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「歩美ちゃん」
玄関で靴を脱いでいると、わたしを呼ぶか細い声が聞こえた。
一瞬母かと思ったが、母がわたしをちゃん付けで呼ぶはずもない。
まさか、不審者?
玄関の鍵は掛かっていたが、窓から侵入したのかもしれない。
拳の中で鍵を握りながら、息を潜めて部屋の中を見渡す。
人の気配はない。
「歩美ちゃん」
もう一度わたしを呼ぶ声。
わたしは足音を忍ばせて、声のする方向へ進んだ。
キッチンを越え、リビングを抜け、わたしはベランダへ続く窓をそっと開けた。
「歩美ちゃん」
窓の隙間から覗く。誰もいない。
いや、一人――もとい一匹がいた。
「……………………。ドジョウ……?」
わたしは屈みこんで発泡スチロールの中を見る。
「…………ドジョウ……が……わたしを呼んだの?」
そんなバカな。
唖然とするわたしとは裏腹に、胴長の生き物が答えるように水中をくねくねと泳ぐ。
「そうだよ」
とても信じられないが、ドジョウがわたしの名を呼んでいたのだ。
「歩美ちゃん、ぼくを救ってくれてありがとう」
「救ったんじゃなくて掬ったんだけど」
むしろ両手でつかんだ、のほうが正しい気がする。
「誰もぼくを救ってくれなかった。この粘液を何度呪ったかわからないよ」
「はあ……」
あいまいに相槌を打ってから、誰も、の部分に一拍遅れて心臓が高鳴る。
「歩美ちゃんだけがぼくを救ってくれた。きみの手がぼくの身体をとらえたとき、どんなに胸が躍ったか」
「そう……そうだよね! わたしだけが……」
なかなか話の分かるドジョウだ。みんな違ってみんないい、などと言いながら個性を殺すことを良しとする大人たちよりもずっと明確にわたしを理解してくれている。
このドジョウをつかまえられたのは、わたしだけ。
母が帰ってきたら、このドジョウを飼って良いか頼んでみよう。
わたしは図書館へ行くために区民カードを探し出し、家を出た。
もちろん鍵を掛けるのを忘れずに。
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