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すっかり日が暮れてしまった。
借りてきた本を抱えて玄関の扉を開けた途端、甘辛いタレを煮詰めた匂いがふわりと漂ってきた。
今日はすき焼きだろうか、と思いながらキッチンを覗くと、若草色のエプロンを身に着けた父が鍋をかき混ぜていた。
「おかえり歩美。今日母さんは遅いから俺が作ったぞ」
立ちのぼる白い湯気の中へ、かすかに泥のような臭いが混じっている気がする。
「なにそれ」
小さなテーブルに本を置きながら、わたしは問いかけた。
「どぜう鍋」
「…………どぜう」
わたしはなんだか嫌な予感がして、急ぎベランダへ向かった。
水を湛える発泡スチロールの中に彼はいない。
「浅草名物どぜう鍋。一回食べてみたかったんだよな」
鍋ってより汁だけどな、などと言いながら、父が小鍋を食卓に置いた。
ドジョウのことをどぜうと呼ぶのだと、このときわたしははじめて知った。
だから食べた。
啜った汁は塩っぽい泥の味がした。
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