ごほうびおやつ

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 日差しが柔らかくコスモスを揺らす。  そろそろ、洗濯物が乾くころだ。取り込まないと。  そう思っていても、赤いソファから起き上がれない。  分かっているのに、身体は鉛のように重い。  空は硬度の高い玻璃のようにすきとおり、決してそこを突き破れないように見える。  ベランダの柵はくすんだアルミの色で、世界になじみ、そこにあるのが当たり前のようだ。  しがみつくように絡まる茶色の糸は朝顔の枯れ蔦。取り除くのが面倒でそのままにしてある。  いっそのことアイビーでもよかったかもしれない。あれは常に緑だろうから。  三時になった。空に少し薄い黄色の膜がかかる。  今まで瞬きすらしなかった目を閉じると、軽い痛みを感じる。  帰ってくる。  早く、動かないと。  帰ってくる。  早く、立ち上がらないと。  身体の右側を下にしていたので、そちら側が少し痺れている。  赤いソファから何とか身をはがすように起き上がる。  髪の毛がほつれて乱れてかなわないので、ゴムで結わえる。  何の変哲もない、黒いだけのゴムだ。こう言う、何の飾りのないものが好きだ。  やかんを火に架ける。朝、沸かしたけれどもうすっかり冷たい。  冷凍庫に入っていた、ジッパーつきの袋から、コーヒーの粉を取り出す。  ドリッパーにペーパーを重ねて、大さじで二杯、コーヒーを入れる。  目を閉じる。  しゅんしゅんいい出すやかん。火を止める。ドリッパーに注ぎ口を向ける。  弧を描くように注ぐつもりの湯が、どぼっと出た。  しまった、もう少し丁寧に入れるんだった。  しずくが落ちきるのを待つ間、冷蔵庫から、おびき寄せるようにケーキを出す。そう、今日のごほうび。  近所のスーパーで買った、二十パーセント引きのクリームたっぷりフルーツケーキだ。2個入っている。  ゼラチンでコーティングされた黄桃のつやり感、たまらん。  ひとつをプラ容器のふたを底にして、本体を上にかぶせるようにして、冷凍庫の奥に突っ込んでおく。  どうしても、どうしても食べたかった。  そう、買うつもりなんてなかった。  昨日はたまねぎとにんじん、グラム五十円の鶏肉と、牛乳とバター、二百円のお米五キロ千二百円を買ったのだ。  そう、昨日はそれだけにするつもりだったのだ。  何しろ米重いし。  本当は十キロ二千八百円のお米にするつもりだったのだ。  でも、我が家は、エレベーターなしの五階建ての団地の五階。  一度ぴきっと腰をいわせてからというもの、十キロの米を担ぎ上げるやる気は私にはない。  いいじゃない。ゆるゆるでいこうや。  その決心をしてからと言うもの、頭痛は減る、肩はこらなくなるといいこと尽くめだ。  ……なんのはなしだったっけ。そうそう、ケーキだケーキ。  バターの隣にあったの、ケーキとかプリンとかの棚。  モンブランもおいしそうだったの。チョコミントのロールケーキも素敵だったの。でも、でもフルーツケーキは二割引だったの。  米を担ぎながら、ケーキの形を守るのって大変だったわ。  腕にすごい跡が付いたわ。買い物袋が食い込んで。  どうしても、食べたかったの。そして、守りきったの、ケーキを。  落とすことなく、横にしてしまうことなく、無事帰ってこれたわ。  いつも子供にばれてしまうのだけれど、今日はうまくいったの。たぶん、納豆の後ろに隠したからだと思うわ。  せっかくここまで守り通したのですもの。ちゃんとお皿に盛り付けて優雅におやつをいただこうじゃないの。  居間にコーヒーの香りが漂う。最後の一滴が落ちきったみたいだ。  時計は三時十八分を指している。大丈夫だまだ時間はある。  銀のフォークを添えよう。面倒だからって、洗って再利用しているプラスチックのフォークは今日は止めておこう。  なにしろ、私は今日、がんばったのだから。  今日は休日出勤の代休。平日なのにおやすみってなんかいい。  せっかくだからと、子供が学校に行っている間に、普段はなかなか手が回らない、ちらかった部屋を片付け、掃除機を掛け、掛けたついでに物陰の壮絶なほこりを発見してしまい、徹底的にほじりだし掃除機で吸出し、ついでに床の雑巾がけをし、カーテンを洗って干し、布団を干し、靴を洗い、洗濯物も衣替えをかねて三回まわし、掛けられるアイロンはすべてかけ、よく考えたら昼ごはんを食べていなかった。  それもこれもすべてケーキのため。おいしくご褒美をいただくためだわ。  そして今日、私はそれをやりきった。ふふん、えらい、私。  いけない。そうこうしているうちに三時半。  今なら、優雅にティータイムが出来る。ちょっと位おなかがすいていても優雅さを私はとる。  と思った端から、カップラーメンのふたを開けお湯を注いだ私がそこにいる。なぜだ。  し、仕方がない。ラーメンが出来る間に優雅にティータイムと……。  ぴんぽーん。  手は無意識にケーキに向かい、容赦なく口に突っ込み、秒で咀嚼する。返す手で皿を流しの桶に突っ込む。  ぴんぽん、ぴんぽん、ぴんぽーん。  呼び鈴連打の後、しばらく間があいて。  ぴん、ぽーん。  コーヒーを飲もうとして口の中をやけどし、慌てて冷蔵庫からお茶を出す。飲み下す、大急ぎで。  ぴんぽんぴんぽんぴんぽーん! 「はいはいはいはいちょっとまってねー」  走る、小走りに。手を伸ばす、玄関の鍵に。 「おかえりー」 「ただいまー」 夕方が始まる。
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