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「お先に失礼します」
隣席の同僚に頭を下げ、マフラーを首に巻きつつデスクを後にする。
時刻は午後の六時。今日は、あらかじめ早めに帰宅するつもりで綿密に予定を調整し、手持ちの仕事もすべて片付けた。周囲にも今夜は都合がつかない旨を告げているから、突然の呑みの誘いもなく、すんなりとオフィスを退室する。
駅のホームに着いたところで、ふと、スマホが着信を告げた。
『おっすー英司、ライン見たか?』
もしもしも名乗りすらもなく、開口一番本題に入ったのは太一だ。ここ最近、以前のオタク趣味が復活しつつある太一は、ことあるごとに今期アニメのお気に入りとそのキャラを英司に推してくる。
「ああ見たよ。〝みらくるちっく!〟の話だろ?」
昼間、食堂で昼食を摂っていると太一からラインが入った。内容は、今期放送中のアニメ〝みらくるちっく!〟の壮大かつ膨大なプレゼンで、その原稿用紙数枚分にも及ぶ文字数に速攻でアプリを閉じたことだけは覚えているが、肝心の内容はほとんど覚えていない。そもそも読んでいない。
『いいよなぁ〝みらくるちっく!〟! ただのゆるふわ系かと油断していたら三話のラストでいきなり鬱展開突入、そこから始まる展開がもうまるでジェットコースターなわけよ。で、慌ててエンドクレジット見たら案の定岡島脚本でこりゃ追っかけるしかなねえってな。キャラデザも可愛いし、作画も今のところはクオリティ安定しているし、今季覇権は余裕じゃね? いやぁ、思わず円盤ポチッちまったよんふふふふ』
早口+情報量過多の典型的なオタク語り。だが、合コンについて語っていた時よりも、その口調は随分と楽しげで、微笑ましさについ英司は頬が緩む。
『ところで、今度の冬コミもお前、レイヤーで参加すんの?』
「まあな。何をするかはまだ未定だけど」
『へぇ。だったらさ、いっそ二人で参加すんのはどうだ? ほら、女装とか似合いそうじゃん、顔も可愛いしさ』
「はあ? 何言って――」
折しもホームに地下鉄特有の突風が吹いて、やがて電車が到着する。
「じゃあな、太一。また詳しいことが決まり次第連絡するわ」
言い残し、電話を切る。電車に乗り込むと、ふたたび英司はスマホを取り出し、今度はラインのアプリを立ち上げた。開いたのはしかし、太一のトークルームではない。
新着メッセージは――あった。一件。用件だけを手短に告げたメッセージが。
『今日は何時ごろに帰りますか』
「帰る……か」
つい緩んでしまう頬を慌てて引き締め、返信を打ち込む。
『悪い。連絡が遅れた。今、会社の最寄り駅を出たところ』
『わかりました』
相変わらず不愛想な文面。だが、この素っ気ない文面の向こうに、鬱陶しいほどの思いやりと気遣いが在ることを英司は知っている。
ターミナル駅で電車を乗り換え、さらに十数分。普段は何でもない通勤時間が、今日に限ってはやけに長く感じられる。ようやく最寄り駅に到着すると、英司は駅前のケーキ屋で予約の品を受け取り、さらに家路を急いだ。
アパートに到着すると、英司は鍵を取り出す代わりにインターホンを押す。
やがてドア越しに足音が近づいてきて、勢いよく開け放たれた戸口から、今となっては見慣れた同居人が姿を現した。
半月前から英司との同居、いや同棲を始めた修だ。
その修は、料理か何かの途中だったのだろう、今は私服にエプロンという絵に描いたような新婚スタイルで、嫌でも英司は頬が緩んでしまう。
「お、おかえりなさい、水沢さん」
「馬鹿」
「えっ?」
「下の名前で呼べって、何度も言ってるだろ?」
その言葉に修は、ドアノブに手をかけたまま頬を真っ赤に染め上げる。その赤らんだ頬に英司は手を伸ばすと、答えを促すようにそっと撫でた。
「ほら」
「え……ええと、英司、さん?」
「さん、も必要ない」
「……え……英司」
「よくできました」
そして英司は、修の頬にそっと口づける。本当は唇同士を重ねたいのだが、奥手な修は未だにそれを許してくれない。この、子供がするような頬へのキスも、修に言わせれば卒倒するほど恥ずかしいのだそうだ。
あれから本当に東洋建設を退職した修は、本当に実家の工務店を引き継ぎ、今は、病で倒れたはずの父親を手伝いつつ、次期社長としてのノウハウや心構えを学んでいる。修としても、前々から実家を継ぐ気でいたらしく、英司との一件は良いきっかけになったと喜んでいたが、まんまときっかけに使われてしまった英司はただ苦笑するしかなかった。
英司の部屋に移り住んだのは今から半月ほど前。以来、ここから毎朝実家の会社に通っている。
今度はこめかみに口づける。整髪料と頭皮の匂いをすんと嗅ぎながら、英司は、身体の芯にじわり滲む熱に気まずいものを感じていた。
修を愛し始めた当初は考えられなかった悩み。
同性である修への、抑えがたい熱情――
「ただいま、修」
部屋に上がると、すでに室内はパーティームード一色に仕立てられていた。壁や天井を彩るカラーテープやオーナメントは、クリスマス前のデパートの飾りつけすら地味に感じられるほどの豪勢さだ。テーブルも同様に飾り付けがなされ、シミ一つないテーブルクロスが覆うダイニングテーブルには、磨き上げられたグラスやシルバーがずらりと並んでいる。
この日は英司の誕生日だった。英司としてはスルーしてくれても構わなかったのだが、修のたっての願いでパーティーを開くこととなった。これらの準備は、その修がわざわざ休暇を取り、丸一日かけて整えてくれたものだ。
「あの、夕食……いいですか」
「ああ。私服に着替えてくる」
寝室に移り、スーツから部屋着に着替える。修を住人として迎えるにあたり、英司は、それまで部屋を埋め尽くしていたコスチュームやウイッグ、小道具類を近所の貸しトランクに移し替えた。おかげで、以前は一人でも手狭だった1LDKは、今では二人の住まいとして悠々と機能している。ただ――
寝室の半分以上を占めるダブルベッドに目を移す。
修との同棲に合わせて買い直した二人用のベッド。だが、どういうわけか修は、ここに越して以来、一貫して英司と一緒に寝ることを拒んでいた。持参の寝袋を床に並べ、その中で一人、身を丸めて眠る日々だ。
こんなことなら、以前のシングルベッドを捨てずにもう一つ、同じシングルタイプのベッドを買い足せばよかったと後悔しない日はない。だが……
「英司」
不意に名を呼ばれ、振り返る。いつしか寝室の戸口に、ダイニングの明かりを背負って立つ修の影があった。
「ゆ、夕食の準備……できた、けど」
「お、おう。……あのさ」
「えっ、う、うん」
「ほんとにさ、ベッドで眠っていいんだぜ? そもそも俺ら恋人だし、一人で寝るのはその……寂しい、っていうか」
――嘘だ。
いや、厳密には嘘ではない。それでも、どこか冗談じみて聞こえてしまうのは、英司の中に渦巻く期待と、より生々しい情動のせいだ。
本当は、ただ一緒に眠るだけでは足りない。普通の、ごく当たり前の恋人として――
「あ、いや、何でもない……忘れてくれ」
「大丈夫」
「は?」
まるで受け答えになっていない返答に、何が、と問い直しかけた英司は慌ててその言葉を呑み込む。影の中で、いつになく濡れる黒い双眸に気づいたからだった。
「わかってる……今夜は……大丈夫、だから」
「だ、大丈夫って、何が」
知らず知らず雰囲気に呑まれていたのだろう、問いかける声は、なぜかひどく上擦っていた。
修は答えなかった。代わりに無言のまま、濡れた瞳で英司を見つめ返す。それは、今まで修が見せたどの感情とも色を異にしていた。恐怖。怯え、躊躇い、喜び――そうしたものと似て非なる、より熱く、より烈しいこれは。
「せ……セックス」
その声は、吹雪に耐える小鳥のように震え、掠れていた。
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