第5章 無毒のポイズナー

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 京立大学といえば日本で一位、二位を争う大学で、特に薬学部の芦屋研といえば世界的にも高名な科学誌に何度も論文を投稿している、実績ある研究室だ。  確か、ノーベル賞受賞者と共同研究をしていたこともあったはずだ。論文の共著者に名前が入っていたのを見たことがある。  そんな人物からの誘い。またとない機会であることは確かだった。 「でも……」  須藤研の研究成果を持ち逃げすることなどできるはずがない。  そもそも、愛里は農学部でノーベル賞を取ることを目指していたのではなかったのか。 「君の発表からは癌に苦しむ人達への慈愛の精神を感じました。特別な思い入れがあるのですね」 「もしかしたら、父が癌であるせいかもしれません」 「そうですか。それならば神楽坂さんの熱意もよく分かります」  込み入った事情に立ち入ったことへの謝罪の言葉もない。芦屋は堂々としていた。これが高名な科学者の貫禄だろうか。そのさばさばとした物言いに愛里も余計な気遣いをしなくて済んだ。会話というものを彼は心得ていた。 「ならばなおさら私の下で働いてみませんか。薬の開発以外にも癌を治す研究はいくらでもあります」 「私は別に父を治そうとしているわけではありません」 「ええ、ええ。分かっています。あなたは夢追い人ですが現実的でもある。広い視野を持ちつつも目の前の課題から順番に着実に解決していく」 「誰がそんなことを言ったんです?」 「貴女の発表を見ていれば分かりますよ。これでも長年学生を見てきていますから」  学会とは名を売る場でもある。ゆえに、この出会いは偶然ではない。偶然で済ませてしまってはいけない。  すっと芦屋は名刺を愛里に差し出した。  教授が学生に名刺を渡すというのはかなり珍しい。口調も丁寧だが、行動も礼儀正しい。 「すぐに結論を出せとは言いません。けれど、考えておいてください。貴女の夢はどこにあるのか」  努力と成果の間にある方程式。  どんな努力をどれだけ、どのようにすれば成果(答え)は出るのか。その方程式は誰も知らない。愛里本人にも分からない。  計算のフィールドはここにはないかもしれない。 「それでは。明日の懇親会には出席されますよね。その時にでもまた」  芦屋はにこりと笑うと、別の教室へと消えていった。  ざわざわと多くの人が行き交う廊下で、なぜか愛里はひとりで取り残されたような気分になっていた。
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