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五章 キミと私のストーリー
うん、閃いた。
物書きに必要なのは、ちょっとした閃きだと私は思う。
こう、アイデアが空から降りてくるみたいな。
『私たちの話を小説にしようかと思うんだけど、どうかな?』
「俺たちの物語?」
休日の朝、私たちは宙くんの部屋の机に置かれたパソコンに向かっていた。
宙くんが湯気がゆらゆらと立っている淹れたてのコーヒーに口をつけると、ミルクと砂糖の甘みが口内に広がる。
宙くんが私のためにブラックじゃなくて、甘いコーヒーにしてくれたのだ。
その気遣いに、改めて胸が温かくなった。
『宙くんと私が出会った日から、今日までのことをなにかに残しておきたくって』
宙くんが夢を一緒に叶えようと言ってくれたときから、ずっと考えていた。
綴るなら私たちの軌跡がいい。
それこそが、私がここにいたという証になると思ったからだ。
「いいんじゃないか? で、なにから書く?」
『そうだなぁ、まずは私たちの出会いから』
「出会いね……」
私たちの会話は、いったんそこで途切れる。
たぶん、ふたりで同じことを考えているのだろう。
宙くんと出会ったあの日は──。
「……最悪だったな」
『……最悪だったね』
ほぼ同時にそう言って、そのあとのため息まで重なった。
『私、今でも忘れないよ、トイレ事件』
「仕方ないだろ、生理現象なんだ。それに泣きたいのは俺の方だぞ」
『なんで宙くんが泣きたいの?』
「俺はお前に、ぜんぶ見られてるんだぞ」
『ちょっと、それは色々誤解を招くから止めてくれる?』
今思えば、あのときは大変だったな。
トイレもお風呂も、彼が見たもの感じたものはすべて見えてしまうから辛かった。
そして今は、その状況に慣れてしまっている自分が怖い。
『さて、人物の設定を先に決めようか。宙くんは黒い髪に瞳をしている美青年っと』
「おい、盛るなよ。悲しくなるから」
『えーそれから、頭はいいけど固い。融通がきかない朴念仁……』
「急に悪口か」
『事実だよ』
私の言った言葉の通りに、彼がタイピングしていく。
小説を見られながら書くというのは、正直言って裸を見られるより恥ずかしいかもしれない。
でも君にならなにを見られても、いまさらな気がする。
「楓って、どんな姿をしているんだ? そういえばお前のこと、なにも知らないんだよな」
ふと、宙くんの口からこぼれた呟き。
私は鏡を通して宙くんの姿を見れるけれど、宙くんは私を目視することが出来ない。
まぁ私は別に美人でないので、見てもなんの得はないけれど。
『なぁに、平凡を極めたような女さ。君が気にすることのほどではないよ』
「なんだよその口調、誰だよ。とは言っても、お前のこともここに書かないとだろ」
『うぐっ……まぁ、そうなんですけどね』
「どんな髪の色をしてて、どんな目をしてるのか、どんな顔で笑うのかとか、知りたい」
その言葉に嬉しくなってしまった私は、それを悟られないように咳払いをして『じゃあ、白状しましょう』と誤魔化す。
『髪はそうだな、長いよ。色は例えるなら紅茶色かなぁ、親友と美容院で染めたばっかりだったの。なのに事故るとか、どうせならそのお金で超特大パフェでも食べればよかった』
私に予知能力があったらいいのにと、それだけが悔やまれる。
『私の美容院代、一万二千円カムバッークっ!』
「……お前、本当に高校生か? 発想がオバサンくさいぞ。年齢、偽ってないだろうな」
『し、失礼な……。少なくとも宙くんよりは高校生っぽいことしてたよ!』
「それで、他には?」
『他って?』
「お前の特徴だよ」
『そうだなー、身長は百五十センチで小さいから、宙くんの身体になったときは背が高くてビックリした』
「お前とは三十センチくらいの差があるからな」
ってことは、やっぱり宙くんは百八十センチくらい身長があるということか。
高身長で、しかもイケメン。
私はいたって平凡なのに、ひとりの人間に二物どころか三物、四物も与えるだなんて神様は不公平だ。
「生きてるときに、楓に会ってみたかった」
「っ……」
私に会ってみたかったと、思ってくれた。
君は私の気持ちなんて知らないで、奇襲のように心を奪ってくる。
そのたび、私は懲りずにどんどん君を好きになっていくのだ。
驚いてしばらく口きけなかった私は大きく息をつくと、今度は誤魔化すことなく素直に自分の気持ちを伝えることにする。
『宙くん、私も生きてるときに会いたかった。ちゃんと向き合って、宙くんの目を見て話してみたかったよ』
それを聞いた宙くんの胸が、キュッと締めつけられる。
この切なさは、きっとふたりのものだろう。
密度の濃い沈黙が降りてくると「書き始めはどうする?」と宙くんが空気を変えるように言った。
それにほっと胸を撫で下ろした私は、彼の気遣いに甘えて話に乗っかる。
『じゃあ、プロローグから。宙くん、私の言ったとおりに打ち込んでくれる?』
「あぁ、わかった」
宙くんは頷いて、キーボードに指を乗せる。
【それは桜舞う季節、始まりを運ぶ春に起きた小さな奇跡。】
【運命が巡り合わせた、ふたりの軌跡。】
【桃色の桜が雪のように降る石段を上がり、さらに坂道を進むとたどり着く。夜空にスピカの星が輝き、春の温もりに満ちた世界】
【いつか私が消える日が来ても、君が見上げるスピカの星になってきっと会いに行くよ。】
【ならば俺は何年かかっても、幾千と瞬く星の中に君という名のスピカを探そう。】
【だから、また会えるその日までしばしの別れを。】
【さよなら。】
【大事な私の、俺の──半身。】
「ここしか見てないと、なんのことを言ってるのかは分からないが……。お前の言葉って、綺麗なんだな」
『えっ、本当?』
「特に、何年かかっても幾千と瞬く星の中に君という名のスピカを探す、とかさ」
『ありがとう、すごく嬉しい』
容姿を褒められるよりなにより、私の綴る言葉を褒められるほうが何倍も嬉しい。
彼は白黒はっきり告げる性格なので、これも本心から出た言葉だと思うと舞い上がってしまいそうになる。
「礼をされる意味が分からない。俺はただ、感想を言ったまでだ」
『それでも、ありがとう』
彼のこういうところが好きだ。
お世辞は言わないし、適当に話を合わせることもしない。
冗談でさえ真摯に答えてくれる素直な君が好きだ。
このままだと赤面して彼に気持ちがバレてしまいそうなので『続きやろうか』と話を戻した。
『じゃあ宙くん、私への印象を書いてみて』
「……聞き間違いだったら悪いんだが、俺が書くのか?」
『うん、最後に修正してあげるから、思ったままに書いてみてよ』
「いや、お前に見れらながら書くのは気まずいだろ」
『なに言ってんの。私と宙くんはあんなことやこんなことまで共有してきた仲なんだから、いまさら恥じるものなんてないでしょ』
とは言ったけれど、さっきは小説を見られるのが裸を見られるより恥ずかしいと思っていたので、私は調子のいいやつだと思う。
「誤解を招く言い方をするな」
『ほらほら、時間は有限なんだから書いて書いて』
宙くんが私のことをどう思っているのかが気になって、げんなりしている彼を急かす。
「わかったよ」
渋々といった様子で、宙くんはキーボードを叩き始める。
【彼女は姿のない幽霊だった。想像でしかないが、明るく飾らない性格なんだろう。きっと俺とは違って、表情豊かな人なんじゃないか、そう思った。】
【つまり、なかなか好ましい性格をしている】
彼の綴る言葉は決して綺麗とは言えなかったけれど、荒削りなところがどんな言葉よりも誠実だった。
『ぷっ、なかなか好ましいって……宙くん、本当になに時代の人?』
「そんなに変か?」
『いや、私はツボに入ったよ。あっ、私の宙くんの印象の所に【彼はまるで江戸時代からタイムスリップしてきた、武将のように堅物だった。】って、つけ足しといてよ』
「……お前、馬鹿にしてるだろ」
『ふふっ、してないって』
私たちはクスクスと笑いながら、物語を綴っていく。
私たちの軌跡をたどるこの作業は、まるでふたりきりで旅をしているような、そんな幸福な時間だった。
この日は日が暮れても、突然意識がなくなることはなかった。
それはまるで、神様がくれた贈り物のように思えた。
小説を書き始めて三日目。
今日は気分転換を兼ねて学校帰りに、いつかダイくんとカズくんと来たカフェで執筆をすることにした。
宙くんは寝る間も惜しんで協力してくれたので、小説はすでに物語の中盤まで進んでいる。
「ここは俺が本当に望んでる夢がなんなのか、頭が蒸発しそうなくらい悩んだところだな」
宙くんは【この人は私と同じ、夢を諦めきれなくて足掻いている。不確かで不透明なこの世界で必死に、確かなものを探しているんだ。】という小説の文字を、パソコンの画面の上から人差し指でなぞっていた。
『そうだね。ここは私が宙くんに夢を捨てないでほしくて必死になってたところだ』
そう、このシーンは宙くんがあの公園で本当の夢を教えてくれたときのことが書かれている。
私たちにとって、とても大事な場面だ。
「スピカの話もそうだけど、俺の話……いろいろ覚えててくれたんだな」
『うん、宙くんの話って、いつも私の知らない世界を知れるから心に残るの』
「おっ……お前、よくもそんな恥ずかしいセリフが言えるな」
『照れるなって』
「なんで、お前だけ余裕なんだよ」
逆になんで、宙くんに余裕がないのかを教えてほしい。
君は私のことなんて、幽霊の友達くらいにしか思っていないでしょうに。
どこか気を紛らわすようにコーヒーをひと口だけ飲んだ宙くんに、私は首を傾げる。
「まぁともかく、俺たちって似てるよな」
『あー、誕生日も一緒だしね! 乙女座同盟でも組む?』
「頭悪そうな同盟だな、俺は遠慮しとく」
『遠慮しなくていいのに』
「……話が進まないから、黙って聞け。俺が言いたいのはそこじゃなくて、将来に悩んでたところが似てるってことだ」
それは、確かにそうかもしれない。
性格はこんなにも正反対なのに、夢を誰にも認められなくて、それでも諦めきれなくて、必死に足掻いていたところは同じだった。
『じゃあさ、ここの文は――』
私は考えた一文を言葉にする。
それを彼は一言一句違えずに、パソコンに打ち込んでくれた。
【私たちはきっと、おなじなんだ。最初からふたりでひとつだったみたいに似すぎている。】
鏡像のように、自分自身と対面しているような感覚に近い。
似ているからこそ苛立ったり、ほっとけなくて必死に守りたいと思った。
こんなふうに、私たちは綴られる言葉の中で会話していた。
あぁ、あのときはこんなふうに考えてくれていたんだと、宙くんの心を身近に感じる。
離れていることのほうが不自然なように、内側から溶け合うようなそんな一体感。失うことは考えられない。
もし死後の世界――極楽浄土が実在したとして、そこで次の人生を歩むのだとしても。
彼と離れ離れになってしまったら、私の心はきっと半分死んでしまうのだろう。
そしてこの日、家に帰っていつものようにベットで眠りついたのだが……。
私は五日間眠ってしまい、気づけば五月。ゴールデンウイークに入っていた。
『ん……うぅ』
目を覚ますと、そばで「楓か!」という宙くんの慌てた声が聞こえる。
強い眠気にまたもや意識が飛びそうになったが、必死に気を強く持った。
やがて頭が少しはっきりしてきたところで、世界が燃えるような赤に染まっていることに気づく。
いつの夕暮れだろうか。
目が覚めるたびに進んでいる時間、日にちの数だけ不安になる。もう二度と、君に会えないのではないかと怖くなる。
小説も終盤に差しかかり、ラストを残して完成が見えてきたところだ。
書き終えるまでは、まだ消えられない。
たぶん、その気力だけで私は宙くんの中にいるのかもしれない。
でもこの小説を書き終えたら、私はきっと消えてしまう。そんな予感がしていた。
「楓、心配させるなよ!」
『ごめん……私、今度はどれくらい眠ってた?』
「三日だ」
ということは、ゴールデンウイークの最終日まで私は眠ってしまっていたらしい。
明日から宙くんも学校なので、まとまった執筆時間がとれるのは今日までだ。
なんとしても、書き上げなければならない。
「……っ、本気で、もう会えないかと思ったぞ……」
『あっ……ごめんね、心配かけて。また、宙くんに会えて本当によかった』
幸福と絶望が同時に胸にわきあがる。
目覚められて嬉しいのに、どんどん眠る時間が伸びていることに気が沈んだ。
今すぐにでも、声を張り上げて泣きわめいてしまいたい。
彼のそばにいたくても叶わない、足掻いてもどうにもならない現状に心が押し潰されそうだ。
朝起きて目が覚めるたび、この人は何度こんな不安と戦っているんだろう。
もう、自惚れなんて思わない。
どんな形かは分からないけれど、宙くんにとっても私の存在は大事なのだ。
だから、私の都合で勝手に関わって、勝手にいなくなることが申し訳なかった。
『書き終えるまでは……宙くんのそばにいられる気がするんだ。だから、まだ大丈夫』
「……楓には悪いと思うけど……。俺、完結するのが少しだけ怖い」
『私もだよ……。完結させたいのに、これが終わったらって考えると怖くなる』
いつも意識が落ちるとき、まるで微睡みの中にいるかのような心地よい眠気に襲われた。
心地よいはずなのに、いつも胸の奥に感じるのは不安。
だから次がありますように、宙くんとの繋がりが消えませんように、何度も何度もそう強く願っていた。
「楓、小説では俺たちずっと一緒にいられる未来がいいな」
『ずっと一緒に……うん、そうだね』
宙くんがパソコンを開いて、電源をボタンを押す。
私たちはこれが最後だと分かっているかのように、強すぎるブルーライトの光を感慨深い気持ちでじっと見つめていた。
“小説では”という彼の言葉は、現実では絶対にそうならないから出たものだった。
ずっと一緒にいられる未来、私たちが綴るのは夢物語だ。
『奇跡が起きて、私たちはずっと一緒に……』
彼に書いてほしい言葉を伝えながら、考える。
物語は星に願ったら奇跡が起きて、幽霊だった私に身体が与えられるという流れになった。
そして、宙くんとずっと一緒にいられるという幸せな結末を迎える。
だけど、どうしてだろう。
胸に残るのは違和感だ。
こんな終わり方で、本当にいいのだろうか。
なにかが、引っかかっている。
私たちの出会いを、これからの未来を、奇跡というひと言でまとめてしまってもいいのだろうか。
委ねるものではなくて、私たちが共に選びとったものが、今なのではないのだろうか。
それはきっと、悲しい結末かもしれない。
でも、私たちが精一杯生きた証だ。
『宙くん……』
「なんとなく、楓が言いたいことが分かる。このラストは嘘ばっかだ」
『だよね……。ねぇ、私はたとえ自分が消えるんだとしても、宙くんと出会えたから幽霊になったことは後悔してないよ』
ううん、君と出会えたからこそ、死んだことに絶望しないで済んだ。
君と過ごした時間は、私に喪失感以上の感情、誰かをこんなにも愛する幸せをくれたのだ。
「そうだな……。いつか別れる日が来ても、俺は楓の未来が希望であふれていると信じたい。でないと、ちゃんと見送ってやれないから」
彼の言う私の未来が極楽浄土に行ったあとのことなのか、来世のことなのかは分からない。
けれど、彼が私の未来を信じてくれるというのなら、私も信じたい。
彼の言葉こそ答えだ。
現実から目をそらして偽りの幸せを夢見ていては、過去から進めなくなる。
それでは読み手の心に、なにも残らないだろう。
私たちが綴るべきは痛みや苦しみを乗り越えた先にある、まだ見ぬ未来だ。
それはきっと希望に満ちていると、そう信じる心こそ描くべきなのだ。
『私も、私がいなくなったあと、宙くんの人生が幸せであってほしいって思う』
「ならこの物語は、読んだ人が苦しい現実の中でも希望を持てるような話にしよう」
彼の言葉に同意するように『はじめよう』と声をかける。
私たちの、おそらく最後になるだろう共同作業だ。
ねぇ宙くん、私にとっての希望はね。
宙くんが私の叶えられなかったものを叶え、強く生きていってくれることなんだ。
だから私は、離れ離れになっても宙くんが前を見て歩んでいけるように、この物語に願いを託すよ。
それから、どれくらいの時間を執筆に費やしたのだろう。
彼と物語を書き終えた瞬間、私の意識はプツリと途切れてしまった。
『楓』
引きずり込まれるような、そんな闇から聞こえる悲しげな声。
それは最近見るようになった夢でも聞いた声だ。
私は誰なのかが知りたくて、その闇を振り返る。
『ごめんね、楓……っ』
泣いている、そんな気がした。
泣かないでと心の中で声をかけると、一気に気が遠くなる。
そこで一瞬だけ、『楓、目を覚まして』と叫ぶお母さんと『頼む、戻ってきてくれ』という弱々しい声を上げたお父さんの姿が見えた気がした。
もしかして、何度も私を読んでくれていたのはふたりだったのだろうか。
なら早く帰らなければ。
そう思って、その闇へ足を踏み出した。そのとき──。
『楓、楓……!』
うしろで誰かが私を呼ぶ。
目の前の闇とは反対に、背中から差し込む光。
そこから、聞き覚えのある声が聞こえた。
私はこの声を知っている。
いつもなら静かな深海のように凪いでいるあの人の声が、今は荒れ狂う荒波のように必死に私の名前を呼んでいる。
私はこのまま、お父さんとお母さんのもとへ行ってもいいのだろうかと、光と闇を交互に振り返る。
『楓……もう、会えないのか?』
宙くん……。
やっぱり私、君になにも言わないままいなくなったら後悔する。
だから会いたい。もう一度だけ、宙くんに会いたい!
そう強く願った瞬間、すべてを覆いつくすような光が私を包み込んだ。
この光が晴れた先に君がいることを祈りながら、私は強く目を瞑った。
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