃない」
素直に私の言葉を復唱する加賀見くんに、風間くんの表情がほぐれていくのが分かる。
「あぁ、そういうことか、分かりにくいって加賀見!」
ニッと白い歯を見せて風間くんが笑うと、加賀見くんの身体からフッと力が抜けるのを感じた。
短く「悪い」と答えて、気恥ずかしそうに眼鏡の位置を人差し指で直す。
そんな加賀見くんをじっと見ていた風間くんは、笑いを堪えながら言う。
「いや別にいいって、でも意外だなぁ」
「意外?」
「加賀見って委員長だし、ハキハキしてっからさ」
その“意外”は、もちろん加賀見くんの口下手さを指している。
それが加賀見くんにも分かったのか、怒ると思いきや苦笑いを浮かべた。
「誰かさんからすると、俺は根暗らしいからな。普通の会話はヘタらしい」
『ムッ、それは嫌味?』
私が言ったことを根に持っているらしい。これでも恩人なのに仇で返すなんて、やっぱり加賀見くんは性格が悪い。
「えー、加賀見にそんなこと言えるやついるんだな」
「あぁ、おせっかいな幽霊がな」
「は? 幽霊?」
目を点にする風間くんに加賀見くんはまずいと思ったのか、ゴホンッと咳払いをする。
「……ゆ、幽霊みたいな女なんだ」
「おい加賀見……それストーカーじゃね?」
顔を引き攣らせて、風間くんは本気で心配し始める。
「まぁ、そんなもんだな」
『全然、違うよ!』
ストーカーと一緒にするなんて、いたいけな女の子になんという仕打ち。私がひとりで怒っている間に、話はどんどん弾む。
「加賀見はイケメンなんだし、マジで気をつけろよ? なんなら、俺がボディーガードしてやるって」
「そういえば、風間は剣道部だったな」
それを聞いて納得する。どうりで体躯ががっしりしているわけだ。
「おお、風間大輝(だいき)って言ったら恐れおののくぜ。俺の剣術は他校の剣道部部長を次々と打ち負かす、打ち負かす」
「また始まった、ダイの武勇伝」
勝手に白熱する風間くんに苦笑を含んでそう言ったのは、柔らかそうな色素の薄い栗色の髪と人のよさそうな優しげな瞳をした男子生徒。
彼は通路を挟んで隣の列、風間くんの横の席に腰を下ろす。
「お、カズおはよう」
「うん、おはようダイ、委員長」
風間くんにカズと呼ばれた男子生徒は、冷徹な加賀見くんにさえ物怖じせずに爽やかにはにかむ。
彼の取り巻く空気は澄んでおり、清潔感に溢れていた。
『おおっ、王子スマイル』
彼の神々しいまでの微笑みは、神が与えたもうた奇跡だろうか。
絵本から飛び出してきた王子様にしか見えない彼に、私はすっかり心奪われていた。
『ちょっと加賀見くん、彼のフルネームは?』
「佐久間和彦(さくま かずひこ)だ」
『佐久間くん!』
加賀見くんが小声で教えてくれた王子の名前を興奮しながら呼ぶ。
もはや加賀見くんの存在など、頭の中から消え失せていた。
「頼むから、喚くな」
加賀見くんは額を押えて俯く。
するとなんと、佐久間くんが椅子をズルズルと引きずってきて加賀見くんの隣へとやってきた。
「委員長、頭痛いの?」
整った眉をハの字に下げて、佐久間くんは心配そうに顔をのぞき込んでくる。
「あぁ、大丈……」
『なんて優しい人なの! 生きてたら絶対に和彦くんに告白するのに!』
「うるさ──ゴホンッ、すまない頭痛が……」
長年色恋とは縁がなく、彼氏がいたことはない。
高校こそはと思っていたけれど、早二年と数週間。
ついに高校三年生になってしまっていた。
加賀見くんの額に青筋が浮かぶのも構わず、謳歌できなかった甘酸っぱい青春に騒いでいると──。
「なんだよ、頭痛持ちか? 加賀見って頭いっぱい使ってそうだしな」
ひとりで納得している風間くんに、加賀見くんはなんとも言えないような複雑な表情で笑みを繕ったのだった。
***
「加賀見、飯食おうぜ」
それは昼休みに起きた奇跡だった。
いつもならさっさと屋上へ行って昼ご飯を食べる加賀見くんに、風間くんが声をかけてきたのだ。
「え……?」
加賀見くんは立ち上がって椅子の背もたれに手を置いた状態のまま、完全に固まっている。
突然のお誘いに思考が停止している加賀見に『しっかりして!』と活を入れる。
『せっかくの友達のお誘いなんだから、座って座って!』
「あ、あぁ……」
動揺しながら加賀見くんは、私に言われるがままに席につく。
すると、おもむろに立ち上がった風間くんが加賀見くんの机を反対にした。
「なにをしてるんだ」
目を丸くする加賀見くんに、なんでそんなことを聞くんだとばかりに風間くんは目を丸くする。
「なにって、席をくっつけたほうが話しやすいだろ?」
「じゃあ俺はここに」
佐久間くんも自分の机をズルズルと押して、向かい合って座る加賀見くんと風間くんの机の横につけた。
そしてコンビニ袋を漁るふたりの前で、加賀見くんだけが弁当箱をパカッと空ける。
それに気づいた風間くんは焼きそばパンの袋を開ける手を止めて、加賀見くんのお弁当箱をのぞき込んだ。
「おっ、加賀見の弁当うまそう」
「そ、そうか? 母さんの……手作りなんだ」
ぎこちなくはあるけれど、加賀見くんも溶け込めている。
今日はいい仕事したなと三人の会話を見守っていると、佐久間くんがズズッとカフェラテを啜って「そういえば」と話し出す。
「駅前に『カラオケにゃんにゃん』が出来たの知ってる?」
佐久間くんが言った『カラオケにゃんにゃん』とは、フリータイムでも千円以下と安く学生に人気のカラオケ店だ。
私も学校帰りに彩と由美子と一緒に、電車に乗って行ったことがある。
しかし彼は実りのない会話に耳を傾けるくらいなら、家に帰ってテレビのニュースを見ていたほうが価値があり、恋に勤しむくらいなら勉強していたほうが有意義という思考の持ち主だ。
当然、カラオケ店の名前なんて知らないだろう。
「にゃんにゃん? 法律に引っかかる店じゃないだろうな」
思った通り加賀見くんは顔を引き攣らせて、不信感を隠しもせずに佐久間くんに聞き返す。
バカ真面目に心配している彼に、いよいよ耐え切れなくなった様子で風間くんはプッと吹き出した。
「ははっ、加賀見、なんかいかがわしいお店だと思ってるだろ。普通のカラオケ店だよ」
そう言って、お財布から会員証を出すと加賀見くんに見せた。
それを見ていたら、彩と由美子と行ったのを思い出して懐かしくなる。
文化祭や体育祭、テストの終わりに、よくお疲れ様会と称してカラオケで歌った。
お菓子や唐揚げをつまみながら、学校の休み時間の延長みたいにくだらない話をしたりして、楽しかった。
ふたりとも、元気かな……。
もう会えないと思うと、悲しかった。
「カラオケって、なにが楽しいんだ?」
感傷的になっていると、不意打ちで加賀見くんが爆弾を落とす。
「え、なにが楽しいって……」
佐久間くんは困惑したように、風間くんを見た。風間くんも頭をぽりぽりと掻きながら、聞きずらそうに声をかける。
「加賀見は楽しくないのか?」
水を打ったように静まり返る場に、私は慌てる。
考え事をしているうちに、あろうことか楽しい会話に水を差すとは空気が読めないにもほどがある。
この言葉足らず、と罵りたいところではある。だが、それよりも誤解を解くほうが先だろう。
『加賀見くん、それだと「カラオケなんて、くだらない」って言ってるように聞こえるよ』
「なら、どうすればいいんだ」
小声で私に助けを求めてくる加賀見くんに、私は本日二度目の助言をする。
『カラオケに行ったことがないから、どう楽しいのか教えてーとか、会話を膨らませて』
「わ、分かった……」
首を何度も縦に振った加賀見くんは、なんとも言えない複雑な表情をしていた風間くんと佐久間くんの顔を見る。
「俺、カラオケとか行ったことないんだ。だからどう楽しいのか、分からなくて……だな」
「おいおい嘘だろ、カラオケ行ったことねーの? 一度も?」
ぎょっとして加賀見くんを凝視する風間くんに、気まずそうな顔をして答える。
「あ、あぁ……一度もない」
「加賀見、いつの時代の人間だよ!」
「そんなに、おかしいか?」
自分がなんでそんなに驚かれているのか、心底分からないと首を傾げる加賀見くんに、ふたりの話を見守っていた佐久間くんが「それなら……」と風間くんを見る。
「お、いいんじゃね?」
風間くんは佐久間くんの視線の意味に気づいたのか、賛同するようにニッと笑う。
「俺らとカラオケに行こうぜ」
「駅で配ってる割引券もらったんだ。委員長も行こうよ」
風間くんと佐久間くんが意気投合するように言って、加賀見くんを見つめた。
それについていけてない加賀見くんは「えっ」と気の抜けた返事をしたと思うと、自分が遊びに誘われたことにようやく気がついたのか、目を見開く。
「あ、いやちょっと考えさせ……」
それではまるで、告白の返事を先延ばしにする女子みたいだ。
遠回しに断っているみたいになるではないか。
『そこは黙って、行ってきなさい!』
「……カラオケ、参加させてもらう」
渋々、加賀見くんはそう返事をした。
するとふたりは顔を見合わせて、悪戯が成功したみたいに笑う。
「じゃあ日程だけど、俺は明日ならバイトないよ。皆はいつがいい?」
「そうか、カズは帰宅部だもんな。俺も明日は剣道部休みだから、オッケー。加賀見は?」
ふたりが確認するように、加賀見くんに視線を向ける。
ふたりの期待に満ちた眼差しに逃げられないことを悟った加賀見くんは、観念したように首を縦に振った。。
「俺も大丈夫だ」
「よし、それなら決定だね。委員長、連絡先交換しよう?」
佐久間くんがスマートフォンを取り出すと、風間くんも「俺も俺も!」と便乗する。
加賀見くんは促されるがままにスマートフォンを操作して、無事に連絡先を交換していた。
「じゃあ、明日の学校帰りに」
スマホを持つ手を軽く上げて佐久間くんがにっこりと笑うと、風間くんが「おう!」と元気よく返事をした。
それを無言で見つめている加賀見くんに、小さく声をかける。
『よろしくって、言ったら?』
「あ、あぁ……よ、よろしく頼む」
素直に頭を下げた彼はぎこちなかっただろうが、風間くんも佐久間くんも穏やかな表情を向けてくれていた。
昨日とは違う加賀見くんの昼休みは人の声や椅子を引く音、廊下を走る足音や空いた窓から入り込む風の音にあふれている。
ガヤガヤと騒がしいかもしれないけれど、そんな生活音の中に加賀見くんが溶け込んでいるのを嬉しく思った。
「はぁぁ……」
学校が終わって帰宅部の佐久間くんと校門で別れた加賀見くんは、ひとりになった途端に深いため息をついた。
『なぁに、その辛気臭いため息は』
「話しすぎて疲れたんだ、ほっておいてくれ」
『明日、楽しみだね』
「人の話を聞いてたか?」
なんて言い返す彼の言葉に、覇気は感じられない。でも風間くんや佐久間くんと話しているとき、春の陽気のように胸の中がポカポカしていた。
あれは加賀見くんがふたりと話す時間に、心満たされていたからこそ感じたものだろう。
『それにしても今日の加賀見くんの対応は〇点、いやむしろマイナスの劣等生だった』
「それはお前が俺の中で、いちいち騒ぐからだろう」
『……ちょっと、助けてあげたのにそれはなくない? 幽霊パワーで呪ってやる』
「勝手にしろ、別に怖くないからな」
『えー、初めて私が話しかけたときは動揺しまくりだったのにー?』
私は出会ったときの彼の狼狽えていた姿を思い出して、ぷぷぷっと笑う。
それが癇に障ったのか、加賀見くんが「ほぉ……」と低い声で呟いた。
「お祓いでもしてもらって、お前なんか追い出してやる」
『あっそ、勝手にすれば』
話せば売り言葉に買い言葉で、いがみ合う私たちは相性が悪い。
なのにどうして、私はこんな性悪男に憑りついているんだろう。
どうせなら、佐久間くんに憑りつきたかった。
そんなことを考えていると、ふいに沈黙が訪れる。
少しの間を置いて、加賀見くんはぽつりと呟いた。
「カラオケか……なにを歌えばいいんだ?」
『普段、どんな歌を聞いてるの?』
独り言のように聞こえたけれど、私はつい声をかけてしまう。
おせっかいな幽霊と前に加賀見くんに言われたことを思い出して、あながち間違いじゃないなと苦笑いした。
「クラシック」
『……ねぇ、私、歌って言ったよね?』
「仕方ないだろ、歌なんて音楽の授業で聞いた童謡くらいしか……」
『……はい?』
聞き間違いじゃなければ、加賀見くんは童謡と言った気がする。
クラシックの次に童謡が出てくるなんて、彼は絶対に年齢を詐称しているに違いない。
『なるほど、加賀見くんは十八歳の皮を被ったおじいちゃんなんだ』
「聞こえてるぞ」
『仕方ない、今日一日で十曲はマスターしてもらわないと』
片っ端から流行りの曲を聞かせるしかない。勉強はできると言っていたので、彼の暗記力に期待しよう。
「おい、十曲って正気か」
『暗記してよ、優等生くん。今夜は寝かさないからね』
「……頭痛がしてきた」
額を押さえる加賀見くんを無視して、私の頭の中はすでにカラオケリストの作成中だ。
とはいえ、私は彩と由美子としかカラオケに行ったことがないので、男子が聞く曲に検討がつかない。
そうなると、男女ともに楽しめそうなドラマの主題歌とかがいいだろう。
「おい、せめて五曲にしろ」
『じゃあ、八曲目は……』
「……もう八曲目まで考えてるのかよ!」
そんな加賀見くんの悲鳴が、またもやすれ違う人たちの視線を集めている。
それに気がつかない彼も懲りないなと呆れつつ、明日に備えて曲のラインナップを考えるのに必死だった私は、特に注意せずに家へと帰るのだった。
***
帰宅すると、仕立てのいい革靴が玄関に並んでいた。ドアがガチャンッという音を立てて締まるのと同時に、パタパタと近づいてくる足音。
加賀見くんが顔を上げると、そこにはお母さんの姿があった。
「お帰りなさい、宙」
「ただいま、母さん」
加賀見くんもならうように靴を揃えると、革靴をチラッと見る。
それからリビングへは寄らずに、自室へ繋がる階段を上ろうとした。
「宙、ご飯は……」
「今日は部屋で食べる。父さん、帰ってきてるんだろ」
「……分かったわ」
呼び止めたお母さんだったが、切なげに眉尻を下げて諦めたようにゆっくりと踵を返した。
その背中を見つめる加賀見くんの胸が、ツキンッと痛むのを感じる。
加賀見くん………。
やっぱり、お父さんと加賀見くんはあまり仲がよくないのかもしれない。家族なのに、どうしてだろう。
お母さんの姿がリビングのドアの向こうへと消えると、加賀見くんは自分の部屋がある二階へと上がっていく。
いつもなら加賀見くんに「せっかくなんだから、家族でご飯食べなよ」くらいの説教もできるのに、今回ばかりはなにも言えなかった。
彼の胸の中に渦巻く複雑な感情が痛くて悲しくて切なくて、私から言葉を奪っていた。
***
夕食はお母さんが運んできてくれたものを部屋で摂った。
そのあと、シャワーを浴びて再び部屋に戻ってきた加賀見くんは電気もつけないでベッドに横になり、ポスンッと枕に顔を埋める。
お父さんのことを考えているのか、胸がモヤモヤして気持ち悪い。
これはきっと、加賀見くんの感情だ。
「……はぁ」
ほとんど無意識なんだろう。
ため息をつく加賀見くんに、もどかしくなる。
私に出来ることはないのだろうか、嫌な気持ちを忘れさせてあげられたらいいのに。
そこまで考えて、ふと閃いた。
『加賀見くん、明日歌うカラオケの曲を覚えよう!』
「……は? 本当にやるのか? 今、そういう気分じゃ……」
『そういうときこそ、なにかに集中していたほうがいいんだよ』
そう言って『ほらほらっ』と加賀見くんを急かし、寝たまま耳にイヤフォンをつけてもらう。
そして、あらかじめ考えていたアップテンポな男性ボーカルユニットの曲をチョイスして聞かせた。
加賀見くんはスマホの画面を見つけたまま、じっと音楽に聞き入っている。
すると、次第にスマホを握っている指がトントンッとリズムを刻み始めた。
「これ、なんの曲なんだ?」
曲を聞き終えると、加賀見くんが珍しく自分から私に聞いてきた。
それになぜか嬉しくなって『私が好きなドラマの主題歌だったの。
『HEROの法則』ってやつ』と声を弾ませて説明する。
「へぇ……テレビなんてニュース以外見たことなかったな。こういう曲も……って俺、やっぱり普通じゃないか?」
自嘲的な笑みをこぼして私に尋ねてくる彼は、やっぱり様子がおかしい。
これもお父さんが関係しているのだろうか。
なにも言えずにいると、初めから答えなんて求めていなかったように続ける。
「俺はずっと両親が経営してる不動産会社の跡取りになるために、必要なことだけをしろと言われてきたんだ。だから、こういうのはよく分からない」
“俺、やっぱり普通じゃないか?”
そのひと言に、胸がズシンッと重くなった。
この感情が彼のものなのか、私のものなのかは分からない。
でももし加賀見くんのものでもあるならば、ずっと寂しさを抱えて生きてきたのかもしれないと思った。
「おい幽霊、俺は普通じゃないか?」
再度問いかけられ、私は深呼吸をして慎重に口を開いた。
『なにが普通かなんて、私にはそんな無責任なこと言えないけど……』
ひと言ひと言を大切に言葉にする。
うまく私の気持ちが届きますように、傷ついて欲しいんじゃない。
少しでも加賀見くんの悲しみを軽くしてあげたらと思いを紡ぐ。
『加賀見くんって、なにをするにしても会社の跡取りには必要ないことだって言うじゃない? でも、それだけの理由で物事の必要性を決めちゃうなんて視野が狭いと思う』
極端すぎるのだ。
自分にとって必要か否かを決めるのは、もっと多くを見聞きしてからでも遅くはないと思う。
例えば友達もそうだ。
一緒にいて時間を重ねて初めて、自分にとって大切な人かどうかを見極めたらいい。
初めからいらないと決めつけるのは、早計すぎると思う。
「でも俺は目先の娯楽に逃げるより、もっと先を見て時間は使うべきだと思う」
『娯楽に逃げるって考えるから、加賀見くんは頭が固いんだよ』
彼はしっかり者だけれど、あえて言おう。
つまらなくて、寂しい人間だ。
先を見すぎて、今そばにある大切な時間や人に気づけていないのだから。
「じゃあ、どう考えればいいんだよ」
『その前に逆に聞きたいんだけど、加賀見くんが勉強の時間を削って楽しんだ経験が将来に役立たないってどうして断言できるの?』
「経営者に経営学を学ぶこと以外のスキルが、求められてるとは思わないからだ」
『本当にそうかな? 加賀見くんの楽しい、悲しい、嬉しいって気持ちが夢に彩りをくれることだってあると思わない?」
少なくとも、私はそうだった。
文化祭で書いた私の脚本で皆が感動してくれた瞬間に、心の底から嬉しいと思ったからこそ、物書きになりたいという夢が生まれた。
『きっと、加賀見くんが今だからこそ経験しなきゃいけないことがあるはずだよ。大人になったときに、学生時代に全力で楽しんで、悩んで、悔しい思いをした記憶が、こういう自分になりたいって思わせてくれるんだと思う』
私の話を聞いていた加賀見くんは顎に手を当てて、じっと天井を見つめていた。
そしておもむろに起き上がると、机の前に座って備えつけのライトをつける。
彼の予測不可能な行動に驚きながら、おずおずと尋ねる。
『加賀見くん、急にどうしたの?』
「お前の言う今だからこそ経験しなきゃいけないことって、明日のカラオケも入ってるんだろう。友達と過ごす時間がどう大切なのかは分からないけど、楽しめるよう努力はする」
やっぱり、彼の頭は固い。
努力してどうこうなる問題ではないし、心のままに楽しんでほしいのだけれど、まだ難しいようだ。
でも、知ろうとしている。
誰もが持っているはずの楽しい、嬉しいという感情を取り戻そうとしているのは伝わってきた。
だから、これから知っていけばいい。
友達がどんなに素敵な存在で、恋がどんなに心を満たしてくれて、楽しいと思うことが生きてるって感じられることなんだってこと。
「さっきも曲は合格点だった。他の選曲も教えろ、幽霊」
『それはいいんだけど……。私は幽霊じゃなくて、楓だから。ちゃんと名前で呼んでよ』
「気が向いたらな、幽霊」
『もう!』
この調子で軽口を叩き合いながら、朝方になるまでたくさん曲を聞いた。
そのたびになんの主題歌だったとか、CMに流れていただの、加賀見くんが知らないことはなんでも話した。
いがみ合う私たちの距離が、少しだけ近づいた夜だった。
***
翌日の放課後、風間くんと佐久間くんと一緒に駅前の『カラオケにゃんにゃん』にやってきた。
自動ドアをくぐると、店内にはジャカジャカと最近の流行りの曲が流れている。
加賀見くんは物珍しそうに辺りを見渡しながら、ふたりのあとについてカウンターまで歩いていった。
「いらっしゃいませー」
大学生だろうか、金髪美女がカウンターから声をかけてきた。
『カラオケにゃんにゃん』のロゴが入ったエプロンをつけているので、店員だろう。
「三名様ですね、何時間ご利用ですか?」
「二時間で……あ、これ使えます?」
率先して受付をしてくれている佐久間くんが、駅前でもらったという室料三十パーセント割引券を出した。
「はい、お預かりします。お時間終了十分前にご連絡させて頂きますね。混雑していると、ご延長が難しくなる場合がありますのでご了承ください。それでは二〇三号室になります」
部屋番号の書いてある伝票とマイクが二本入ったカゴを佐久間くんが受け取り、私たちは部屋へと向かう。
「うぉー、三人にしては広いな」
肩からかけていたエナメルバックをソファーの上に置きながら、風間くんが驚きの声をあげた。
その横で気の利く佐久間くんが、電話で皆の飲み物を注文する。
呆然と立ち尽くしていた加賀見くんは、あれよあれよという間に風間くんと佐久間くんに挟まれるようにして座らせられていた。
「委員長、曲は決まってる?」
「加賀見の歌、聞いてみてーな」
佐久間くんと風間くんが期待を込めた目で、加賀見くんの目の前にリモコンを置く。
「こ、これは……」
タッチ式のリモコンを前に困惑する加賀見くん。さしずめ、初めてスマートフォンを持ったお年寄り、というところだろうか。
とりあえずタッチペンを持って「おい」と小声で、私に話しかけてくる。
『加賀見おじいちゃん、それはリモコン。曲名検索から、曲を探したらいいんだよ』
「おじっ……いや、曲名検索だな」
私に言われるがまま、曲名を検索して予約を押すと、部屋が暗くなってカラオケが始まった。
カラオケと照明が連動している最新式のカラオケボックスらしい。
それを驚きながらマジマジと見つめている加賀見くんに『始まるよ』と声をかける。
ハッと我に返った加賀見くんは、焦ったようにマイクに口を近づけて歌い出したのだが──。
マイクとの距離が近すぎたせいか、キィーンッとハウリングする。
「なんだっ?」
マイクを落としそうになる加賀見くんに実践はこれが初めてなので仕方ないか、と私は苦笑いした。
ただ、なんでも完璧にこなす加賀見くんが、たかがカラオケでこんなにもあたふたしている姿は面白い。
風間くんも我慢の限界とばかりに、ぶほぉっと盛大に吹き出す。
「なにやってんだよ、加賀見!」
御腹を抱えて笑っている風間くんは、空いたほうの手で加賀見くんの肩をバシバシと叩く。
対する佐久間くんは肩をプルプル震わせながら必死に笑いをこらえて、助言をくれる。
「委員長、マイクをもう少し離したほうがいいよ」
ついにふたりからどっと笑いが沸くと、加賀見くんの顔に熱が集まった。
「やっぱ俺には、こういうのは無理……」
完全に意気消沈する加賀見くんに、私は『完璧じゃなくたっていいんだよ』と声をかける。
加賀見くんは迷子の子猫のような顔で「え?」と私の声に耳を傾けた。
世話が焼けるなと思いながら、ほっとけない私は加賀見くんの不器用さも好きだったりする。
『ふたりの顔を見てみなよ、楽しそうでしょ』
「それは、まぁ」
笑っている彼らの姿を横目に加賀見くんは納得するも、まだ元気がなかった。
完璧でないといけないのも、優等生でいなければいけないのも、辛かっただろうな。
『なにもかも、完璧にできなくたっていいじゃん。うまくカラオケが歌えたことより、ふたりが笑ってくれたことのほうがすごいことだと思うよ』
たぶん加賀見くんは、自分を褒めたりしないんだろう。他者から見ればすごいことも、まだ合格点じゃないと妥協を許さない。
それはいいことでもあるけれど、ずっと自分を追い込んでは気が滅入ってしまう。
だから私は宙くんに自分のいいところも悪いところも、好きになってほしかった。
自分を簡単に否定しないでほしい、その一心で彼を誉めた。
「そういうもんか?」
私の気持ちが伝わったかどうかは分からないけれど、否定はしなかった。
私は少しでも加賀見くんの沈んだ心を、掬い上げてあげられるようにと声をかける。
『そういうもんだよ』
「そうか……」
呟くように言った加賀見くんは佐久間くんのアドバイスを生かして、マイクを口から少し離す。
気を取り直して歌い始めた彼は昨日覚えたばかりで、しかも初めてのカラオケの割には歌の完成度が高く、私もふたりも感心するように聞き入っていた。
「お粗末さま」
恥ずかしさを誤魔化すためか、抑揚なくそう言った。マイクを置いて加賀見くんは、はぁぁぁ~っと息を吐く。
それはもう、魂まで出ていってしまいそうなくらいに。
「お粗末なんてもんじゃないって、加賀見マジで歌うますぎ!」
「委員長、本当に初めて?」
感動の声が上がる中、加賀見くんは照れくさそうに「あぁ」と答えて笑う。
湯水が染み渡るみたいに胸が温かいのは、加賀見くんの中に喜びに近い感情が生まれたからだろう。
「加賀見、次は俺とデュエットな」
「風間、それは……いきなりハードルが高すぎる」
「ハードルは乗り越えるためにある」
加賀見くんの肩に腕を回して、風間くんはマイクを片手に叫ぶ。
加賀見くんは助けを求めるように佐久間くんを見た。
「ははっ、ダイは委員長が気に入ったんだね」
「笑ってないで助けてくれ、佐久間」
「ごめんごめん、つい面白くて。ほらダイ、委員長が困ってるよ」
ふざけ合いながらカラオケをする加賀見くんたちを見ていたら、やっぱり友達っていいなぁと思う。
私がそう感じるということは、加賀見くんも同じ気持ちなのだろうか。
なんでもないようなことも、彼らといるとバカみたいに笑えたりする。
私にとっては彩や由美子がそうだった。
加賀見くんを通して色んな感情に触れるたびに、彼女たちと過ごした時間、会話のひとつひとつが大切な宝物だったことに気づかされた。
***
「なぁ、加賀見のこと宙って呼んでもいい?」
それは風間くんからの突然の提案だった。
あっという間に二時間が経ってカラオケを出た三人は、電車通学をしている風間くんを改札まで送るために駅に向かっていた。
風間くんと佐久間くんの半歩うしろを歩いていた加賀見くんが、ぴたりと足を止めて「へ?」と彼らしからぬ間抜けな声を出す。
「それ、いい案だね、ダイ」
佐久間くんも便乗するように、加賀見くんを振り返った。
加賀見くんの双眼に、ふたりの優しい笑顔が映る。
「名前の呼び方なんて、どうでも……」
『よくないよ』
私は彼の言葉を遮って、断言する。
それを聞いた加賀見くんは思案顔で俯いて「そういえば、お前もこだわってたな」と呟き、瞳を閉じた。
『名前って、呼ばれると特別だって言われているみたいで嬉しくならない?』
「どうだろう、名前についてそこまで深く考えたことがないから分からないな」
『じゃあ教えてあげる。ふたりは加賀見くんの友達になりたいって言ってるんだよ』
ねぇ、だからね。
もう必要ないって決めつけて、心に壁を作らないで。
これから先、加賀見くんが落ち込んだり傷ついたりして前に進めなくなったときに、背中を押してくれるのはきっと彼らだから。
『踏み出してよ、宙くん。ふたりは宙くんにとって必要な人だよ』
初めて、君を宙と呼んだ。
彼が感じている胸の温かさを大切にしてほしくて君に一歩、心で近づく。
「っ……あぁ、そうだな。風間、佐久間、俺のことは宙って呼んでくれ」
噛みしめるように言った加賀見――宙くんに、鼻がツンとするのを感じた。
嬉しくて泣きそうなのだと伝わってきて、凪いでいた彼の心がこんなにも騒がしく動くことに喜びを覚える。
「なら、俺のことは“ダイ”な」
「俺はカズ、だね」
なんの変哲もない日々に差し込む光、宙くんの世界は少しだけ明るくなったような気がする。
「ダイ、カズ……よろしく」
「「宙、よろしく」」
「──っ、あぁ、よろしく」
名前を呼ばれた瞬間、目元が熱くなる。
それを堪えて、ゆっくりと唇が弧を描いた。
笑顔を交わす三人を橙色の夕日が包み込むように照らしている。
それはまるで孤独しか知らなかった彼が、人の温かさに触れたときの喜びの心を表しているように見えた。
「それじゃあ電車来るから、そろそろ行くな」
「ふたりとも、また明日!」
軽く手を挙げたふたりに、加賀見くんは「また明日」と返す。
それから改札を通る風間くんと反対側に歩いていく佐久間くんの背を名残惜しむように見送って、宙くんも自分の帰る場所へと歩き出した。
家のそばまでやってくる頃には、星が瞬くのを際立たせる夜空が広がっていた。
いつもの住宅街を歩く加賀見くんが「なぁ」と、珍しく私に声をかけてくる。
『え、なに? 宙くんから話しかけてくるなんて、明日は世界滅亡かな』
「失礼なやつだな……俺から話しかけたら悪いのか」
『そんなこと言ってないよ、意外だなーって思っただけ』
私たちしかいない住宅街に、加賀見くんの声だけが響く。
静かだなと思っていると、ふいに夜空へ視線が向いた。
キラキラと個々に輝く星たちが、視界いっぱいに広がる。
でもやっぱり、都会の地上の光が眩しすぎて星は霞んで見えた。
「……初めてだった」
ぽつりと宙くんは言った。
そこに相づちを打つことで、彼の言葉を遮りたくないと思った私は無言で耳を傾ける。
「勉強以外の時間がこんなに充実してたのは、初めてだった。ダイやカズと一緒にいるだけで見るもの聞くものぜんぶが面白いし、綺麗に見えるんだよ」
『宙くん……』
「それに気づいてから、今まで自分がどれだけ空っぽだったのかを思い知らされた」
酷く寂しげな声音で、まるで自分にはなにもなかったと言っているように聞こえる。
確かに今までの宙くんは跡継ぎになるために必要か否か、そういう損得勘定だけで世界を見ていたのかもしれない。
だから、身近にある宝物に気づけなかった。
『でも宙くんは、友達っていう宝物を見つけた。だからもう、空っぽなんかじゃないよ』
知らないことは、風間くんや佐久間くんという友達に教えてもらったらいい。
空虚な心は、彼らとの思い出で埋め尽くせばいい。
そんな私の思いが通じたのか、宙くんは夕日のように頬を赤く染めて呟く。
「……そうだな』
『そうだよ』
「その……お前もいるしな、楓」
『え?』
音が止んだ気がした。
風が木の葉を揺らし、家々から漏れる人の声も一瞬にして消えてしまったかのような静寂。
耳に届いたのは、堅物の彼が紡ぐ私の名前だけ。
「名前……大事なんだろう、楓」
少し、恥ずかしそうに頬を掻いた宙くん。
その仕草と私を呼ぶ声に、トクンッと心臓が跳ねて言葉を紡ぐことを忘れる。
『…………』
「なんとか、返事をしないか」
『……ご、こめん……。なんか、感動しちゃって』
声が小刻みに震えたけれど、ワントーン上げて明るく装った。
出会った当初の冷徹な彼はどこへやら、今は纏う雰囲気も眼差しも声音もすべてが穏やかだ。
命も夢もぜんぶを失ってしまった私にも、誰かのためにできることがあった。
その事実に、彼の存在に、心救われていた。
「変なやつだよな、お前」
『宙くんも相当変なやつだよ……。幽霊の私を名前で呼ぶなんてさ』
「お前が呼べって、言ったんじゃないか」
『ははっ、そうなんだけどね……』
もう誰にも呼ばれるはずのない私の名前を、君が呼んでくれた。
それに居場所を与えられたような気がして、泣きたくなった。
『ありがとう、宙くん……っ』
そう言った私の目から、涙がこぼれた。
「なっ……お前……」
宙くんは自分の頬に触れて、手についた雫を呆然と見つめる。
私が泣いたから、宙くんにまで伝わってしまったみたいだ。
感覚を共有していると、こういうときに不便だ。
強がりたいのに、胸の痛みも涙もすべて伝わってしまうから。
『ご、ごめんねっ、つい……』
「……別に、いい」
『え……?』
てっきり、勝手に泣くなと怒られると思っていた。
けれど宙くんは、私が泣くことを受け入れてくれている。
それにまた涙腺は脆くなって、大粒の雨のようにハラハラとしょっぱい雫が流れていった。
「そのまま泣いてろ、枯れてなくなるわけじゃないんだから」
そう言ってゆっくりと歩き出す宙くんに、胸が熱くなる。
そのぶっきらぼうさも、今では優しさにしか思えない。
ありがとう宙くん、なにも聞かずにただ泣かせてくれて。
宙くんの優しさと夜空の星たちに見守られながら、私は静かに涙を流し続けるのだった。
***
カラオケに行った次の日の放課後のこと。
宙くんは教室で、前田さんと向き合うように座っていた。
しかもふたりっきり、最高のシチュエーション……のはずが、ふたりは委員会ノートをのぞき込みながらため息をついている。
「うちのクラス、授業中の居眠り率がひどいらしい。先生から指摘を受けた」
難しい顔で腕組みをしながら言った宙くんは、黒板の横にあるコルクボードに大々的に貼られた時間割を見る。
彼らが頭を悩ませることになった事の発端は、帰りのホームルームが終わったあとにクラス委員だけが担任に呼び出されたことから始まっている。
なんでも三年A組の授業中の態度について、居眠りや雑談、隠れてスマートフォンをいじるなど他の教科担任から苦情があったらしい。
なので改善するための話し合いと、その結果を委員会ノートに記入するように言われたのだとか。
「じゃあ、明日のホームルームは話し合いかぁ……」
前田さんは気が乗らなそうな顔をしている。
前に人前で話すのは苦手だと言っていたので、それが原因だろう。
「ただ話し合うだけだと、目立つのが嫌な人間もいるだろうから意見は出ない。いくつか具体案を出して、挙手で決めるほうがよさそうだな」
加賀見くんの言っていることは、実に的を得ている。
手を挙げるくらいならいいけれど、話し合って意見を言うのはかなり勇気がいることだ。
それにクラスに三十人もいると、誰かが言ってくれるだろうと、他人任せな人も出てくるだろうから、加賀見くんのやり方は堅実的だ。
「うん、じゃあ決めた具体案は委員会ノートに残しておくね」
そう言って委員会ノートを開くと、前田さんは記入者の所に前田園栄(そのえ)と書いた。
『へぇ、前田さんって園栄って言うんだ。珍しい名前』
「楓、静かにしてろ」
つい声を出してしまった私を、前田さんといることを忘れてつい窘める宙くん。
当然の反応だけれど、前田さんは顔を上げて「なにか言った?」と目をパチクリさせる。
「い、いや、なにもない。本題に戻ろう」
何事もなかったかのように話を進める宙くんは、この数日で私に返事をすることが当たり前になっていた。
最初はほとんど無視されていたので、嬉しいことだ。
「うーん、居眠りって結局本人の問題だから、どうしたらなくなるかな……」
困り果てる前田さんに、宙くんは思考を巡らせているのか天井を見つめた。
居眠りをやめさせる方法について真剣に悩んでいるふたりに申し訳なくは思うが、私は手持ち無沙汰で退屈だった。
「そうだな、隣の席の生徒とお互いに起こし合うっていうのはどうだ?」
「加賀見くん、それすごくいいと思う。あとは空気の入れ替えもしたらどうかな」
「環境から変えるってことか、前田さんの案もすごくいい」
和やかな空気がふたりの間に流れる。
そりゃあ宙くんの好きな人なのだから、つっけんどんなわけがない。
それは分かっているけれど、やはり私との対応の差が激しくはないだろうか。
これでも宙くんとは仲よくなれていると思っていたのに、前田さんには当然だが敵わないらしい。
堅物の宙くんも、ちゃんと男の子だったんだ。
話し合いを続けるふたりを見守りながら、私は『あっ』とまた閃く。
友達百人は達成してないけど、今はダイくんとカズくんがいる。
なので今度は、恋のお手伝いでもしてあげようじゃないか。
「じゃあ、そういうことで。前田さん、今日はお開きにしよう」
「うん、なんとかまとまったね。お疲れ様でした」
話に区切りがついたのか、ほっとしたように、ふたりの肩から力が抜けるのが分かった。
それを見計らって、私は『前田さんと仲よくなるチャンスだよ』と宙くんに声をかける。
「なっ、なにを言ってるんだ!」
それを聞いた宙くんは明らかに動揺して、椅子がうしろに傾くほど仰け反った。
彼の突拍子もない言動に「ど、どうしたの?」と、前田さんが驚きの声を上げる。
他の人と話しているときは喜怒哀楽に乏しいわ、抑揚もないわで反応が薄いのに……。
毎度毎度、どうして私に対してだけオーバーリアクションになってしまうのだろう、この男は。
「あ、悪い。なんでもないんだ」
そう言い訳をしたものの、前田さんは腑に落ちないといった顔をしている。
私が憑りついて早四日が経っているのに、彼はまだ幽霊との同居生活に慣れないらしい。
『宙くん、私が声をかけていちいち驚くの、もうやめてよね』
「驚いたんじゃない、動揺したんだ」
『はい? なにが違うの?』
「その……仲よくなるっていうのにだな……」
小声でもごもごと答える宙くんに『あぁ、そっちか』と納得する。
宙くんは見かけによらず、ウブなんだな。
なんて、たいして経験豊富なわけでもない私に言われるのだから、宙くんは相当な恋愛下手ということを自覚したほうがいいと思う。
『とりあえず、好きな女の子を前になにもしないなんて男じゃないからね』
「余計なお世話だ」
『文句はあとで聞くから、なにか話しかけてよ!』
私の叱咤に宙くんは渋々、「あの、前田さん」と声をかけた。彼の緊張が私にまで伝わってきて、心臓がバクバクとうるさい。
なにを言うつもりなのかと、ハラハラしながら見守っていると──。
「ご趣味は……」
『この、おバカ!』
なにを言い出すかと思えば、お見合いの決まり文句みたいな質問をするやつがあるか。
当然と言えば当然だが、あえて言うならば目の前の前田さんは探るような目で、こちらを見ている。
当たり前だ。
彼女はきっと、宙くんのなんの脈絡もない発言に混乱している最中だろう。
彼の意図不明な発言に思考回路はショート寸前のはずだ。
この今すぐにでも逃げ出したい沈黙をどう乗り切ればいいのかと考えていたとき、前田さんがぷっと吹き出した。
「ふふっ、加賀見くんって面白いんだね」
返ってきた返事は予想の遥か斜め上をいっていて、私たちはほぼ同時に「え?」と目を点にする。
クスクスと口元を手でおさえて肩を揺らす前田さんは、いかにも女の子という感じで可愛らしい。
「そんなに、おかしいか?」
宙くんが照れくさそうに目線を彷徨わせて尋ねると、前田さんは目を細めて優しい眼差しを向けてくる。
──あ。鼓動が走ったあとみたいに、ドクドクと激しくなる。
それは宙くんが前田さんを好きな証だった。
「だって加賀見くん、急に趣味なんて聞くんだもの」
「わ、悪い……」
「ううん、悪くなんてないよ。そうだな、私は読書が好きだよ」
「へぇ、なにを読むんだ?」
「えーと……“荒野を走る”とかかな」
「あぁ、俺も読んだ。そうか、前田さんも気難しいのが好きな質か」
「ふふっ、私もってことは、加賀見くんもなんだね」
顔を見合わせて笑うふたりの間には、柔らかな空気が流れている。
「なら、“白亜の塔”も面白い。人間の心情を事細かに描写していて、引き込まれる」
「へぇ、いいこと聞いちゃったな。他にオススメはある?」
私も読書は好きなのだが、ふたりの会話に出てくる難しそうな本は読んだことがない。
完全に蚊帳の外状態の私を置き去りにして、宙くんたちは共通の話題を見つけて盛り上がり始めた。
宙くんも勉強が恋人みたいな人なので、本の虫である前田さんとお似合いなのかもしれない。
これでふたりがうまくいけば……と、そこまで考えてチクリと胸が痛むのを感じた。
私は自分の胸に感じる違和感に首を傾げる。
楽しそうに話しているところを見ると、宙くんのものではなさそうだ。
それなら、このモヤモヤした気持ちは私のものということだろうか。
それがどういった意味を持つのか、今の私には分からなかった。
「いけない、もうこんなに日が暮れちゃった」
前田さんが窓の外に広がる茜空を見つめて、ハッとした声を上げた。
ふたりとも会話に夢中で、気づいてなかったのだろう。
私が特にアドバイスすることもなく、ふたりは和気あいあいとしてた。
「話し込んだな、悪い」
軽く頭を下げる宙くんに、前田さんはふるふると首を横に振る。
「ううん、私はすごく楽しかったよ」
そう言ってにっこりと笑う彼女に、宙くんの胸に噴水のように溢れ出てくる幸福感。
口を開けば悪態ばかりの彼も、こんなふうにくすぐったい気持ちを抱いたりするのだと驚く。
彼が本気で彼女のことを好きなら、応援すべきだ。
ここは連絡先のひとつでも手に入れなければ、そう宙くんに言おう。
そう思って声をかけようとしたのに、出ない。
言おうと思っているのに、どうして私は躊躇しているのだろう。あまりにも薄情ではないか。
迷いを振り払うように私はもう一度、意を決して彼に声をかける。
『宙くん、連絡先を聞いちゃいなよ』
「は、連絡先? そんなん無理に……」
『男なら当たって砕けなさいよ』
「砕けたら終わりだろう!」
宙くんがツッコミを入れたところで、目の前の前田さんが「連絡先?」と首を傾げる。
出た、前田さんの必殺技。
この可愛らしく首を傾げる仕草は、女の私でも魅入る。
男なんて卒倒するほどの破壊力だろう。
「私のでよければ、交換しませんか?」
「なっ……いい、のか?」
奇跡が起こった。
まさか前田さんのほうから、連絡先の交換を申し出てくれるとは。
これを奇跡と呼ばずになんと言う。
男としては色々情けないけれど、この天からの恵みに感謝しよう。
『ほら、さっさとスマホ出す!』
ボーッとしている宙くんにと喝を入れると「よ、よろしく頼む」と言って、慌ててスクールバックからスマートフォンを取り出し、前田さんと連絡先を交換した。
『今日、メッセージ送るって約束して!』
「きょ、今日、メッセージを送っても……いいか?」
私に言われるがまま、宙くんが顔を真赤にして前田さんに確認すると、「もちろん」と言って前田さんも嬉しそうに頷く。
あぁ、分かってしまった。
前田さんも宙くんのことが好きなんだ。
彼女の喜色満面な笑みを見たら、そう言いきれる自信があった。
「それじゃあ、また明日ね」
スクールバックを肩にかけて、先に教室の入口へ向かう前田さんの背を見送る。
なにか言わなきゃと、宙くんは口を開けたり閉じたりを繰り返していた。
それでも言葉が出てこないのか、口ごもる加賀見くんを見かねて『また明日ねって、言ったら?』と声をかけた。
「ま、また明日」
宙くんの言葉が届いたのか、前田さんは振り返って小さく手を振ると、そのまま教室を出て行く。
教室には、私と宙くんのふたりだけが残された。
『今日一日ですごい進展ですね、宙くん?』
「うるさいぞ」
照れくさいのか、彼はふんっと鼻を鳴らしてぶっきらぼうに装う。
可愛げのない彼だけれど、そういう不器用なところも気に入っているだなんて、そう思ってしまう自分に敗北感しかない。
『もう空が暗くなってきてるし、私たちも帰ろうよ』
「お前に言われなくても分かってる」
『宙くんって、ほんっとーに可愛げがないよね』
「俺に可愛げを求めること自体が、間違ってるんだよ。帰るぞ、楓」
──帰るぞ楓。そのひと言に、心臓を鷲掴みされるかのような息苦しさを感じた。
なんで、こんな気持ちになるのかな。
不思議、宙くんに楓って呼ばれるとくすぐったい。
まるで、宙くんが前田さんと話すたびに伝わってくる感覚に似ている。
「楓、聞いてるのか?」
『あ、はいっ』
とっさに返事をしたせいか、敬語になってしまった。それに宙くんは、怪訝そうに眉をひそめる。
「寝ぼけてるのか……って、幽霊は寝ぼけたりしないか」
『幽霊……』
ズキンッと胸が痛んだ。
幽霊って言われるのはいつものことなのに、君と同じ人ではないことがいまさら切なくなる。
「楓……なんか心臓が痛いんだけど、これはお前のか?」
『えっ……ううん、気のせいじゃない?』
「気のせいなわけあるか」
『…………』
宙くんに私の胸の痛みが伝わってしまったらしい。
私にもどうしてこんな気持ちになるのかが、分からない。
ただ、彼には知られたくない。そう思った私は、しらばっくれる。
『ほらほら、細かいこと気にしてないで帰ろうよ。神経質は剥げるの早いよ』
「余計なお世話だ」
『早く帰って、宙くんママの美味しい手料理が食べたいな~』
「現金なやつだな」
『今日はなにかな~、やっぱり松坂牛のサーロインステーキかな。もちろんレアで』
「うちは高級レストランじゃないんだぞ」
『肉食系女子なんで、肉だけに』
「会話の半分以上が支離滅裂だぞ、お前」
本心を偽って、さも晩ご飯のことしか頭にないように振る舞う。
宙くんは騙されてくれたようで、見事に呆れていた。
いつもと同じように軽口を言い合いながら、私たちは学校の外へと出る。
家のそばにある住宅街までやってくる頃には、空はすっかり真っ暗になっていた。
いつもと変わらないところといえば、会話がなかったことだろうか。
それは故意ではなく、私だってぼんやりとしてしまうこともあるわけで、つまり白状すると宙くんと前田さんが仲よくしている姿にモヤモヤしている。
もちろん嫉妬なのだろうけれど、種類は恋じゃなくて友人を取られてしまう寂しさ……だと信じたい。
ああでもない、こうでもないと脳内会議をしていたら、宙くんが急に立ち止まった。
『宙くん?』
不思議に思って名前を呼ぶと、彼は夜空を見上げた。
ある星を瞬きも忘れるほど、食い入るように見つめる。
やがて運命の恋人でも見つけたかのように、愛おしむように呟く。
「スピカだ……」
『スピカ?』
「乙女座のことだ」
へぇ、彼が星座に詳しかったのは意外だった。
そこで彼の部屋にも、望遠鏡があったことを思い出す。
「ほら、見てみろよ。あの、青白く輝いてる星……」
『ごめん、どれも同じに見えるんだけど』
「いいか、スピカの見つけ方はこうだ。満月の斜め上に月光にも負けない木星があるだろう。その下にあるのがスピカだ」
得意げに話す彼の言う通りに満月の斜め上を見ると、小さくも月の光に霞むことなく輝いている星を見つける。
あれが木星か。
そしてそのさらに下には、青白く煌く星──目的のスピカだ。
『あ、あった! あったよ、宙くん!』
私は宝物を見つけたかのようなはしゃぎっぷりで、宙くんに報告する。
まさか自分の星座の星があんなに美しいなんて、と興奮していた。
『あれが乙女座ねー。私、九月二十二日生まれなんだ』
「嘘だろ、俺も九月二十二日生まれの乙女座だぞ」
『ええっ、すごい偶然だね』
同じ日に生まれた彼と、死んでから出会った。
それはもう偶然という言葉では片づけられないほど奇跡的な絆で、彼とは繋がっている気がする。
『つまり、スピカは私たちの星ってわけだ』
「いや、俺たちのものではないだろ」
『もう、頭固すぎ。ムードもへったくれもないんだから』
おそらく真顔で言っているのだろう彼にため息をつきたくなったけれど、すぐにそれを飲み込む。
今見える綺麗な星に免じてだ。
『それにしてもスピカかぁ、綺麗な響きだね』
「厳密に言うと、スピカは乙女座α星。乙女座を構成する星の中で最も明るい恒星なんだ」
『うん、とにかく明るいってことは分かったよ』
「全然分かってないじゃないか。まぁいい、他にもスピカを見つける方法がある」
そう言って宙くんの指先は夜空を指さし、星と星の間に橋をかけるように動く。
「あの北斗七星から、アークトゥルスまでの長さを同じ分だけ伸ばしたところにスピカはあるんだ。あの線を春の大曲線とも言ったりする」
『へぇ……ねぇ、宙くんやけに星座に詳しいね?』
得意げに話す彼は、もはや好きのレベルを超えている気がする。
迂遠な物言いだという自覚はあるが、直接的に聞くと彼が怒ると思ったのだ。
「……普通だろ」
返答までに長い間があった。しかも、やけに心拍数が上がっている。
これはなにかを隠しているに違いないと確信した私は『白状しなさい』と問い詰める。
すると宙くんは、うっと呻いて重い口を不本意そうに開く。
「天文学者に……なりたかったんだ」
『へぇー、なるほど。だから、そんなに星に詳しいんだ』
宙くんは頭がいいし、学者になるのも夢じゃないだろう。
だけど、どうして過去形なのかが気になった。
『……どうして、“だった”なの?』
聞いていいものか、もちろん悩んだ。でもやっぱり気になるものは気になるわけで、我慢出来ずに尋ねる。
「俺は生まれたときから、加賀見不動産の跡取りになることが決められてるからだ」
『あっ……』
そうか、だから宙くんは過去形で夢を語ったのだ。
宙くんはこれから先も自分の本当の夢を誰にも言えずに、秘密にして生きていくのだろうか。
彼の人生は彼自身のものなのに、生まれた場所や親に左右されて将来を強制される。
ときにはあなたのためを思ってとか、あたかも善人のふりをして、私たちの羽をもぐと自由を奪う。
決して両親が嫌いなわけではなかった。
ただ、先ほどスピカを見つけたときの感動にも似た気持ちで、私は夢の星を見つけたのだ。
それを両親から否定された途端、その星を握り潰された気がして胸が引き裂かれそうになった。
夢は魂だ。
自分がこれになると決めたその瞬間から、自分の身体とは切っては切り離せないほど癒着する。
いつだっただろう。
赤ちゃんは生まれたとき、その手の中に夢を握りしめているのだと聞いたことがある。
その夢を探して、叶えるために生きていくのだと。
だから私たちは、夢という魂のかけらを探して長い人生の旅に出る。
私は恵まれていた。
十七歳という若さで、物書きになる夢を見つけることができたのだから。
だからこそ言いたい。
彼が天文学者になる夢を捨てられずにいるのなら、手放さないでくれと。
それは魂の一部を失うことと同じで、血は出なくともずっとずっと後悔として痛むから。
『ねぇ宙くん、夢のこと……。お父さんとお母さんには、話さないの?』
「話したところで、どうにもならないからな」
迷わずにそう言った彼だけれど、胸はズキズキと痛みを増していく。
どうにもならないなんて諦めているように装っても、本当は強がっているだけだということは明白だった。
『本当は諦められないくせに』
「だとしても、俺に会社を継ぐ以外の道は用意されてないって言っただろ」
言葉の端々に苛立ちを含ませながら、話は終わりだとばかりに歩き出す宙くんにもどかしさが募る。
最初から道がないなんて、なぜ決めつけるのだろう。
私は自分の人生は自分で決められると思っているし、たとえそれで皆から認められなくても夢に向かって走り続けたい。
それが叶わなくなった今の私だからこそ、より強くそう思う。
『なら宙くんはこの先一生、後悔しないって言える? お父さんとお母さんがあぁ言わなければって、誰かを責められずにいられるの?』
私は聖人じゃないから、誰かを責めずにいられなくなると思う。
でもそうやって誰かのせいにする自分は嫌だから、そうならないように自分が望む生き方をするべきだ。
『自分の望まない未来の先に、君の幸せはあるの?』
夢を追うのも決められた道を進むのも、茨の道を進むのも平坦な道を進むのも、選ぶのは自分だ。
納得のいかない選択をして、未来で過去を悔いても取り戻せないものもある。
だから選択のときがきたら、真剣に心に向き合って考えてほしい。
『お父さんやお母さんがどれだけ立派な人だとしても、常に正しいとは限らないんだよ』
「親のほうが長く生きてるんだぞ。癪だけど、俺よりは正しい判断ができると思うけど」
『親と比べたらもちろん人生経験は少ないけど、自分の将来くらい自分で決められる!』
宙くんの言う正しい判断ってなに?
それが苦労をしない、安定した未来のことを指すのなら間違っていると思う。
そもそも自分で決めていない時点で、正しいとは言えないと思う。
だって、苦労はしなくても後悔は残るから。
『ねぇ宙くん、夢のこと……。お父さんとお母さんには、話さないの?』
「話したところで、どうにもならないからな」
迷わずにそう言った彼だけれど、胸はズキズキと痛みを増していく。
どうにもならないなんて諦めているように装っても、本当は強がっているだけだということは明白だった。
『本当は諦められないくせに』
「だとしても、俺に会社を継ぐ以外の道は用意されてないって言っただろ」
言葉の端々に苛立ちを含ませながら、話は終わりだとばかりに歩き出す宙くんにもどかしさが募る。
最初から道がないなんて、なぜ決めつけるのだろう。
私は自分の人生は自分で決められると思っているし、たとえそれで皆から認められなくても夢に向かって走り続けたい。
それが叶わなくなった今の私だからこそ、より強くそう思う。
『なら宙くんはこの先一生、後悔しないって言える? お父さんとお母さんがあぁ言わなければって、誰かを責められずにいられるの?』
私は聖人じゃないから、誰かを責めずにいられなくなると思う。
でもそうやって誰かのせいにする自分は嫌だから、そうならないように自分が望む生き方をするべきだ。
『自分の望まない未来の先に、君の幸せはあるの?』
夢を追うのも決められた道を進むのも、茨の道を進むのも平坦な道を進むのも、選ぶのは自分だ。
納得のいかない選択をして、未来で過去を悔いても取り戻せないものもある。
だから選択のときがきたら、真剣に心に向き合って考えてほしい。
『お父さんやお母さんがどれだけ立派な人だとしても、常に正しいとは限らないんだよ』
「親のほうが長く生きてるんだぞ。癪だけど、俺よりは正しい判断ができると思うけど」
『親と比べたらもちろん人生経験は少ないけど、自分の将来くらい自分で決められる!』
宙くんの言う正しい判断ってなに?
それが苦労をしない、安定した未来のことを指すのなら間違っていると思う。
そもそも自分で決めていない時点で、正しいとは言えないと思う。
だって、苦労はしなくても後悔は残るから。
『ねぇ宙くん、夢のこと……。お父さんとお母さんには、話さないの?』
「話したところで、どうにもならないからな」
迷わずにそう言った彼だけれど、胸はズキズキと痛みを増していく。
どうにもならないなんて諦めているように装っても、本当は強がっているだけだということは明白だった。
『本当は諦められないくせに』
「だとしても、俺に会社を継ぐ以外の道は用意されてないって言っただろ」
言葉の端々に苛立ちを含ませながら、話は終わりだとばかりに歩き出す宙くんにもどかしさが募る。
最初から道がないなんて、なぜ決めつけるのだろう。
私は自分の人生は自分で決められると思っているし、たとえそれで皆から認められなくても夢に向かって走り続けたい。
それが叶わなくなった今の私だからこそ、より強くそう思う。
『なら宙くんはこの先一生、後悔しないって言える? お父さんとお母さんがあぁ言わなければって、誰かを責められずにいられるの?』
私は聖人じゃないから、誰かを責めずにいられなくなると思う。
でもそうやって誰かのせいにする自分は嫌だから、そうならないように自分が望む生き方をするべきだ。
『自分の望まない未来の先に、君の幸せはあるの?』
夢を追うのも決められた道を進むのも、茨の道を進むのも平坦な道を進むのも、選ぶのは自分だ。
納得のいかない選択をして、未来で過去を悔いても取り戻せないものもある。
だから選択のときがきたら、真剣に心に向き合って考えてほしい。
『お父さんやお母さんがどれだけ立派な人だとしても、常に正しいとは限らないんだよ』
「親のほうが長く生きてるんだぞ。癪だけど、俺よりは正しい判断ができると思うけど」
『親と比べたらもちろん人生経験は少ないけど、自分の将来くらい自分で決められる!』
宙くんの言う正しい判断ってなに?
それが苦労をしない、安定した未来のことを指すのなら間違っていると思う。
そもそも自分で決めていない時点で、正しいとは言えないと思う。
だって、苦労はしなくても後悔は残るから。
次の日、朝のホームルームで昨日の授業中の居眠りについての話し合いが行われた。
教壇に立って話し合いを進めていく宙くんは、昨日から今日まで私と一切口をきいていないというのに、悲しいくらいにいつも通りだった。
意地を張っているわけではない。
本当は言い過ぎたと謝りたかった。
でも、どう切り出したらいいのか、分からなかった。
ぼんやりしていると、目の前に先生から白い紙を差し出された。
軽くお辞儀をして宙くんが受け取ったのは、進路希望調査票だった。
それに、ドクンッと心臓が跳ねる。
宙くんはなんて書くのだろう。
やっぱり、家業を継ぐのだろうか。
宙くんは筆入れに手を伸ばしてシャープペンを取り出すと、その先を【希望する進路】と書かれた枠につける。
それからいざ書こうとして身を乗り出した彼だったが、息を詰まらせて固まってしまった。
緊張しながら見守っていると、宙くんはシャープペンを置いて進路希望調査票を鞄にしまってしまう。
それから額に手を当てると、深い息をついて俯いていた。
***
──キーンコーンカーンコーン。
昼休みの合図であるチャイムが鳴り、当然のごとくダイくんとカズくんが机を班にする。
この光景も数日で見慣れたものとなった。
「なぁ、宙は進路希望調査票になんて書いたんだ?」
コンビニのおにぎりの包装を豪快に空けたダイくんが、好奇心旺盛な目で宙くんを見た。
そんな彼を「言いたくなかったら、言わなくていいんだよ?」と、カズくんが気遣うように声をかけてくる。
そもそもいったいどこから漏れたんだか、宙くんが加賀見不動産を継ぐという噂を耳にしているのだろう。
そして浮かない表情をしている彼に、カズくんはなにか事情があるのだろうと察しているに違いない。
「言いにくいことではないんだけど、俺……」
そこまで言って、宙くんは口をつぐんだ。
さっきも思ったけど、会社を継ぐって即答しないんだな。
もしかして、天文学者の夢と両親が望む将来の間で迷っているのかもしれない。
そんな私の心の声を代弁するように、カズくんは「なんか、迷ってるみたいだね」と言う。
カズくんは、なかなか勘が鋭いかもしれない。
私のエスパーな親友、由美子なみに。
「……いや、俺は家を継がなきゃいけないから」
図星を突かれたからか、ハッとした宙くんは取ってつけたような答えを返す。
会社を継がなきゃいけないと、まるで自分に言い聞かせるような口ぶりだ。
おにぎりをもぐもぐと租借しながら話を聞いていたダイくんは、トドメとばかりにお茶で米粒たちを流し込むと、ようやく口を開く。
「あぁ、宙んちって不動産会社経営してるんだっけ。将来安泰だなっ」
「うーん……でも、宙はなりたそうに見えないけど」
笑うダイくんとは正反対の反応を見せるカズくんは、やっぱり鋭い。
まるでなにもかも見透かすように、宙くんを見つめている。
「宙、本当は会社を継ぎたくないんじゃない?」
「え、そんなことは……」
「なんて、簡単に言えないよね。これは俺の想像だけど、いいとこの家に生まれると周りからの期待もあるだろうし、自由に夢を持ったりするのは難しいんでしょう?」
核心という核心をとことん突いてくるカズくんに折れたのだろうか、宙くんは「あぁ」と言って苦笑いを浮かべる。
彼が素直に思っていることを口にした。
私の前では一度だって、本当の気持ちを打ち明けてくれたことはないのに。
でも、気づいてしまった。
カズくんはその考え方が間違ってるとは言わずに、宙くんの立場もちゃんと理解しようとしている。
彼が頑なになってしまう理由を分かったうえで、声をかけているから宙くんの心に言葉が届くのだ。
なのに私は、自分の気持ちだけを押しつけてしまった。
自分の夢を諦めて後悔しないはずがない、そんなの彼自身がいちばんわかっていることのはずだ。
それなのに責めるようなことばかり言って、宙くんが怒るのは当然のことだ。
「俺、難しいことは分かんないけどさ、宙の人生は宙のものだぞ」
ダイくんの言葉には、聞き覚えがあった。
一度だって忘れたことはない、私の大事な親友たちがかけてくれたものと同じだ。
『楓の人生なんだし、好きに生きなきゃ損だ』と、私の背中を押してくれた言葉だった。
「ダイ、いいこと言うじゃん」
「だろ」
「って、すぐに調子乗る。でも、俺もダイの意見に賛成だよ」
「そう言うこと、俺もカズも宙に後悔してほしくないってことだな」
明るく、それでいて真剣に励ましてくれているふたりは、押しつけがましくない優しさで宙くんを救おうとしている。
それに宙くんの心が動いているのは、感覚を共有している私にも分かった。
でも宙くんは唇を噛んで、それから諦めを含んだ笑みを漏らす。
「ダイ、カズ……ありがとう。でも、いいんだ」
そう言ったた宙くんは辛そうで、私まで胸が苦しくなる。
どうして、ふたりの言葉でさえ宙くんの気持ちは変えられないのだろうか。ただ見守ることしかできないことが歯がゆい。
ダイくんやカズくんも同じ気待ちなのか、寂しそうに顔を見合わせる。
「なぁ、カズ」
「うん、そうだな、ダイ」
するとふたりは目配せをして頷き、なにかを企んでいるような含み笑いを浮かべる。
それを訝しむように宙くんが見ていると、ダイくんがビシッと人差し指を向けてきた。
「宙、放課後開けとけよ?」
「駅前に雰囲気のいいカフェがあるんだ」
ダイくんに続けてカズくんまで、急にどうしたのだろう。
話の流れが読めずに、私と宙くんは目を点にしてふたりの顔を凝視する。
「なんなんだ、急に」
戸惑っている宙くんの肩にふたりはポンッと手を乗せると、声をそろえて「「まぁまぁ」」とそう言った。
カランコロンという軽やかなベルの音とともに店内へ入ると、明治時代を思わせるレトロな木造の空間が広がっている。
放課後、私たちはダイくんとカズくんに連れられて駅前のブティックやレストランが建ち並ぶ通りの一角。
小さな洋館にも見える『カフェ・エトワール』へとやって来ていた。
仕立てのよさそうな執事服のような制服に身を包んだ店員の男性に席に案内されると、さっそく三人はメニューを開く。
そこには写真とメニューの名前が書かれているのだが、ブルーベリの乗ったチーズケーキには【ブルー真珠のエレガントチーズケーキ】、ブリュレ
には【恋焦がれるホイップブリュレ】など、いかにもインスタ映えしそうな食べ物の名前がずらりと並んでいた。
「なんだ、この注文しにくいメニューは」
顔を引き攣らせる宙くんに、くすっとカズくんが笑う。
「ここ定番だと思うけど、苺ショートケーキが美味しいらしいよ。フワフワで口の中でとろけるって、雑誌に書いてあった」
情報通のカズくんの見つけたこのカフェでは、なんの曲かは分からないけれどクラシック音楽が流れており、気持ちを落ち着かせてくれる。
宙くんもゆったりと、くつろいでいるように思えた。
「なんか俺、緊張してきた……」
ダイくんは落ち着かないのか、ソワソワして店内を見渡している。
お店には意外にも男性客がちらほらいる。
このお店にいるというだけで皆、上流階級の貴族のように見えてくるから不思議だ。
「ちなみにダイ、ショートケーキの名前は【苺さんのフワフワ夢見ごごちショートケーキ】だから、注文よろしく」
「えっ、俺がフワフワなんちゃらを注文すんの? 似合わないだろ!」
「ははっ、冗談だよ。確かにダイは洒落たカフェよりフードコートのほうがしっくりくる」
「おいカズ、さりげなく俺のことディスってないか?」
確かに失礼だけど、ダイくんにはこういう場所は似合わない気がした。
それに比べて宙くんとカズくんは、こういう場所が異様に似合うな。
そんなことを考えていたら「ご注文はお決まりですか?」と、店員が気を利かせて声をかけてくる。
「宙、なににする?」
「カズに任せる。飲み物はブラックコーヒーで」
「分かった、ダイは?」
カズくんの視線がメニューを見つめて固まっている彼に向けられる。
ダイくんはしばらくうーんと唸ったあと、お手上げな感じでメニュー表を手放した。
「任せる!」
どうやら、自分で頼むにはどれも勇気がいる名前だったらしい。
そうこうしているうちに、カズくんが皆の注文をスマートに済ませる。
それから十分ほどで、飲み物とケーキが運ばれてきた。
宙くんは綺麗な所作でカップに口をつけると、グロテスクなほど黒い液体を口内に流し込む。
深い苦味が舌の上に広がり、私は思わずうぐっとうめいてしまった。
苦いものは苦手なので生まれてこのかた、コーヒーなんて飲んだことがなかった。
誰が好き好んで、こんな体に悪そうな飲み物を摂取するのだろう。あぁ、ここにいた。
げんなりとしていると、宙くんが軽く手を挙げて「すみません」とテーブルの横を通り過ぎようとした店員を呼び止めた。
「ミルク下さい」
「かしこまりました」
店員が丁寧にお辞儀をして去っていくと、ダイくんとカズくんが不思議そうな顔をする。
「宙、ブラックコーヒーを頼んだのにミルク入れんのか?」
「あぁ、ちょっと、予想以上に苦くてな」
ダイくんにそう返事をして、宙くんはメガネを人差し指で直すと苦笑いを浮かべる。
これは勝手な億族だけれど、もしかしたら私のためにミルクを入れてくれたのかもしれない。
そう思ったら、胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
酷いこと言ったのに優しくしてくれてありがとう、宙くん。
私の声なんてもう聞きたくないと思うから、今は言葉に出さずに胸の内でそっと感謝した。
「ショートケーキ、本当に美味しいな」
宙くんの感想に、私もうんうんと心の中で相づちを打つ。
口の中で溶けていくスポンジは、まるで雪を食べてるかのようだ。
「甘いものは頭をスッキリさせてくれるからね」
「そうそう、カズの言うとおり。糖分摂ると幸せホルモンが出るらしいしな」
「ダイにしては珍しく、物知りだね」
「おう、まあな……って、やっぱりさりげなく俺のことディスってるだろ」
そっか、ふたりは宙くんのためにここに連れてきてくれたんだ。
それに気づいた宙くんも、顔をほころばせる。
「お前たちのやりとりは漫才みたいだな。おかげさまで悩んでるのがバカらしくなったよ」
「それなら、ダイをディスったかいがあったよ。今日はリフレッシュしよう」
「あぁ、ありがとう」
フォークでもうひと口、ケーキを頬張る宙くんの口角が自然に上がる。
向かい座るダイくんは「やっぱり俺をディスってたのかよ!」と騒いでいた。
それを見て宙くんは耐え切れずといった様子で、ぶはっと吹き出す。
「店内なんだから静かにしろよ、ダイ」
そう注意しながらも、宙くんはどこか楽しそうだった。
そして楽しそうな宙くんを見つめるふたりの友人も、笑顔だった。
それから三人は宙くんの勉強法やお決まりのダイくんの武勇伝、カズくんのバイトの失敗談など他愛のない話をした。
ふと前に宙くんは実りのない会話に耳を傾けるくらいなら、家に帰ってテレビのニュースを見ていたほうがずっと価値があると言っていたのを思い出す。
彼の言う実りのない話というのはこういう雑談のことだったのだろうけれど、今はきっとその考えが覆っているはずだ。
だってその実りのない話に、彼の心が救われているのを感じるから。
***
楽しい時間ほどあっという間に過ぎるというのは本当で、日が沈み濃紺の空が私たちの頭上に広がる頃、宙くんはダイくんやカズくんと別れた。
人通りはあるけれど、友人たちがいなくなったことで急に静けさを感じる帰り道。
宙くんは途中まで家を目指して歩いていたはずだったのだが、急に方向転換をして駅のほうへと歩き出した。
「楓」
どこか行きたい場所でもできたのかと驚いていると、有り得ないことに宙くんが私を呼んだ。
聞き間違いかと思ったら、またもや「楓」と名前を呼ばれる。
いよいよ、幻聴まで聞こえるようになったらしい。
「まだ怒ってるのか、さっきから呼んでるんだから返事くらいしろ」
『えっ、この天橋楓をお呼びですか?』
「“この”の意味がわからない。ここに、お前以外の天橋楓がいるのか?」
『いないでしょうね』
「はぁ……。お前と話してると論点がずれる。いいか、ちゃんと聞け。こらから連れて行きたいところがある」
『う、うん……了解です』
宙くんと話さなかったのは少しの時間なのに、もうずっと言葉を交わしていないかのような感じがする。
また宙くんと話せた嬉しさを噛み締めながら、連れてきたいところとはどんな場所だろうと胸を躍らせた。
宙くんは三十分くらい電車に乗って駅を降りると、一軒一軒が大きい農家の家が立ち並ぶ住宅街に入っていく。
しばらく道路に沿って直線に歩いていくと、見えてくる風景に既視感を覚えた。
『ここって……』
大きな道路を挟んだ先には、銀の手すりを堺に上りと下りが分かれている階段がある。
その両端に花は散っているも、ちらほら新芽が顔をのぞかせている桜の木が生えていた。
『ここ、私の家の近くだ』
「え、そうなのか?」
道路を渡って階段を上がる宙くんが、声にわずかな驚きを含ませる。
それでも足は止めず、階段の先に続く坂を上がって行く彼に、私は『うん』と答えた。
『あそこの紺色の屋根とピンクの自転車が置いてある家、分かる?』
「あぁ、見える」
『あれが私の家だよ』
「まさか、俺の行きたい場所の近くに、お前の家があるなんてな。その……寄ってくか?」
心の端で私がいなくなったあとの両親が、どう過ごしているのかが気がかりだった。
なので躊躇いがちに彼が提案してくれたことはありがたいことのはずなのだけれど、私は即決できないでいる。
家族に会えば、あの家に行けば、自分が死んでいるという事実を嫌でも目の当たりにすることになる。
お母さんやお父さんとあんな別れ方をして、もう二度と会えない場所に逝ってしまった私は親不孝者だ。
だから余計に、あの家に行くことが怖かった。
「怖いのか」
『どうして……わかったの?』
「心臓がバクバクしてるし、不安にも似たモヤモヤ感が胸の中にあるんだよ」
『そっか、全部伝わっちゃうんだったね』
自嘲的にあははと笑って、私はやんわりとその事実を認める。
すると宙くんは、私の家から視線をそらして再び歩みを進めた。
「怖いんなら、見なくていい」
『宙くん?』
「その代わり、いいもんを見せてやる」
自信満々にそう言った彼が連れてきてくれた場所は人気も遊具もベンチも自販機もなにもない、木々に囲まれた大きな公園だった。
「着いたぞ」
『着いたって……。こんなに遅い時間に、公園になんの用事があるの』
「用事があるのは公園じゃなくて、空だ」
公園の中央まで歩いて行った宙くんが顔を上げる。
そこには月並みな言葉だけれど、降ってきそうなほどの満天の星空が広がっていた。
光度も光彩も様々で統一性はないのに、それがダイヤモンドのように無数の煌きを放っている。
それは宝箱をひっくり返したかのように、息を呑むほどに美しい景色だった。
『自分の家の近くに、こんな場所があるだなんて知らなかった。今にも星に手が届きそう』
胸に熱く迫りくるものを感じて、ほうっと息をつく。
宇宙の神秘に触れたような、そんな特別さを感じる光景だった。
「俺も初めてここへ来たときは、楓と同じことを思った」
宙くんはそう言って芝生の上に腰を降ろし、大の字で寝転ぶ。
この場には私と彼しかいなくて、星空も独り占めで、生きている人間はこの世界にふたりだけしかいないような錯覚に陥る。
なんて贅沢な時間だろう。
十七年間生きてきた中で、いちばんといっていいほどに綺麗な星空だった。
「昔からここに来ると、悩んでることがちっぽけなことのように思えた」
『宙くんは……』
ここへ来るとき、どんな悩みをその胸に抱えているの?
そう聞きたかったのに、まだそのときではない気がして口をつぐむ。
宙くんにとって特別な場所であろうここに私を連れてきてくれたということは、なにかを話そうとしてくれているのだろうから、いくらでも君の言葉を待とうと思う。
「この広い世界を見てると、俺の悩みなんて大したことないって思えるんだよ」
一緒に星空を見上げながら、私は宙くんの話に耳を傾ける。
私たちを囲むように生えているたんぽぽの綿毛が、そよ風によってまだ見ぬ世界へと運ばれていくのが見えた。
ここは風も星も草の匂いも、すべてが優しい。
「……天文学者っていうのは、望遠鏡を使って天体を観測して研究する科学者なんだ」
『宙くんの部屋にも望遠鏡があったよね』
あの大きな望遠鏡で星を見上げるたび、宙くんはなにを考えてたんだろう。
星に焦がれて、それでも純粋に星を追求できない現実に悲しんでいたのだろうか。
「俺さ、星がどうやって生まれるのかを知りたいんだ」
『星がどうやって生まれるのか……? 天文学者って、そんなことまで調べられるの?』
「あぁ、生まれたばかりの星、これから星が生まれそうな場所を望遠鏡で観測していれば、必ず絶対に解明できる」
目を輝かせてただ真っ直ぐに星を見つめる宙くんは、今まで見てきた中でいちばん生き生きとしていた。
「ずっと星のことだけを考えていられれば、いいのにな」
『……天文学者になるとは、言わないんだね』
「皆が俺に次期社長として、あの不動産会社を継ぐことを望んでるからな。加賀見不動産
に務める社員二千人を路頭に迷わせるわけにはいかないだろ」
それはご両親から、言い聞かせられてきた言葉だろうか。
私は宙くんみたいに会社を継がなきゃいけないわけじゃないけれど、食べていけない、叶うはずないと夢を否定された。
それでも諦めきれなくて説得しても、聞く耳すら持ってくれなかった。
確実性があるか、世間一般でいう立派な大人のくくりから逸脱していないか、大人たちの価値観という名のレールに私たち子どもの将来を当てはめようとする。
物事の善悪が人の数ほどあるように、常に大人の言う生き方が正しいとは限らない。
あくまで親の意見は自分が道を決めるための判断材料だと、そう思うのだ。
『誰かに望まれないと、私たちは自由に夢を持っちゃいけないの?』
「え……?」
声には当惑の調子がこもっており、それが諦めきれない夢と定められた将来との間で迷っている彼の気持ちを表しているように思える。
私の人生なのにと、悔しくて涙したあのときの気持ちが蘇る。
世界はどうしてこんなにも、安定や常識に囚われるんだろうって。
『私はね、物書きになりたかったの』
「前にも言ってたな。小説家ってことか?」
『うん、そんな感じ。それをお母さんに打ち明けたんだけど、こんなのどうやって食べていくの? ダメに決まってるじゃないって言われちゃったんだ』
そう、そう言われて私は家を飛び出した。
目的地なんてないけれど、少しでも遠くへ行きたくて必死に走って、走って、走った。
このときの私は行き場のない苛立ちの矛先を見つけられずに、がむしゃらに走っていた。
でも、それだけじゃない。
きっともうなにを言っても無駄だと、向き合うことから逃げたのだ。
その結果、私は夢も命も失ってしまった。
あぁ、そうだ。
ぼんやりとしていた私が死んだ瞬間、それはこの記憶の先で起きた。
さっき宙くんと通った階段下の道路で、目が眩むほどの白い光に包まれた私はギュッと目をつぶる。
耳をつん裂くようなスリップ音と竦む身体に訪れたドンッという強い衝撃に、私の身体は痛みを感じる間もなく宙へと投げ出された。
そして地面に叩きつけられると、テレビの電源が切れるようにプツンッと記憶が途切れたのだ。
『…………』
そうだったんだ……。
私は車に跳ねられて死んだんだ。
黙り込んだ私を心配してか、「楓?」と声かけられる。
今は自分に起きた衝撃の事実に嘆くよりも、伝えないと。
彼がなにもかも失う前に、後悔で心を殺してしまわないように。
『それで私、誰にも分かってもらえないからって逃げ出したの』
あの日の後悔と未練が、涙になってボロボロと溢れる。それが宙くんにも伝わって、視界が歪んだ。
でも、私は極めて明るい口調で言った。そうしないと、みっともなく泣きじゃくってしまいそうだったから。
だけど、宙くんは咎めることなく静かに涙を拭う。
彼は自分の頬に触れているだけなのだろうけれど、その手つきは私を労わってくれているようで優しかった。
『でも本当は逃げちゃいけなかった。どんなに否定されても貫くくらいの気持ちで、向き合わなきゃいけなかったんだよね』
夢を見つけるのは、あの幾千の星々の中からスピカを見つけるより難しい。
だから、もっと大事にしなきゃいけなかった。
大げさな言い方だけれど、世界中の人に認められなくても、遠回りをしてでも、叶えるんだって意思を両親にも伝えなきゃいけなかったんだ。
『私はもう、どんなに望んでも夢を叶えられない。でも、宙くんは違う』
「違うって?」
『宙くんは私と違って未来がある、自由がある。だから自分の道を決められるんだよ』
「俺の道……」
私の言葉を復唱して考えるように閉眼した彼は、自分の心と向き合っているのだと思う。
今までのように『しなきゃいけない』と言い聞かせるのではなく、本心に『どうしたいか』と問いかけているのだ。
しばらくして、閉ざされていた視界が再び星空を映す。
何度も眺めていた景色のはずなのに、さっきよりも鮮明に見えた気がした。
「楓、俺……ただ心のゆくままに星を追求したい」
彼の答えは誰かに決められた道ではなく、自分の望む未来だった。
私は心を動かしてくれた彼に嬉しくなって、涙交じりの声で返事をする。
『それが宙くんの、本当の心の声なんだね』
「あぁ、父さんと母さんに認めてもらえなくても、それでも天文学者になりたい」
『うん、世界中の誰もが宙くんの夢を否定しても、私だけは応援するよ』
──君の味方だよ。
ずっと殻に籠っていた彼は、ついに自由に向かって羽化した。
飛び立つ先が茨の道でも、進む覚悟を決めた宙くんを応援したい。
「ありがとな、楓。言葉にしたら決心がついた」
『私だけじゃないよ。きっとダイくんもカズくんも宙くんの味方だと思う』
「あぁ、そんなふたりと繋ぎ合わせてくれた楓には感謝してる」
空には宙くんの決心を祝福するかのように星々が瞬いていて、私たちはつい微笑む。
「帰ったら伝えるよ、天文学者になりたいってな」
『うん、そばにいる』
たとえ隣に立てなくても、彼の中で一緒に戦うつもりで見守る。
そんな意味を込めて彼の強気な声に応えた。
それからしばらく星を眺めて、ようやく腰を上げると元来た道を戻っていく。
どこか緊張している様子の彼の進む道の先が、明るく照らされていますように。
そう願いながら、家を目指すのだった。
自宅へ帰ってくると幸か不幸か、玄関に見覚えのある革靴が並んでいた。
「おかえりなさい、宙。遅かったのね」
「ただいま、母さん。少し寄り道してきたんだ」
いつかのデジャヴかのような風景、出迎えてくれるお母さんの顔は不安げに揺れている。
「宙、夕飯は……部屋に運ぶわね」
前にお父さんが先に帰ってきていると気づいたとき、宙くんはリビングには行かずに自室に籠ってしまった。だからお母さんも、そう言ったのだろう。
「いや、今日はリビングで食べる。ふたりに話があるから」
「え……わ、分かったわ。すぐに用意するわね」
一瞬目を見張ったお母さんは、すぐに嬉しそうに笑みを浮かべてリビングに戻っていく。
宙くんはその背を見送ることなく鞄を置きに部屋へと戻り、部屋着に着替えると確かな足取りでリビングのドアの前にやってきた。
「……ふぅ」
緊張してるのか、ドアノブを握る手が汗ばんで小刻みに震えていた。
私に身体があったらよかったのに。
そうしたら君の震える手を握って、背中をさすってあげられた。
それが叶わないならと、私は『大丈夫、宙くんのそばにいるよ』と声をかける。
すると宙くんは、ふっと笑って「頼もしいな」と言ってくれた。
それから凛と背筋を伸ばすと、意を決したようにリビングのドアを開ける。
「こんな時間まで、なにをしていた」
リビングに入って早々、厳しい声を浴びせられる。
宙くんがダイニングテーブルに視線を向けると、腕組みをして咎めるようにこちらを見ているお父さんがいた。
肌にピリピリと感じる威圧感に宙くんの身体が震える。
『頑張って、宙くん』
励ますように声をかけると、宙くんが一歩前に出る。
「父さん、母さん、話がある」
宙くんはリビングの入口のあたりで立ち止まり、ふたりの顔をまっすぐに見つめた。
「……話だと?」
聞き返してくるお父さんの瞳は、どこまでも冷たい。
それに怯んで視線をそらしそうになる宙くんに『ちゃんと伝わるから』と、もう一度声をかけた。
宙くんは何度か頷いて静かに深呼吸をすると、はっきり伝える。
「俺、会社は継がない」
宣言した彼の声に空気が凍りつく。静まり返るリビングで、それを聞いたお父さんの目と眉が怒りに吊り上がるのが分かった。
「なにを言ってるんだ。お前はこの俺が築いてきたものを潰すつもりか!」
「会社を継いで社長になるよりも、やりたいことがある」
「お前は加賀見不動産の跡取りなんだぞ。そんなの認められるはずがないだろう」
「それでも俺は天文学者になりたい」
「この話は終わりだ。時間が経てば、そのくだらない夢への熱もすぐに冷めるだろう」
吐き捨てるように言ったお父さんに「くだらないって……」と宙くんは呟く。
怒りを通り越して、心が冷え冷えとするのを感じた。
「俺がバカだった……。分かってもらえないなら、もういい……」
あの日の私と、今の宙くんの姿が重なる。
一生懸命に向き合おうとしているのに、興味がなさそうに突っ返されたら誰だってやさぐれたくもなる。
でもここで逃げたら、私と同じになってしまうから──。
『宙くん、諦めないで!』
お父さんを睨みつけていた宙くんが踵を返そうとしたとき、私は必死に叫んだ。
それに彼はピクリと肩を震わせて、足を止めてくれる。
『これから進む宙くんの道は、お父さんに夢を認めてもらうより辛いことが待ってるはずだよ。ねぇ、まだスタートラインにも立ってない!』
「楓……」
掠れる声で名前を呼んでくる宙くんに、私はハッとした。
あのとき、私にも厳しく諦めるなと叱咤してくれる誰かがいてくれたら。
両親から逃げることなく、あの場に踏み留まれたのではないかと。
なら私は、あのときの自分がかけてほしかった言葉のすべてを彼のためにぶつけよう。
『ほら、もう一度振り返って。私は宙くんの味方だよ、そばにいるから!』
私に促されるように、ゆっくり振り返る宙くん。
その視線が再びお父さんに向けられると、会話を見守っていたお母さんが息を呑んだ。
『どんなに傷ついても、夢を手放さないで』
宙くんは私の言葉に長く息を吐きだして、それから心を決めたのか口を開く。
「……俺は、俺だ。跡取りとかいう以前に、ひとりの人間なんだ!」
声を荒らげる宙くんに、お父さんは目を剥いた。
彼がこうして感情を露にしたのは、初めてだったのかもしれない。
「今まで父さんの望む人間になろうって、高校も進路も言う通りにしてきた。今まで自分で望んだことなんて、一度もなかったよ」
だから宙くんは目に見えるもの、聞こえるもの、すべてに無関心だった。
彼にとって重要なのは加賀見不動産の跡を継ぐことだったから、それ以外のものは不必要だったのだ。
「でも、俺はもう決められた未来に自分の身を任せるのはやめにしたい。父さんの敷いたレールの上じゃなくて、自分の足で自分の決めた道を責任もって歩いていきたいんだ」
ここでお父さんが彼の話から興味を失わなかったのは、逃げなかったからだろう。
その熱量がリビング中を満たしていて、ご両親も宙くんから目がそらせなくなっている。
そんな彼に圧倒されながら、お父さんは口を開く。
「そうは言っても加賀見不動産なら就職先には困らないし、基盤はできているからなんなく経営していける。これが成功者へのいちばんの近道なんだぞ」
「宙……お父さんの言う通り、お父さんの仕事を継げばこの先苦労はしないと思うわ」
お父さんの傍らに立ってそう言ったお母さんに、宙くんは首を横に振る。
「俺が欲しいのは安定じゃない、自分らしく生きる未来だ」
迷いのない宙くんの言葉に、その場にいたお父さんとお母さんが息を呑む。
ううん、ふたりだけじゃない。私も彼の強さに胸を打たれていた。
彼の情熱が心に染み渡って血と一緒に全身に流れていくみたいに、私にも燃えるような感情を取り戻してくれる。
「高校を卒業したら、天文学者を多く輩出してる大学に行きたい。今の成績なら特待生になって学費も安く通えるし、バイトもして学費も自分で工面する。だから見守って欲しい」
静かに頭を下げる宙くんに、気づかされたことがある。
夢を応援してもらうなら、ただこうなりたいと願望を押しつけるだけではダメなんだ。
金銭的に両親を頼ることもあるだろう。
なのに自分の望みだけ押しつけるのは、ただの我儘だ。
だから宙くんのようにたとえ両親からの援助が受けられなくても叶えるためにどうするのか、どれほどの覚悟をもっているのかを具体的に示すことが大切だったんだ。
「あなた、私からもお願いします」
宙くんの話を聞いていたお母さんが、お父さんに向かって頭を下げた。
「宙は昔からいい子すぎるほど、いい子でした。だけどそれは、私たちが我儘や自分の意見を言えないように育ててしてしまったせいです」
「だが……」
食い下がらないお父さんの腕に、お母さんは手を添える。
「こんなふうに、自分の気持ちを伝えてくれたことが、私は嬉しいの。いつの間にか、こんなに大人になっていたのね」
「母さん……」
お母さんは優しく包み込むような笑みを口元に浮かべると、宙くんの腕にも手を添えた。
「宙、もうあなたは自分の足で歩いて行けるのよね?」
確かめるようなお母さんの問いに、宙くんはコクンッと頷く。
それを見届けて満足げに目を細めたお母さんは、お父さんに声をかける。
「あなた、どうか宙を自由にしてあげて下さい」
「わざわざ山あり谷ありの道を、進む必要はないと思うが」
「だとしても宙の人生を決める権利は、私たちにはないはずです」
「……ふぅ、お前たちの言いたいことは分かった」
眉間にしわを寄せたまま、お父さんは息を吐くと目を閉じる。
お父さんの言葉を待つまでの間、宙くんの心臓はずっとドクドクと騒いでいた。
「……宙」
そしてついに、判決のときがきた。
瞼を持ち上げてこちらを見据えるお父さんの目は、宙くんに似て感情を読み取りずらいけれど、いつもより優しい。
「そこまで言うのなら、いいだろう。自分で決めたことならば、きちんとやり遂げろ」
一瞬、なにを言われたのかが分からなかった。それは宙くんも同じだったようだ。
驚いてしばらく口をきけないでいると、お父さんが立ち上がって、あろうことか宙くんの肩に手を乗せる。
「これからのお前の努力を見ている。ちゃんと自分の力で叶えることだ」
言葉少なにそう言って、ダイニングテーブルのほうに戻っていくお父さん。
その背中を視線で追う宙くんの視界が、ほんの少しだけ歪んだ。
「ありがとう、父さん」
「さぁ、夕飯にしましょう」
お母さんが涙ぐみながら笑顔で宙くんの背中を押して、お父さんの前の席に座らせる。
今日の夕食は私が幽霊になって初めて見た、加賀見家の家族団らんな光景だった。
『よかったね、宙くん』
夕食を終えてベッドに横になる宙くんに、私は感動冷めやらぬまま声をかけた。
「ありがとな、楓」
『なに言ってるの、頑張ったのは宙くんでしょ。私はなにもしてないよ』
「なに言ってるの、は俺のセリフだ」
それくらい察しろとばかりに尖り声で言う宙くんに、私は間抜けなほどキョトンとしてしまう。
彼の言いたいことに、見当がつかなかった。
黙りこくっていると、痺れを切らしたのか、宙くんは「あのな」と呆れながらも話してくれる。
「楓がいなければ、俺は一生父さんと向きあうことはなかったんだぞ。ずっと心に嘘をつき続けて、望んでもいない未来を迎えてたと思う。だからお前は、俺のヒーローなんだよ」
『っ……大げさだなぁ』
本当は嬉しかったくせに、素直に喜ぶのは恥ずかしくて冗談っぽいノリで返す。
いつもは剣豪のように辛辣な言葉でバッサバッサと私を切るのに、急に素直になるのはやめてほしい。
いつの時代もギャップというものに、女子は弱いのである。
「楓がいてくれて、本当によかった」
まるで中にいる私の存在を感じるように、胸に手を当てて彼は言う。
いつも自分の心から必死に目をそらして生きてきた宙くんが、やっと欲しいものを手に入れられて、心のままに生きる道を歩み始めた。
「本気でそう思ってる。楓、ありがとう」
──ありがとう。
そのひと言に、心が満たされていく不思議な感覚。私は君が君らしく生きてくれることに、こんなにも幸せを感じている。
あぁ、私はもしかして……。
ある予感が頭を掠める。楓と呼ばれるたびに心臓が信じられないほど脈打つのも、前田さんと宙くんが仲良くしているのに胸がモヤモヤしたのも、ぜんぶ──。
私が、宙くんを好きだからだ。
心の中で言葉にしたら、彼に対する自分の気持ちがより鮮明に分かった。
生まれてこのかた、誰かを好きになったことはなかった。
初恋が幽霊になってからとは、なんとも切ない。
私が死人である以上、百パーセント、十割がた、報われない恋だということは分っている。
辛いだけなのにそれでも好きだと自覚すると、まるでパンドラの箱を開けてしまったかのように後戻り出来ないほどの想いが溢れてきた。
その嬉しさと苦しさに、心で泣いた。
そんな私のことなどお構いなしに、夜はゆっくりと、でも確実に更けていくのだ。
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