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「いえ、それはまだ。ですが、それが必要なことは理解しています。まずは担癌マウスでの治癒効果を確認します」
「まあ、確かにそれからですね。ところで、貴女は今、修士二年でしたね。ということは今年卒業ですね」
「はい」
「就活は?」
「……いえ」
目の前の男性は満足げに頷いた。
まるで愛里の答えが分かっていたかのように。
「いずれ君の研究内容が実用化されるためには、まだまだやらなければならないことがたくさんあります。これからの進路は考えていますか」
「まずは、論文を出して、新しい奨学金も……」
「いやいや、そういうことじゃなくてですね。就活をしていないのでしょう。ということは研究者として博士号を目指すわけですね。そしてゆくゆくはポスドクへ」
「まあ、一応」
「ならば、私の研究室に来ませんか」
「えっ」
「須藤教授……確かに君のボスや、笹島先生は優秀です。ですが、農学という分野で抗癌剤の開発を進めるのは難しいですよ。特に君は今、どの製薬メーカーとも共同研究をしていないでしょう。薬を作るには十数年という歳月と何十億というお金がかかります」
耳の痛い意見だった。
そう。薬の開発は一筋縄ではいかない。
開発、安全性試験、治験、認可、量産、販売……やらなければならないことは限りない。費用も時間も人手もかかる。
別に癌治療でノーベル賞を取ろうと思っていたわけではない。ただ、どうしても病室の父の姿が浮かぶ。癌という大きな存在が愛里には倒すべき敵のように見えて仕方がなかったのだ。
「小耳に挟んだのですが、君はノーベル賞を目指しているとか。農学分野で、抗癌剤で、企業提携なしでノーベル賞を取るというのは現実的ではありません」
そんなことは分かっていた。
「そもそもノーベル賞を取ること自体が現実離れですけどね」
愛里の言葉に男性はゆっくりと頭を横に振った。
どうやら目の前の男は愛里のことを元々知っていたようだった。愛里達のボスである須藤のことも知っていたようなので、きっとどこかで顔を合わせたことがあったのだろう。
「皮肉も謙遜も必要ありません。私の目から見て、君の研究からは非常に大きな可能性を感じました」
その時、愛里は思い出した。どこかで見覚えがあると感じていたのだ。
京立大学薬学部の教授にして本学会の会長だ。かなり若い見た目だが歳は確か五十代。なのに、若者と同じような肌のハリに、爽やかな風貌。
確か名前は芦屋(あしや)充(みつる)。
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