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――なぜ、俺は走っているのだろう。
そもそも俺は異性愛者で、同性の篠山など、恋愛対象として気にかけてすらいなかった。そうでなくとも俺の思い描く理想のパズルに、篠山というピースが嵌る余地など一片たりともなかった……はずだ。
「篠山!」
英司がエレベーターホールに駆け込んだ時には、すでに修は数台あるエレベーターの一つに乗り込み、扉を閉ざしかけていた。
「篠山ッッ!」
その、今まさに目の前で閉じかける扉にタックルをかけ、無理やり肩を、続いて半身をねじ込む。確信はない。ただ、ここで逃げられればきっと、二度と英司の言葉は伝わらない――そう確信していた。
「待ってくれ! 篠山ッ!」
折しも異物に反応した扉が、ふたたび戸口を広げる。その一瞬をついて、英司はエレベーターへと転がり込んだ。それを目にした修が、今度は反対にエレベーターから逃げ出そうとする。その進路を英司は、閉ボタンへと伸ばした腕で咄嗟に阻んだ。
やがて背後で、ごうん、と扉の閉まる重い音がする。
軽い浮遊感とともに、無機質なモーター音が室内を満たしはじめる。会話はない。というより、すぐには言葉を口にできなかった。肩を上下させながら、今の全力疾走で荒れた息を整えるので英司は手一杯だったのだ。
「どうして、追いかけるんですか」
先に沈黙を破ったのは、意外にも、修の方だった。
「ど……どうしてって、そりゃ……」
「答えて……ください」
その声は、突き放すよりはむしろ縋るようで、少なくとも、今の今まで英司から逃れようと足掻いていた人間のそれとは思えない。どう反応して良いか分からず途方に暮れる英司を、やがて、二つの双眸がのろりと見上げる。
迷子の子供を思わせる、怯えきった、それでいて助けを求める悲しい目。
「……答えが、欲しいのか」
あの日もそうだった。修はしきりに答えを求めた。修が、修自身を納得させるための答えを。恐怖と戸惑いに竦む足を前に踏み出すための答えを。
あの時はただ、無暗に理由を求める修が苛立たしかった。人と人とが幸福なかたちで結ばれるのに、いちいち理由など必要ない――そう思い込んでいた。が、思い込みは所詮、思い込みだ。正しくもなければ絶対でもない。まして、全く違う世界、違う景色の中で生きる人間にとって、その正しさは時に暴力にもなりうる。
修にとって、英司の正しさは刃だった。割れたガラスの切っ先だった。
「わからないんです……本当に」
ふたたび顔を伏せると、修は言った。絞り出されたその声には、早くも嗚咽が混じりはじめていた。
「あなたが、わかめ子さんだったと知って……ショックでした」
「そ、そりゃ……うん。悪かったと、」
「違います! あなたを責めているんじゃない!」
英司の謝罪を、修は、強くかぶりを振って否定する。
「僕は……そうとは知らずにあなたに……とても、ひどい言葉を投げつけてしまった。あなたはわかめ子さんとして、僕の本当の気持ちを、すでに受け止めてくれていたんです。なのに……それなのに僕は、ただの気まぐれで口説かれたものと……わかっていたのに。本当は、あなたの真摯さも、誠実さも、全部きちんと伝わっていたのに」
「……」
英司には、すぐには返す言葉が見つからなかった。
何かしらのショックを与えてしまったことは、昨日の反応から察していた。その理由を、てっきり正体を欺かれたせいだと英司は思い込んでいた。
またしても一方的な思い込みだ。そもそも、超のつく理系の修がことの経緯をおろそかにするはずはなく、英司が〝みけお〟の正体を知った時にはすでに気持ちを明かされていたことも、だからこそ正体を明かしづらかったことも読めなかったはずがない。その上で、なお会社を辞めるほどの暴挙に走るなら、そこには別の理由が存在するはずだ。
――僕はどこまでも臆病者なのです。
「怖かったんだろ」
そう、英司は知っている。〝わかめ子〟として、修の気持ちの全てを。
「とても臆病で、卑怯で、だから俺を幸せにできる確信が持てなくて……それで逃げ出したんだろ。違うか」
「ち、違います! 僕は……あなたを傷つけた罪を、償いたくて……」
そして修は、自分で自分の腕を抱く。その姿は、寒さに震える遭難者のようで、英司は見るに堪えなかった。
誰も温めてくれなかったのだろうか。抱きしめてやらなかったのか。
こいつは、こんなにも凍えているのに。
「……いえ、あなたの言うとおりえす。僕は、ただ怯えていただけなんだ。それを、また、あなたのせいにして……ああ、やっぱり僕は卑怯だ。卑怯で、臆病だ」
「いいんだよ。それに、前にも言ったろ? たとえ臆病者でも、卑怯者でも、幸せになっていいんだって」
「駄目です!」
またしても修は大きくかぶりを振る。世界そのものを振り捨てるかのように。
「僕と付き合ったら、きっとまた、こんなふうに傷つけてしまう。水沢さん、あなたはとても素敵な人です。優しくて、誠実で、僕のような人間とも、いつだって真正面に向き合ってくれた。あなたは……もっと素敵な人と幸せになるべきなんです。だから……どうか、僕のことは忘れてください。お願いします」
「嫌だ」
腕を伸ばし、目の前で震える肩を強く抱き寄せる。ぼさぼさの黒髪に鼻先を埋めると、嗅ぎ慣れないシャンプーと頭皮の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
もう逃がさない。たとえ拒まれても、もう、抱きしめたこの腕は解かない。なぜなら修はあまりにも凍えていて、修が何と言おうと、この身体がぬくもりを欲しているのは間違いないからだ。
抵抗はなかった。代わりに、英司の耳元で囁く声がする。
「……どうして」
本当に、心の底からわからないと言いたげな声。願うことすら放棄し、幸福を前にしてもなお途方に暮れるその声に英司は、もはや返す答えを一つしか持たなかった。
「もう、お前しか愛せないからだ」
赤らむ耳朶に、魂の全てを注ぎ込むように英司は答えた。
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