七章 再会のエピローグ

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七章 再会のエピローグ

 なにか、大切なことを忘れてしまっている気がした。 いつも目が覚めるたびに、なにか足りないような、そんな空虚な感覚が私を襲う。  ゆっくりと身体を起こすと、低い寝所に違和感を感じた。 十七年間、この布団で寝起きしていたはずなのに、変なの。 私は首を傾げながら立ち上がる。 「うん、低いな」  立ち上がると、視界が低いなと思った。 私は中学三年生で成長が止まってしまったらしく、それから今に至るまで身長は百五十センチジャストだった。 二年間もこの背丈と付き合っているというのに、いまさら低いと思うなんて変な話だ。  鏡の前に立って、長い紅茶色の髪を梳く。 でも、脳裏にチラつくのは濡れ羽色の髪。 私が黒髪だったのは中学までなのに、どうして黒髪じゃないとおかしいなんて考えるのだろう。 実はこう思うのは今日が初めてじゃない、最近の私はちょっとおかしいのだ。 「楓、おかわりは?」 「ううん、大丈夫」  病院で目が覚めてから一週間で、私は退院した。 怪我自体は擦り傷と全身打撲、右足関節のひびくらいで眠っている間にほとんど治っており、意識を取り戻すのを待っている状態だった。 あとは脳への障害が心配されたが、CT検査でも異常はなかったし、私はツイていると思う。 「楓、進路のことなんだが……」  家族で囲む食卓で、お父さんが静かに口を開く。それに合わせて、お母さんも箸を置いた。 私は目の前に座るふたりにじっと見られて、固唾を飲む。 「お母さんと話して、楓のことをちゃんと応援してやるべきだったって反省したんだ」 「あなたの夢を無理だなんて決めつけたりして、ごめんなさいね」  申し訳なさそうに頭を下げるお父さんとお母さんに、私はすぐさま首を横に振った。  だって違う、違うのだ。 私はあのとき、駄々を捏ねる子供みたいに分かってもらえないからって苛立って逃げ出した。 両親にさえ向き合えないのに、夢を追い続けられるわけがない。 きっとそんな覚悟の弱さが、甘えが、私にあったことをお母さんは見透かしていたのだ。 だから、首を縦に振らなかったのだと思う。 でも、今はそれじゃいけないって分かってる。 「私、物書きになりたい気持ちは変わらない。だけど具体的にどうするのか、考えてなかったと思う」  無計画で生半可な気持ちで、自分の気持ちを押し通そうなんて甘いんだってこと。 あの人は夢を否定されても、これからどうしていくのか、ちゃんと前を見据えていた。 両親から、夢から逃げたりしなかった。 不透明な未来を信じる強さ、不確かな道を進む覚悟、それらが私に足りないものだった。 「物書きになるためにシナリオ学科のある専門学校か、国語国文学科のある大学に行きたい。軌道にのるまではバイトをして、自分で学費も払う。頑張るから、だから──」  反対されても、自分の力で夢を叶える。 認めてもらえるまで諦めない。 そんな決意をして、私は大きく息を吸う。 「私に夢を追わせて欲しいの!」  大きな声ではっきりと伝えると、お父さんとお母さんは顔を見合わせて笑みを浮かべる。 それから私の目をじっと見つめて「「頑張りなさい、楓」」と、声をそろえて応援してくれた。 「っ……うん、うんっ!」  感動の波が押し寄せてきて、胸が詰まる。 今すぐ泣いてしまいそうだったが、すぐに顔を引き締めて「ありがとう」と笑った。  少しでもあの人みたいに強くなりたい。 「あの人、みたいに……?」  さっきから思っていたけれど、あの人とは誰のことだろうか。 私は無意識のうちにあの人だったらこう言うだろう、こうするだろうと、誰かのことを考えている。  私の心に住み着いているのは、誰?   その正体は分からないけれど、思い出さなきゃいけない。そんな気持ちが、焦りが、ずっと心にあって消えなかった。 ***  ──五年後。  二十三歳になった私は高校時代の親友、彩と由美子と一緒に渋谷駅前のカフェでお茶する約束をしていた。 高校生の頃は渋谷や新宿の敷居が高いだなんて言っていたけれど、こうして大人になると、どこにでもある系列店ではなく、名前も知らないような穴場でオシャレなお店を選ぶことが多くなった。  待ち合わせまで一時間ほどあるので、私は自分の本を書店で探していた。そしてそれは、難なく見つけることができた。 本屋の入り口にある新書コーナーに、ありがたいことに平置きされていたからだ。 「本当にあった……」  ここまでたくさんの編集作業をしてきたというのに見本誌が手元に到着しても、自分の作品が世に出るという実感が持てずにいた。 今やっと、書店に並んでいるのを見て実感できたくらいだ。   私はゴクリと喉を鳴らして、恐る恐る本を手に取る。その本を見つめながら、なんだかこれまでいろいろあったなと感慨深い気持ちになった。  高校を卒業してから、あっという間に数年が経った。私は国語国文学科がある大学に四年通い、その一年後。四月二五日の今日、晴れて物書きとなった。  昔に下書きしていた作品を専門学校を卒業したあとに整えてコンペに出したところ、大賞は逃したものの恋愛部門賞を受賞することができた。 その作品が本日出版されたのである。 私は五年かけてようやく、小説家になる夢を叶えることができたのだ。  そのデビュー作というのが高校三年生のとき、事故にあって病院を退院したすぐあとに書いた【夜空に君という名のスピカを探して。】だった。  今思えば、事故にあってからの私は本当に変だった。 学校では授業中も昼休みも、常に衝動的に小説を書いていた。 もちろんパソコンは持ち込めないのでノートに手書きでメモをすると、家に帰ってからパソコンのワードに打ち込むの繰り返し。  “なに”かに追いつきたくて、私は焦っていた。でも、“なに”になのかは分からなかった。 ただ立ち止まってはいけないと、そんな思いに突き動かされていた。  物語は幽霊になった女の子が、男の子に取り憑く話。 なにがきっかけでこんなアイデアを思いついたのかは謎だけれど、なぜかこの小説を書きたいと思った。 書き始めてみると、まるで自分が体験したみたいに細かい設定まで噴水の如く頭に浮かんできて、なによりスピカの星の見つけ方や神話まで自分が知っていることには驚いた。 「これ……」  本を見つめて思い出の旅に出ていた私の隣から、ふいに声が聞こえた。 目の前に腕が伸びてきて、信じられないことに私の著書を手に取る。  自分の本に興味を持ってくれたのだろうか。 こそばゆい気持ちになって自分の手の中にある本のあらすじを見ているふりをしながら、神経を隣に張り巡らせる。 どうやら彼は、中身を試し読みしているようだ。 ペラペラとページをめくっている音が聞こえる。 自分の書いた本を読まれるって、裸を見られるより恥ずかしい。 「って、あれ……?」  こんなふうに、前にも思ったことがあるような気がする。 いつだっただろう、似たような言葉を誰かにかけたような気がする。 「なんて、気のせいか」  小声で呟いて、苦笑いする。 こういったことが、あの事故から五年たった今も続いていた。 前にも経験したことがあるような、見たことがあるような、デジャヴというやつだ。 「叶えたのか……なんて、まさかな」  隣の彼が謎の言葉を発したので、私は思わず「え?」と小さく声を上げて振り返る。 その人は紺のタートルネックに、黒のスキニーパンツを履いていた。 でも残念なことに、彼は私の本を手にレジに向かってしまった。 本を買ってくれた彼がどんな人なのか、せめて顔くらいは見てみたかったのだけれど、追いかけるのは怪しいだろう。 私は肩をすくめて本を棚に戻すと、鞄からスマートフォンを取り出して時間を確認した。 「うわ、ギリギリになっちゃった」  本屋にいると一時間なんて一分みたいなものだ。 時間も忘れてしまうくらい目移りしてしまうから困る。 今回に限っては、自分の本が出版された感動に浸っていたせいなのだけれど。 ともかく、待ち合わせのカフェまでは少し歩くのでもう出なければ。  なにも買わないのは気が引けたが、私は慌てて踵を返すと駆け足で本屋をあとにした。  待ち合わせ時間ぴったりにカフェに到着すると、すでに彩と由美子がいた。 ふたりと会うのは三ヵ月ぶりになる。 彩は高校生のときにユーチューバーになるなんて言っていたけれど、今はウエディングプランナーという華やかな職についている。  対する由美子は看護師になった。責任感ある彼女にぴったりな仕事だと思う。 しかも今日は、夜勤明けで会いに来てくれたのだ。  こうして皆の生活スタイルはバラバラになったけれど、数ヵ月に一回は会っているし、連絡も頻繁にとっている。 ふたりとは高校時代から考えると、長い付き合いだ。 「それでは楓の出版を祝して、カンパーイ」  彩がへらっと笑って、カフェラテを手に乾杯の音頭をとる。すると不思議なことに、彼女のカフェラテがお酒に見えてきた。 「彩って頭のネジが何本か足りないところは、五年経っても変わらないよね」 「えーっ、ひどい! 由美子こそ、脳内が化石みたいに固いところは変わってないよ」  ここは居酒屋かと思うくらい、ふたりの幼稚な言い争いはオシャレなカフェには似合わなかった。 でも私は高校生のときのように、ふたりと一緒ならくだらないことでもバカ笑いができるこの空気が好きだ。 「もう、会ってそうそう貶し合いはやめようよ」  そういう私も、この状況を楽しんでいるので説得力はない。 三人でクスクス笑っていると、テーブルに小さな花火がついたケーキがやってくる。 店員さんは「お待たせしました」と当然のようにケーキをテーブルのど真ん中に置くと、取り分け用のお皿まで並べて下がっていった。 「彩、由美子、今日って誰かの誕生日だっけ」  私がギョッとしながらふたりの顔を見ると、イタズラが成功したみたいにニヤニヤしていた。 ますます意味が分からなくて、ぽかんと口を開けてしまう。 「楓、ケーキをよく見てみなよ」  由美子に促されて、私はケーキを改めて見つめる。するとそこには、チョコレートで【小説家デビューおめでとう】と書かれていた。 「これ……私のために?」  胸がじーんと熱くなって、思わず涙が出そうになる。  聞くまでもない・今日は私のために、集まってくれたのだ。そしてケーキまで用意して、お祝いしてくれた。 夢に悩んでいたとき、背中を押してくれたふたり。 物書きになるという夢を叶えることで、恩返しできたことが本当に嬉しかった。 「私たちはこんな感じで変わらないけどさ、楓はすごく変わったよね」  花火を吹き消すと、彩がテーブルに頬杖をつきながらそう言う。 その隣で由美子は、着々とケーキを取り分けていた。 「私が変わったって、どんなふうに?」  そう言われても自分では分からない。 私は由美子が取り分けてくれたケーキを食べながら、首を捻る。  彩はカフェラテに口をつけてから「たとえばー」と、考えるように視線を上げる。 「なにに対しても、強気になった」 「え、強気……? そうかなぁ」  私は結構、物怖じするタイプだ。 小説をコンペに出すのも、正直怖くてしかたなかった。 これで落ちたら才能がないのではないか、一生続けていけるのだろうか。 そんな不安ばかりが胸に渦巻いて、身動きがとれないことも多々ある。 でも、そのたびに私は自分を叱咤した。 どこからそんな強さがわいてくるのかは分からないけれど、立ち止まってはいけない。 私と同じように夢に向かっている人がいるのだからと、誰かに追いつきたいという思いが私を突き動かしていた。 「高校生のとき、進路希望調査票を配られたでしょ? あのときの楓は自信なさげで、本当に大丈夫かなって心配だったんだけど、すぐに変わったよね」  彩の言う進路希望調査票をもらったときの私は口ばっかりで、物書きになりたいと文字にするのさえ勇気が必要だった。 自分で自分の夢を信じられないから、誰かに出来ると言ってほしい、励ましてほしい。 安心させてほしくて、親友や両親に相談していた。 「でも事故にあったあとからじゃない? 楓は夢に貪欲になった」  紙ナプキンで口元を拭いながら、そう言った由美子に「え、貪欲?」と私は困惑する。 それは褒められているのか、貶されているのか、どっちだろう。 「もちろんいい意味よ。悩む前に行動するというか、積極的になったと思う」  私の心を読んだエスパー由美子が補足してくる。高校生のときから頭がキレて勘も鋭かったけれど、改めて恐るべし観察眼だと思う。 「そう言ってもらえるのは嬉んだけど、私もきっかけが分からないんだよね。あれかな、死にそうになったことで生まれ変われたてきな」  とは言ったけれど、たぶん違う。 私は事故にあって、なにか大切な記憶を失っている。 それが事故に会う前のことなのか、あとのことなのかは分からない。 でもその記憶こそ、私を変えた出来事なのだと思う。 「ねーねー、話は変わるんだけど」  急に鞄を漁り始めた彩が雑誌を取り出して、テーブルの上に広げる。 「東京の穴場スポット特集! 今度、三人で行かない?」  そう、彩が持ってきた雑誌に乗っているのは、星が三百六十度見渡せる公園だった。 なんでか、この景色に既視感を覚える。 「これ、この坂、楓の家の前にある坂じゃない?」  由美子に言われて、初めて気づいた。 ふたりは私の家に来たことがあるので、確かだろう。 家の近くに、こんな公園があったことに驚いた。 「でも、この写真……」  濃紺の空に煌く、幾千のダイヤモンドの如く輝く星たち。 それに目を奪われて、身を乗り出すようにして見つめる。 『私たち、必ず出会うよ。ううん、会いに行く。宙くんの言葉を聞きに、必ず』 『なら俺は……何度もスピカを見上げる。それで、立ち止まらずに歩き続けるよ。その先に楓がいるって信じて』  突然、頭の中に声が響き渡る。 この声は私と誰のものだったのか、胸が切なく痛むのはなぜなのか、身の内から突き上げるように込み上げてくる愛しさは誰に向けたものだったのか。 一度にたくさんの感情が私の中にあふれてきて、目頭が熱くなる。 『本当に私……宙くんに出会えてよかった』 『俺も楓といられて、幸せだった』  ──私の名前を呼んだのは誰?  この人が幸せだと言ってくれたことが、泣きたくなるくらい嬉しいのはなぜ?  もしかしてこれは、私の失った記憶なのかもしれない。 『またね、宙くん!』 「そ、ら……」  ──そうだ。この人の名前は宙、加賀見宙。 どうして、今の今まで忘れていたんだろう。 大事な人の名前だったのに!  閉ざされた記憶の蓋が、ゆっくりと開け放たれていく。  私は事故にあったあと、奇妙な体験をした。 知らない男の子の中でどこかの高校に通い、友達と出かけたり、家族と過ごしたり、夢についてふたりで悩んだこともあった。 今日出版した小説のネタになっていたものはすべて、幽霊になった私と人間の彼が一緒に生きていた軌跡だ。 それも彼の身体に宿っていた頃に、一度書き上げている。 『またな、楓っ』  ずっと一緒にいた、大事な私の半身である君と約束したんだ。 もう一度会えたら、伝えたいことがあると言った、彼の言葉を聞きに必ず会いに行くと。 「楓、どうしたの?」  由美子の声で、我に返る。 目を瞬かせると、目じりに溜まっていた涙が頬を伝った。 「泣いてるじゃん! 由美子、紙ナプキン取って!」 「紙ナプキンは硬くて痛いでしょ。ほら、私のハンカチ使って」  心配そうな彩と由美子の声が聞こえる。 他のお客さんや店員もチラチラと私を見ていたけれど、そんなことはどうでもよかった。 私は由美子が差し出してくれたハンカチも受け取らずに、ゆっくりと頬に手を伸ばす。 温かい雫に指先が触れて初めて、この想いが本物であると悟った。 「宙くん……私の大好きな人……っ」  忘れていたことがありえないくらいに、私の心を占領する人。 やっと、どこかに置き去りにしてきた心の欠片を見つけた。 もううっかり落としてしまわないようにと、私は胸を押さえて人目も気にせずに泣き続ける。 彩と由美子は私の背を優しく撫でて、なにも聞かずに寄り添ってくれていた。  心に決めたことがある。 私はゆっくりと自宅前の石段を上りながら、すでに散った桜の木に目を向けた。 月明りと街頭に照らされた枝には新芽が顔を出しており、四月は終わりを迎えようとしている。 だから、どうしても急がなければいけない。 「スピカの星が、消えてしまう前に」  彩と由美子とカフェで別れた私は、迷わずにあの公園を目指していた。 深い海のように濃紺に染まりつつある空の下、あの場所に行けば君に会える気がして足取りも軽くなる。  だけど、あれから五年が経っている。 私のことなんて忘れていたるかもしれない、そもそも今日会える保証もない。  考えれば考えるほど、いろんな不安が次々と湧き上がる。 それらを払拭するように、私は別れ際に聞いた宙くんの言葉を思い出す。 『なら俺は……何度もスピカを見上げる。それで、立ち止まらずに歩き続けるよ。その先に楓がいるって信じて』  薄情な私とは違って彼は再会のときを信じ、何度もスピカの星を眺めながら待ってくれていたはずだ。 「だから、あの人が忘れるはずない」  だって、あんなにも離れることが苦しかった。 あんなにも、彼が好きだった。 どんなに離れていても、心で繋がっていると信じている 「宙くんの伝えたいこと、早く聞きたいよ」  ──会いたい、会いたい、会いたいっ。  その衝動に突き動かされて、私はついに石段を上がりきる。 なんとなく階段を振り返ってみると、ふわりと桃色の雪がひとひら落ちてくる。 「桜……?」  いや、桜はとっくに散っているはずだ。 なので錯覚かと目を凝らすと、やっぱりひらひらと桜の花びらが舞っていた。 「なに、これ……え?」  視線を巡らせると、石段の両脇にある散ったはずの桜の木が桃色の雲をつけている。 顔を上げれば、さきほどまで紺色だった空は茜色に変わっていた。 まるで、時間が遡ってしまったかのようだ。  呆然と立ち尽くしていると、私のすぐ横を息を切らせながら全速力で駆けていく誰かの姿を視界に捉えた。 「あれは……」  両親に物書きになると伝えた日、認めてもらえなくて家を飛び出したときの私だ。 石段を見下ろすと、駆け下りる過去の私の前から男の子が上がってくる。 その顔を見て、私は驚愕した。 進学校の制服を着た彼は、濡れ羽色の髪に黒曜石の瞳をしている。 眼鏡のせいなのか、精悍な眼差しのせいなのか、とても大人びて見えた。 「あの人は……宙くんだ!」  私、事故に会う前に宙くんと出会っていたんだ。 なんで忘れていたのだろう。 今は階段の途中で、視線が重なったのも覚えているのに。  あのとき、進学校に進む彼には私みたいな凡人の悩みなんて理解できない、そんなひがみを胸の内でこぼして「本当、羨ましいよ」と悪態をついた。  でも、実際は違かった。 誰よりも自分の生き方に苦しんでいた人だった。 私と同じ、夢にもがきながら、それでも必死に戦っていた。 人は言葉にしないだけで、なにも感じていないような表情の裏に誰しも傷を抱えているのだと思う。 それを私は知らなかった。 誰かを羨み妬むだけで、本質を見極めようとしなかった。 「……あっ……」  そして桜が消えて世界が元に戻る。 くるりと当たりを見渡すと、茜色だった空は濃紺に戻っていた。 私が失っていたものをすべて取り戻したから、幻は役目を終えたように消えたのかもしれない。 「……行こう、あの人に会いに」  私は前を真っ直ぐに見据えて、ゆっくりと一歩を踏み出す。 もう振り返らなかった。 どんどん坂道を上っていき、私を待っているだろう彼の姿を思い出して笑みを浮かべる。 もし今日会えなくても、何度でも君を探して会いに行く。 そんな強い気持ちを胸に坂を上りきり、あの公園の入口にたどり着く。 やっぱりここで見る星や月は、地上のどこよりも鮮明に見えた。  無数の輝きに見守られて、私は公園の中へと歩いていく。 すると天然のプラネタリウムを、中央のいちばんいい場所で見ている男性を見つける。 その人はこちらに背を向ける形で立っており、見覚えのある紺のタートルネックと黒のスキニーパンツを身に着けていた。 どこでだったかと記憶を手繰り寄せると、すぐに今日本屋さんで見かけた男性だと分かった。 星空を貸し切りで見上げている彼のうしろに立ち、私は足を止める。 その手には私のデビュー作、【夜空に君という名のスピカを探して。】の本がある。  君は私のことを覚えてくれていたんだね。 それで、ちゃんと気づいてくれた。 この作品が、私たちの物語であることに。  今すぐにでも声をかけたい、駆け寄って抱きついてしまいたい。  でも、なんて声をかけよう。 まずはなにから話そう。 この五年の間にあったこと、話したいこと、伝えたいことがたくさんある。 なのにどの言葉も一気に飛び出そうとして、喉の奥に詰まってしまう。  でも、もう限界だ。 君の声が聞きたい、君に触れたい、伝えたい、私の気持ちを──。  一歩、君に向かって足を踏み出した。 君との距離は数メートル、私はニッと笑みを浮かべて声をかける。 「スピカは見つけられましたか?」 「え……?」  振り向いた彼は、夢から覚めたような目でこちらを見ていた。 高校生のときにかけていた眼鏡は、今はかけていない。 コンタクトレンズにでも変えたのだろうか。 「誰だ、お前」  眉を寄せて不審な目を向けてくる彼に、私はふふふっと笑う。 彼は私の姿を知らないので、急に話しかけられて怪しんでいるに違いない。 「スピカって乙女座のことらしいです。あ、ほら……北斗七星とアークトゥルスを繋いだ長さ分の……えーと、あれだ!」  私は彼に教えてもらったようにスピカを見つけると、木星の下で輝く星を指さした。 でも彼は星ではなく、私をじっと見つめて真意を探るような顔をする。 「星に詳しい……んだな」 「いや、全然詳しくないんです」  背中で手を組んで、彼の隣に並ぶ。 頬に彼の視線を感じたが、気にせず私たちにとって特別な星──スピカを見つめた。 「は、はぁ?」  不機嫌そうな声を出す彼に、私は変わらないなと笑った。 それから彼に向き直るようにして立つ。 すると、彼がなにか言いたげな顔をしていることに気づいた。 私は由美子ほど勘が働くわけではないけれど、たぶん彼は“もっとわかりやすく言え”と文句を言いたいのだろう。 「私が詳しいのはスピカのことだけで、それも星が大好きな人に教えてもらったんです」 「へぇ」 「あ、そうだ。その本はもう読まれましたか?」  私は彼が持っている本に視線を向ける。 すると「あぁ」と言って、本を見つめる彼の顔が憂いを帯びた気がした。 「読んだけど、それがなにか?」 「そう……読んだんだ」  ──ねぇ、気づいて。 「実はそれ、私が書いたんです」  ──お願い、早く私の名前を呼んで。  そんな願いが通じたのか、彼の目がみるみると見開かれていく。 それは私の正体に思い当たる節でもあるような、それでいて違かったときのことを恐れているような複雑な表情。 唇を震わせて、彼は意を決したように口を開く。 「この本は俺とあいつ以外、知りえないことばかりが綴られていた。お前は、まさか……」 「スピカ、またふたりで見られてよかった」  そう言えば、なにかを核心した様子の彼が一歩こちらに足を踏みだした。 私は彼を迎えるように、満面の笑みを浮かべる。 「呼んでくれないの? 私の名前」 「もう会えないかもしれないって不安になったときは、ここに来てスピカに願ったんだ」  泣きそうな顔で、ゆっくりと私の前までやってくる彼。 私はそんな彼を見上げて「宙くん」と愛しい人の名前を呼んだ。  宙くんは顔をくしゃくしゃに歪めて瞳を潤ませると、震える声で「楓」と呼んでくれる。 その瞬間、ダムが決壊したように目尻からぽろぽろと涙があふれる。 「宙くんの言葉を聞くために、会いに来たんだよ……っ」 「約束、覚えててくれたんだな」 「でも私、今日まで宙くんの記憶がなかったの。だから、会いに来るのが遅くなっちゃった。本当にごめんね」  もし病院で目覚めたときに宙くんのことを覚えていたのなら、すぐに会いに行ったのに。 随分と長い間、君を待たせてしまった。 「別にいい。俺は百年でも千年でも来世でも、楓を待つつもりだったんだから」 「そっか……嬉しい」 「あのさ、その……。楓に触れてもいいか?」 「え? 私に?」 「今度は幽霊じゃないんだって、実感したいんだ」 「宙くん……。私も、触れてほしい」  それを聞いた宙くんは安堵の息をつくと、私の存在を確かめるように頬に触れてくる。 それから輪郭を指で何度も何度もなぞった。  やがて頬に触れていた手は、私の後頭部に回って髪を梳き始める。 それが心地よくて瞼を閉じると、彼の手に身を委ねた。 「やっと、楓を見られた」 「やっと、私の姿で君に会えた」  ほとんど同時に手を握り合って、額を重ねた。 「楓、夢を叶えたんだな」 「うん、宙くんは?」 「俺は国立天文台で研究員をやってる。 今は宇宙の最大の謎と言われている、観測できない暗黒物質、ダークマターについて研究中だ」  難しい単語がいくつか出てきて、私は眉間にしわを寄せながら首を傾げる。 「なんか、悪役の必殺技みたいな名前だね」 「なに言ってるんだ。ダークマターは宇宙の約二十五パーセントを占めている。この物質を解き明かすということは、宇宙を解き明かすことと同義だ」  星や宇宙のこととなると熱くなるところは、五年経っても変わらないんだな。 夢は出会ったときはキラキラと輝いて見える。 ワクワクが止まらなくて、夢を叶えるために努力している時間が楽しかったりするのだ。  けれど夢に本気で向き合っていくうちに、理想と現実のギャップが見えてくる。 失敗や実力差を思い知って、いつしか夢を純粋に好きでいられなくなることがあるのだ。 私も小説だけでなく脚本やゲームのシナリオライターのコンペに参加したことがあったのだが、すべて落選してしまって苦しかった経験がある。 だから夢を追うことでなにがいちばん大変かと言ったら、熱意を失わないことなのかもしれない。 私であれば書くことが好き、宙くんであれば星が好き、というように夢を一途に愛することこそが難しいのだと思う。  宙くんは星好きに宇宙好きがプラスされており、熱意を失うどころか何倍にも膨れ上がって勢いを増している。 「じゃあ、宙くん。これから長い時間をかけて、そのダークなんちゃらのことを教えてね」 「ダークマターだ」 「そう、それそれ」 「相変わらず、適当なやつだな」  呆れている宙くんに、私はぶっと吹き出す。 そう言う彼も、頭が固いところは全然変わっていない。 変わったところといえば、顔から幼さが消えて立派な成人男性になっているところだろうか。 「それから宙くん、私に伝えたいことがあるって言ってたでしょう?」 「あぁ、言った」 「その……そろそろ聞いてもいい?」 「わ、分かった」   緊張しているのか、宙くんは視線を彷徨わせながら深呼吸をした。 それを何度か繰り返して、ようやく彼は私の目をまっすぐに見つめてくる。 「俺は、楓が好きだ」 「っ……」 「いつからと聞かれても分からん。星を見上げるとき、ご飯を食べるとき、下校中もなにをしてても、楓がいないと世界が褪せて見える。楽しくないんだ」 「私も……」  彼ともう一度会えたら、絶対に伝えようと決めていたことがある。 私がずっと秘めていた想い。 あの頃は旅立つ人間である私に伝える資格はないと思って言えなかったけれど、今なら言葉にしてもいいはずだ。 私と彼はこの世界で、これから先も同じ時を刻んでいけるのだから。 「私も宙くんが好きだって、ずっと言いたかった」 「──楓っ」  もう、言葉は必要ないと思った。 私たちはふたりでひとつだったかのように、隙間もないほど抱きしめ合う。 服の上から感じた体温が、ゆっくりと溶け合う。 私が幽霊として彼の中にいたときと同じように、今の私たちは触れ合う部分から想いを共有していた。 どちらのものとか、個々という概念はもはやない。 「私たち、本当に運命で繋がってたんだね」 「そうだな……」  彼とこの世界で巡り合えた喜びに、ハラハラと涙が流れる。 それを宙くんの指が優しく拭ってくれた。 私は少しだけ彼から身体を離して、その頬に手を伸ばす。 触れた体温に、彼の存在を改めて感じた。 「あのね、私……。事故に会う前に宙くんに会ってたんだ」 「え、事故に会う前って、俺に憑りつく前ってことか?」 「そうだよ。事故にあった日に、公園まで続くあの石段で宙くんとすれ違ってたの」 「ははっ、すごいな」  宙くんは私の手を握り、困ったように笑う。 「俺たちは生まれた日も同じで、ありえない出会い方をして……。五年経って、偶然にもここで再会した。いや、偶然じゃないな。楓の言う通り、俺たちは運命で繋がってる」  それは他動的なものではなく、私たちのお互いを思う気持ちが引き寄せた運命。 信じる力が、私たちを引き会わせてくれた。 「宙くんに出会うために、私はきっと生きていたんだね」 「俺も楓に出会うために、今までの俺があったんだと思える」  そう、物語はこれからだ。 再会を夢見て終わるあの小説のエピローグの先は、これから私たちふたりで綴っていく。 「私、この小説の続編を書こうと思う」 「へぇ、どんな話にするんだ?」  宙くんが興味津々に聞いてくる。 それが嬉しくて、私は背伸びをして宙くんに顔を近づけるとニッと笑った。 「それは、これからの私たち次第かな」  そう言った私に赤面した宙くんは「また、俺たちの話を書くのかよ」と頭を掻く。  君との物語なら、いくらでも書けそうだ。 始まった恋の行方。 追い始めた夢は違えど、私たちは手を離さずに共に歩んでいく。 そして、もっともっと君に恋をする。 「君とのお話だから、書きたいんだよ」  離れていた五年間、欠けた心の欠片を求めて宙くんは空を見上げ、私はこの地上で君という名のスピカを探していた。  けれど今度は君の隣で、君というスピカを見つめていたい。 そして、永遠に終わらない物語を君と描いていこう。 「しかたないな、そのときはまた付き合ってやるよ」  なげやりな言い方だけれど、これは心から望んで言ってくれていると分かる。 彼は頭がいいくせに、気持ちを伝えることに関しては不器用なのだ。  そんな彼を心から愛しく思う。 君との未来を諦めなくてよかった。 怖くても、不確かな世界で君との未来を信じた過去の自分に感謝しながら、ふたりで手を繋いで星を見上げる。  そこには今まで見てきたものの中でいちばんと言っていいほど美しい、私たちの再会と未来を祝福してくれているスピカが煌いていた。                       (END)
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