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六章 旅立ちのエンドロール
私はふと目を覚ました。
その瞬間に、今は何時?
なん日? 何ヶ月経った?
というたくさんの不安と疑問で頭の中を埋め尽くされる。
私はまだ宙くんの中にいるのか、その答えを求めて思考がもがいていた。
『宙くん……!』
たまらず声を出すと、ぼんやりする頭が少しだけハッキリとしてくる。
次第に視界がクリアになっていき、目の前に満天の星空が広がっていることに気づいた。
「よかった………楓、まだそこにいるな?」
聞こえたのは安堵を含んだ声。
それが大切な人のものだと分かってほっと息をつくと、星の瞬きのように小刻みに嗚咽が襲ってきた。
それを抑え込みながら、私は涙交じりに声をかける。
『もうっ……もう会えないかと……思った……っ』
「俺もだ……。小説を書き終えたと同時に、お前が喋らなくなったから……」
『なら、まだ同じ日なんだね』
最後に見たのは夕暮れだったので、眠っていたのは数時間ほどだろう。
でもきっと、次はない。
確証はないけれど、そう思う核心がなんとなくあった。
「……最後、なのか?」
なにかを感じとったのか、宙くんが星空を見上げたままそう言った。
問うというよりは、確認するというようなニュアンスで聞こえた。
私はふと目を覚ました。
その瞬間に、今は何時?
なん日? 何ヶ月経った?
というたくさんの不安と疑問で頭の中を埋め尽くされる。
私はまだ宙くんの中にいるのか、その答えを求めて思考がもがいていた。
『宙くん……!』
たまらず声を出すと、ぼんやりする頭が少しだけハッキリとしてくる。
次第に視界がクリアになっていき、目の前に満天の星空が広がっていることに気づいた。
「よかった………楓、まだそこにいるな?」
聞こえたのは安堵を含んだ声。
それが大切な人のものだと分かってほっと息をつくと、星の瞬きのように小刻みに嗚咽が襲ってきた。
それを抑え込みながら、私は涙交じりに声をかける。
『もうっ……もう会えないかと……思った……っ』
「俺もだ……。小説を書き終えたと同時に、お前が喋らなくなったから……」
『なら、まだ同じ日なんだね』
最後に見たのは夕暮れだったので、眠っていたのは数時間ほどだろう。
でもきっと、次はない。
確証はないけれど、そう思う核心がなんとなくあった。
「……最後、なのか?」
なにかを感じとったのか、宙くんが星空を見上げたままそう言った。
問うというよりは、確認するというようなニュアンスで聞こえた。
私はふと目を覚ました。
その瞬間に、今は何時?
なん日? 何ヶ月経った?
というたくさんの不安と疑問で頭の中を埋め尽くされる。
私はまだ宙くんの中にいるのか、その答えを求めて思考がもがいていた。
『宙くん……!』
たまらず声を出すと、ぼんやりする頭が少しだけハッキリとしてくる。
次第に視界がクリアになっていき、目の前に満天の星空が広がっていることに気づいた。
「よかった………楓、まだそこにいるな?」
聞こえたのは安堵を含んだ声。
それが大切な人のものだと分かってほっと息をつくと、星の瞬きのように小刻みに嗚咽が襲ってきた。
それを抑え込みながら、私は涙交じりに声をかける。
『もうっ……もう会えないかと……思った……っ』
「俺もだ……。小説を書き終えたと同時に、お前が喋らなくなったから……」
『なら、まだ同じ日なんだね』
最後に見たのは夕暮れだったので、眠っていたのは数時間ほどだろう。
でもきっと、次はない。
確証はないけれど、そう思う核心がなんとなくあった。
「……最後、なのか?」
なにかを感じとったのか、宙くんが星空を見上げたままそう言った。
問うというよりは、確認するというようなニュアンスで聞こえた。
私はふと目を覚ました。
その瞬間に、今は何時?
なん日? 何ヶ月経った?
というたくさんの不安と疑問で頭の中を埋め尽くされる。
私はまだ宙くんの中にいるのか、その答えを求めて思考がもがいていた。
『宙くん……!』
たまらず声を出すと、ぼんやりする頭が少しだけハッキリとしてくる。
次第に視界がクリアになっていき、目の前に満天の星空が広がっていることに気づいた。
「よかった………楓、まだそこにいるな?」
聞こえたのは安堵を含んだ声。
それが大切な人のものだと分かってほっと息をつくと、星の瞬きのように小刻みに嗚咽が襲ってきた。
それを抑え込みながら、私は涙交じりに声をかける。
『もうっ……もう会えないかと……思った……っ』
「俺もだ……。小説を書き終えたと同時に、お前が喋らなくなったから……」
『なら、まだ同じ日なんだね』
最後に見たのは夕暮れだったので、眠っていたのは数時間ほどだろう。
でもきっと、次はない。
確証はないけれど、そう思う核心がなんとなくあった。
「……最後、なのか?」
なにかを感じとったのか、宙くんが星空を見上げたままそう言った。
問うというよりは、確認するというようなニュアンスで聞こえた。
「なんで、髪に触れとか言ったんだ?」
『宙くんの髪とか、どんなだったか忘れないようにだよ』
「っ……楓だけずるいだろ。俺もお前に触れたかった」
『私に触れる身体があれば、よかったんだけどね。でも、私たちは心で触れ合ってる』
「楓……そうだな」
極めて優しく、真綿のように柔らかい声だった。
彼は藍色の天を仰いで、あの星をじっと見つめている。
今日見たニュースではゴールデンウイーク最終日の今日、五月七日は月と木星が接近し、スピカとの共演が楽しめるのだとか。
「楓、スピカの星の話、覚えてるか?」
『それって乙女座を作る星の中で、最も明るい星って話?』
それとも北斗七星とアークトゥルスまでの長さを同じ分だけ伸ばした場所、宙くんに教えてもらったスピカの見つけ方のことだろうか。
「あぁ、そうだ。記憶力はあるみたいだな」
『ちょっと宙くん、私のこと三歩歩いたら忘れるニワトリだと思ってるでしょ』
「挽回したいなら、これからする話も忘れるなよ」
こんなときまで、私の扱いのひどさは変わらない。
でも、このやりとりが楽しい。
君の毒舌がないと、物足りなく感じてしまうくらいには彼に依存している。
だから私は口では文句を言いながらも、笑ってしまうのだ。
「スピカは豊穣の女神デメテルが、左手に持つ麦の穂とも言われている」
『神話も好きなの?』
「まぁ、星のことだからな」
『星、本当に好きだよね。で、続きは?』
『ある日デメテルの娘が花を摘んでいると、冥界の王ハデスが自分の妻にしようと冥界の宮殿に攫うんだ」
宙くんが話すからだろうか。
その神話に引き込まれて、私は興味津々に耳を傾ける。
星のひとつひとつに物語があるなんて、ワクワクしないわけがない。
デメテルの娘は、その冥界の王様と恋に落ちるのだろうか。
すでに頭の中は、その先の物語を綴りたくてしかたなくなる。
「最愛の娘を失って母親デメテルは心を閉ざし、世界中の草花は枯れ、木々は実をつけなくなった」
想像していたハッピーエンドとはかけ離れた内容に、物語の雲行きが怪しくなる。
デメテルの心が救われなかったらどうしようかとハラハラしながら、彼の言葉を待った。
「だから大神ゼウスは、ハデスに娘を返すよう言うんだ」
『じゃあ、デメテルは娘を返してもらえたの?』
ほっとしたのもつかの間、彼は「いや」と首を横に振る。
「これが、またひと悶着あった。デメテルの娘は冥界の柘榴を食べてたんだよ」
『それがなにか問題なの?』
「大問題だ。冥界の食べ物を口にした者は、二度と地上の存在になることはできないっていう掟がある」
ということはデメテルの娘は勝手に攫われたのに、柘榴を食べてしまったがためにお母さんのところに戻れないということだろうか。
理不尽な話にもほどがある。
「でもゼウスの計らいで娘は一年のうち柘榴を食べてしまった数だけの月、つまり四ヶ月間を冥界で過ごすことと引換えに娘を返してもらえることになった」
『ふうん、条件つきってわけね』
「そうだ。で、女神は娘が帰ってくる間だけ心を開き、地上にも暖かさと実りが戻った。それが春が出来た起源と言われている」
そう教えてくれた宙くんだけれど、どうしてこの話を私にしたのだろう。
疑問に思っていると、彼は憂いを含んだため息をついて呟く。
「俺の心も……同じだ」
『宙くんの心?』
それって、どういう意味?
そんな意味を込めて聞き返すと、宙くんが苦笑いを浮かべて空に手を伸ばした。
翳した手には、スピカが重なる。
まるで愛でるように優しく、なぞっていた。
「楓がいなくなったら、まるで冬みたいに心が凍える。楓がいるから、俺の心には春の優しい風が吹くんだ」
『なに、それ……』
やめて欲しい。
この想いは伝えてはいけないものなのに、口が滑ってしまいそうなほど、あふれて止められない。
「最愛の娘を失って母親デメテルは心を閉ざし、世界中の草花は枯れ、木々は実をつけなくなった」
想像していたハッピーエンドとはかけ離れた内容に、物語の雲行きが怪しくなる。
デメテルの心が救われなかったらどうしようかとハラハラしながら、彼の言葉を待った。
「だから大神ゼウスは、ハデスに娘を返すよう言うんだ」
『じゃあ、デメテルは娘を返してもらえたの?』
ほっとしたのもつかの間、彼は「いや」と首を横に振る。
「これが、またひと悶着あった。デメテルの娘は冥界の柘榴を食べてたんだよ」
『それがなにか問題なの?』
「大問題だ。冥界の食べ物を口にした者は、二度と地上の存在になることはできないっていう掟がある」
ということはデメテルの娘は勝手に攫われたのに、柘榴を食べてしまったがためにお母さんのところに戻れないということだろうか。
理不尽な話にもほどがある。
「でもゼウスの計らいで娘は一年のうち柘榴を食べてしまった数だけの月、つまり四ヶ月間を冥界で過ごすことと引換えに娘を返してもらえることになった」
『ふうん、条件つきってわけね』
「そうだ。で、女神は娘が帰ってくる間だけ心を開き、地上にも暖かさと実りが戻った。それが春が出来た起源と言われている」
そう教えてくれた宙くんだけれど、どうしてこの話を私にしたのだろう。
疑問に思っていると、彼は憂いを含んだため息をついて呟く。
「俺の心も……同じだ」
『宙くんの心?』
それって、どういう意味?
そんな意味を込めて聞き返すと、宙くんが苦笑いを浮かべて空に手を伸ばした。
翳した手には、スピカが重なる。
まるで愛でるように優しく、なぞっていた。
「楓がいなくなったら、まるで冬みたいに心が凍える。楓がいるから、俺の心には春の優しい風が吹くんだ」
『なに、それ……』
やめて欲しい。
この想いは伝えてはいけないものなのに、口が滑ってしまいそうなほど、あふれて止められない。
『それは……私も同じだよ。宙くんがいるかいないかで、私の心は春にも冬にもなるの。不思議だよね、どうしてこんなに……』
心が四季のように、くるくると変わるのだろう。
それは喜びだけでなく苦しみも連れてくるのに、どうして心地いいだなんて思ってしまうのだろうか。
「それは……俺には心当りがあるけど、お前にはないのか?」
まるで、心の内を探るような言い方。
それって、私が君に抱いている感情と同じものを君も持っていると思っていいのだろうか。
だとしても、君を置いていく私がすべてを語ることはできない。してはいけないと思うから……。
『私にも心当たりがあるよ。たぶん、君が気づくずっと前から』
「そうか……その言葉が聞けただけで十分だ」
『あのね、宙くん。今は離れ離れになっても、私たちはこの先の未来で繋がってる』
遠回しの告白と、願いを込めてそう言った。彼の心か、それとも私の心なのか。
ひどく揺さぶられている。時間が止まったみたいに、世界が透明度を増して見える。
「あぁ、そうだな。楓、もう一度お前に会えたら伝えたいことがある」
『宙くん……』
今すぐにその言葉を聞いてしまいたいけど、それを聞いたらいけない。これは希望を込めた、私たちを繋ぐ約束だから。
「だから絶対に、俺たちはまた出会える」
それが何十年先、何百年先でも、はたまたひとつの人生を終えて生まれ変わった先でも。
きっとどこかで、未来で、君に会えると信じている。
『私たち、必ず出会うよ。ううん、会いに行く。宙くんの言葉を聞きに、必ず』
「なら俺は……何度もスピカを見上げる。
それで、立ち止まらずに歩き続けるよ。その先に楓がいるって信じて」
もう二度と見上げることのないこの星空を目に焼きつけようとして、視界が歪んだ。
まだ一緒にいたい。
なのに旅立たなきゃいけないことが辛くて、涙が止められない。
──あぁ、これじゃあ星が見えないや。
だけど、君の中で見る景色が曇ったままなのはもったいない。
そんな私の気持ちが通じてか、彼は目元を拭う。
すると彼の瞳を通して、音もなく瞬いている星々が鮮明に見えた。
『本当に私……宙くんに出会えてよかった』
この切なささえ、君に出会うためだと思えば愛おしく思える。
じっとスピカを見つめていたら、いよいよ意識がぼんやりしてきた。
──あぁ、最後の逢瀬が終わるんだ。
「楓といられて、俺も幸せだった」
宙くんの声が震えていた。
それに気づいていたけれど、気づかないフリをする。
しんみりとした旅立ちは、嫌だったから。
この人が幸せだと言ってくれただけで、私は救われた。
もう迷いも恐れもない。
今はただ、君との再会を夢見ている。
『またね、宙くん!』
彼を悲しませないように、明るい声で言った。
そこでふと、【だから、また会えるその日までしばしの別れを。】という小説の一文を思い出す。
そうだ、これは終わりじゃない。
ふたりの未来への一歩だから、君が好ましいと言ってくれた明るい私でいよう。
だから宙くん、この約束を忘れないで。私も忘れないから。
「またな、楓っ」
それはやっぱり頼りなく震えていたけれど、未来を信じている希望に満ちた声だった。
私はもう大丈夫だと、ふっと笑う。
すでに私たちの身体の感覚は別たれていたけれど、閉ざされていく感覚の中で宙くんも笑い返してくれているのが分かった。
意識を手放す間際、ふたりで綴った物語のラストを思い出す。
【さよなら。】
【大事な私の、俺の──半身。】
もう私たちは、未来を見つめている。
だからさよなら、さよなら宙くん。
そして、また会おうね。
私の、大好きな人。
『楓、お願い。起きて、楓……っ』
遠くから、まるで泣いているかのような声が聞こえる。
これは夢の中で、幾度となく聞いた両親の声だ。私は夢を見ているのだろうか。
夢か現か分からない真っ暗な世界で、声に導かれるように私の意識はどこかへと引っ張られていく。
『楓』
だけど今度はうしろから、愛しい君の声に呼ばれた。
それにうしろ髪を引かれ、振り返りたいのに振り返ってはいけないと思う。私は旅立たなければいけないのだと、そう思うのだ。
──さよなら、またね。
心の中で、そう声をかける。
これは終わりではなく、始まりだから。
自分の気持ちをしっかり持ったからなのか、不思議なことに声は聞こえなくなった。
まるで川の流れに身を任せるかのように、私は両親の声を頼りに歩き出す。
やがてトンネルの出口を見つけたときのように、遠くに眩い光の円が見えた。
そこへ向かって走っていくと、私の視界は一気に白に染まったのだった。
「ん……」
鼻を突くような消毒液の匂いに、耳に届く誰かの嗚咽。
重くて冷たい身体に一気に血が巡り、体温が戻ってくるような感覚があった。
ピクリと、人差し指が動いた。
全身の感覚が戻ってきたところで、重い瞼を持ち上げてみる。
真っ先に見えたのは白い天井に白い壁、白いシーツ。そして、私の顔をのぞき込む懐かしい面々。
目が合うと、そこにいたふたりは目玉が落っこちそうなほど目を見開いた。
「楓……楓、なの……?」
泣き腫らした目、ボサボサの髪。
見ない間に、随分老けたように思える。
それだけ心配をかけてしまったんだな、と私は苦笑いを浮かべた。
「ひどい顔、お母さん……」
長く言葉を発していなかったみたいに、声が擦れた。
「楓、目が覚めたのか! 心配したんだぞ!」
そして、そんなひどい顔がもうひとつ。
「お父さん……おはよう……」
お父さんとお母さんが、目に涙をためながら私を抱きしめた。
あぁ、温かい。
身体があるってやっぱりいいな──って、あれ?
どうして、そんなことを思うのだろう。
まるで、今まで身体がなかったみたいな感想じゃないか。
「あなた、家を飛び出してすぐに交通事故にあったのよ!」
お母さんの言う家を飛び出した日って、私が物書きになりたいって言ったあの日のことだろうか。
それは思い出せる。
あの耳をつんざくようなスリップ音に強い衝撃、身体が宙へ浮く浮遊感と地面にぶつかった一瞬は、今も鮮明に記憶に残っていた。
「あれから一ヶ月、眠ったままだったんだぞ」
「私、そんなに眠ってたんだ……」
どこかぼんやりとお父さんの話を聞いていると、『スピカの話を覚えてるか?』という聞き覚えのない声と一緒に、視界いっぱいに広がる星空が見えた気がした。
「えっ?」
なに今の、白夜夢だろうか。
見えた幻も煙のように、すぐに消えてしまう。
私はなにかが足りないような、空虚感に苛まれていた。
すると、急に声を上げた私の顔をお母さんが心配そうにのぞき込む。
「どうしたの、楓。まだどこか痛むの?」
「事故にあったんだ、まだ本調子じゃないんだろ」
お父さんの言う通りかもしれない、これも事故の後遺症なのかも。
そう思って、深くは考えなかった。
それから、お母さんが事故のあとのことを教えてくれた。
私の怪我は奇跡的にも軽傷だったらしい。
だけど、なぜか一ヶ月も意識不明で病院の先生もお手上げだったとか。
それにしても、他に大切なことを忘れているような気がしてならない。
「お父さん、看護師さんを呼んできて」
「あぁ、そうだな!」
慌てて病室を飛び出すお父さんを見送って、私は窓から見える青空を見上げた。
なんだろう、思い出さなきゃいけないことがある気がする。
なのに最初からそんなものは、なかったかのように思い出せない。
でも、胸には大事なものを抜き取られたかのような寂しさがある。
するとまた、なにかが瞼の裏に蘇る。
夜空に瞬く星に負けないくらいの桜が舞う中、黒髪を靡かせている彼はメガネの奥に見える黒曜石の瞳をこちらに向けている。
私を泣きそうな顔で見つめて「待ってる」と口を動かす。
静かに佇んでいる彼を見て、私は行かなければと強く思った。
「でも、どこへ……?」
分からない。なのに、どうしても行かなければいけない場所がある気がした。
ううん、場所じゃなくて人だ。
私、誰かに会いに行かなきゃいけないんじゃなかった?
なのに、その人のことを思い出せない。
心にぽっかりと空いた穴を木枯らしが吹き抜けるみたいに切なくて、ぽろっと涙がこぼれた。
「楓、どうしたの?」
お母さんは急に泣き出した私を、慌てて抱きしめる。
でも理由を知りたいのは、私のほうだった。
悲しいという感情が、堰を切って涙となってあふれ出す。
「わ、分かんない……っ」
分からないけど、切ない。会いたい、会いたい、会いたいっ。
そんな思いばかりが底なしにこみ上げてきて、私はひたすらに泣き続けた。
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