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「どーすりゃいいんだよ……ほんと」
オフィスチェアの背凭れにぐいと身を預けながら、溜息まじりに英司はぼやく。
とりあえず気を取り直し、パソコンに向き直る。表示されたメールには、英司が担当するクライアントからの仕様変更の要望が記されている。落札、もしくは契約成立とともに案件は営業の手を離れ、設計課や工事課に託される。が、こうしたクライアントへの窓口対応は、その後も引き続き担当の営業が担う。
メールに目を通し、クライアントの要望を頭の中で咀嚼しながら、どこの部署へ、どのような指示を出すべきかを具体案に変換してゆく。あらかた頭の中で腑分けが済むと、パソコンに指示書のフォーマットを呼び出し、作成。今回の仕様変更は今の段階でも充分に対応可能なもので、とりわけ胃を痛める必要はなさそうだ。
いや、いっそ厄介な案件が飛び込んでくれればいい。つい余計なことばかり考えてしまうのは、なまじ余裕があるからだろう。
隣を盗み見ると、英司を悩ます張本人が、相変わらず何を考えているのかわからない顔で黙々とパソコンに向かっている。ただ、あの日以来、心なしか苛ついているようにも見える。口数も普段に増して少ない。
あの日以来、〝みけお〟からのDMは一切途絶えていた。〝みけお〟すなわち修から英司を愛する理由を直接聞き出し、それに反する行動をあえて取ることでガッカリを誘うこの作戦は、初手から早くも暗礁に乗り上げていた。
誤算だった。
まさか、あれほど強い覚悟で英司を愛していたとは、当の英司も想像していなかった。たとえ結ばれなくとも、愛する人を想って生きられるだけで幸せだ――そこまで言い切る相手に、一体、どんな言葉でもって翻意を迫れば良かったというのか。
それならそれで好きに想わせれば良いだけの話だ。ただ……
――本当は、辛いに違いないんだ。
英司にも、誰かに恋した経験ぐらいはある。伝わらない想いを抱く苦しさも、だから痛いほどよく知っている。それはゲイだろうがヘテロだろうが変わらない痛みのはずで、だからこそ英司は、自分のせいで胸を痛める修を放ってはおけなかった。それが、たとえ貰い事故のような恋であっても。
いっそ自分も、修と同じ同性愛者だったなら……
だが英司は異性愛者で、事実、これまで同性を愛したことは一度もない。そんな生粋の異性愛者が、修を恋人として愛せる保証はきわめて薄い。百歩譲って演技なら可能だとしよう。が、こと恋愛の場合、演技だけではどうにもならない場面もある。例えば……
「水沢さん」
不意に名を呼ばれ、振り返る。
今まさに英司を悩ます張本人が、やはり代わり映えのしない能面で、しかし、どこか深刻そうな面持ちで英司の顔を覗き込んでいた。
「ななな、何だよ」
なんとなく気まずさを感じて、つい英司は目を逸らす。
言えるわけがない。たった今、この男と二人でホテルに入る場面を想像をしてしまったなどと……
「台風が」
「は? ……台風?」
「はい。正しくはサイクロンですが、数日中にムンバイを襲うものとみられています」
「ムンバイ? ……あっ!」
最初は何の話か見当もつかなかった英司だが、さすがにその名前を耳にすると、正気に戻らずにはいられなかった。
ムンバイでは現在、東洋建設と現地企業との合弁による海上橋の建設が進められている。先年落札を勝ち取った円借款によるODA案件で、その受注合戦は、英司と修が属するチームが担当した。現在はおもに修と英司が窓口となって、クライアントであるJICAとやりとりをしている。
ただ、案件自体はすでに工事課に委ねており、仮に何かしらのトラブルが起こるにせよ対処するのは彼らの仕事だ。英司たちに出来ることといえば、各部署からの事後報告をもとにレポートをまとめ、それをクライアントに提出すること。極端な話、現地からの情報が出揃うまではノータッチでも構わない。
むしろ今はじたばたせず、冷静に現地からの情報を集める方が得策だ。それは修も理解しているはずで、しかし気のせいか、今の修はやけに浮足立って見える。
「現在はまだインド洋上にあるサイクロンですが、中心気圧はすでに九五〇ヘクトパスカルを下回っています。このままムンバイが襲われれば現場も被害は免れません」
「だろうな。ただ――」
「それで僕、今から現地に飛ぼうと思います」
「ただ、慌てる必要は……は?」
一瞬、英司は耳を疑う。――飛ぶ? これから? 現地へ?
「ムンバイから、詳しい状況を水沢さんにお伝えします。それで、水沢さんには本社に残ってレポートの作成をお願いしたいのですが、よろしいですか」
「待て待て待て!」
立ち上がろうとする修を、慌てて英司は引き留める。
「俺ら営業が現地に飛んでどうなるってんだ! 現場のことは現場のスタッフに任せりゃいい! 俺たちはただ、ここで現地からの情報を待てばいいんだ!」
「でも、もし何か重大な事故が発生したら……橋が落ちたらどうするんです!」
「落ちねえ! 落ちねえから! お前、うちを何だと思ってんだ! 日本を代表するゼネラルコンストラクターだぞ!? たかが台風の一つや二つで落ちる橋なんか架けねえよ馬鹿!」
「あなたは心配じゃないんですか! あれは、あなたが架けた橋なんですよ!」
「お前が架けた橋だから安心しろっってんだ! この橋を設計する時、お前が設計課にめちゃくちゃな注文入れてたの、俺、知ってんだぞ! 現地の気候データどっさり抱えて、百年に一度のサイクロンでも耐えられるようにってよ! お前のせいで設計が遅れて、JICAにどれだけ頭下げに行かされたか、お前、忘れたなんて言わせねぇぞ!」
ふと視線を感じて、周囲に目を移す。キーボードを打つ手を止めたフロア中の社員たちが、ぽかんと英司たちを見つめていた。
「あ、いや、これは……」
「あなたがくれた仕事だから」
「は?」
しまったと思った時には、もう修は英司の手を振り払い、オフィスの外へと駆け出していた。その背中を茫然と見送りながら、英司は、たったいま抱かされた感情にただ途方に暮れていた。
かわいい、と、思ってしまった。
英司がくれた仕事だからと訴える修の、丸く見開いたまっすぐな瞳を、紅潮した頬を、縋りつくような、それでいて毅然と突き放すような矛盾に満ちた表情を――かわいいと、愛らしいと、そう、思ってしまった。
結局、そのまま修は本当にインドに飛んでしまった。
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