女装レイヤー×陰キャオタク

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 個室ビデオ店から出ると、すでに外は朝だった。  喧騒の潮が引いた明け方の繁華街。夜の喧騒が嘘のようにがらんと静まり返った街を、英司は一人、駅方面へと歩く。  始発間もないがらんとした電車に乗り込み、会社に向かう。タブレットPCでメールをチェックすると、案の定、通知で画面が埋まるほどの新規メールが届いていた。そのほとんどはムンバイに飛んだ修からのもので、メールにはいずれもレポートと思しきデータが添付されている。  そうこうするうち、電車は会社の最寄り駅に到着する。夜勤の警備員が護るゲートを抜け、無人のオフィスに戻ると、改めて英司は添付データをダウンロードした。今回のサイクロンによる被害状況はクライアントのJICAも注視しており、できれば午前中に現状をまとめておきたい。その点、修の報告はよくまとめられており、英司の作業負担を随分と減らしてくれていた。  つくづく優秀な同僚だと感心する。飛び交う雑多な情報から必要なものだけを選び出し、数値化する。入社当初から修はこの能力がずば抜けていて、赤ん坊レベルのコミュ力をむしろ補って余りあるほどだった。だから今プロジェクトの立ち上げ当初、修がメンバーに選ばれなかった時は、なぜ、あの男に声をかけないのかと心底不思議に思った。  ただでさえ馴染みの薄い土地に大型インフラを建造するODA案件は、より高い専門知識と深い情熱とを持ち合わせた人間でなければこなせない。修をプロジェクトに推薦するのは、英司に言わせれば当然のことだった。  だから修が、あんなにも英司に感謝していたとは思ってもいなかった。  スマホを取り出し〝わかめ子〟のDM欄を開く。修が日本を発った直後、〝わかめ子〟のアカウントに送られたメッセージには、〝みけお〟の、否、修の感謝がこれでもかとしたためられていた。  純粋に、英司は嬉しかった。そして同時に、ひどくやるせなくもあった。  あんなにも謙虚で真摯な人間を愛せない自分が英司はもどかしかった。昨晩も、カプセルホテル代わりに入った個室DVD店で試しにゲイ向けのアダルト作品を観てみたが、結局、最後までソッチの興奮は得られなかった。嫌悪感こそなかったが、せいぜい、「こういうものが好きな奴も世の中にはまぁいるんだろう」以上の感想はなかった。  やはり、どうあっても自分は異性愛者なのだ。こればかりは善意や義務感ではどうにもならない。なのに――  ――あなたがくれた仕事だから。  あれから、気付くと修のことばかり思い出している。がらんと空いた隣の机をやけに広く感じる。今この瞬間、あいつはどこで何をしているのだろう。異国の嵐に揉まれながら、何を思い何を感じ、何を願っているのだろう――そんなことばかり気にしている。 「……何なんだ、俺」  どのみち恋人としては愛せない。そんな男を、気付くと想ってしまう自分はやはりどうかしている。友人? 同僚? いや、これは、そんな通り一遍の関係からくる感情とは違う。あえて類するものを挙げるなら、やはりこれは恋だ。が、しかし…… 「いや、仕事だ仕事!」  買い置きの栄養ドリンクを胃袋に流し込み、改めて英司は机に向かう。やがて一人二人と社員たちが出社を始め、始業時間が迫る頃には、オフィスはすっかり普段の賑わいを取り戻していた。それでも英司の隣の机だけは最後まで埋まることなく、その空虚さが英司は悲しかった。  ようやく現状報告のレポートをJICAの担当者に送りつけた時には、すでに時刻は正午近くに迫っていた。そういえば朝食を食べ忘れたことに今更のように気付いて、すきっ腹を抱えたまま英司はビル地下の定食屋に向かう。体重はまだ理想のラインを下回らない。が、今日はとにかくガッツリいきたい。  スマホが着信を告げたのは、英司が、目指すスタミナ系定食屋のあるフロアに降りた直後のことだった。  ――まさか、もう日本に?  いの一番にあの男の照れ顔を思い出してしまった自分を心の中でぶん殴り、懐からスマホを取り出す。表示されていたのは、しかし太一からの番号で、そのことにがっかりしてしまう自分に覚えず英司は苦笑する。 「もしもし?」 『よう英司。今週の土曜、空いてるか?』 「空いてるって……まさか、また合コンがどうとか言うんじゃねえだろうな」 『当ったりー! 来るか? 今度こそ来てくれるよな? 今回はさぁ、お前の写真見てドンピシャだって子がいてさぁ』  早くも英司はうんざりする。どうやらまた英司の写真を勝手に使ったらしい。 「行くわけねえだろ! こっちは今それどころじゃねえんだ! あと、勝手に俺の写真使うなって言ったよな? まさか忘れたなんて言わせねえぞ」 『怒るなよ。別に、カードの暗証番号を教えたわけじゃねえんだし』 「同じようなもんだろ! とにかく俺は行かねえからな。その子には後でちゃんと謝っとけよ」 『お前こそ、いい加減にしろよ』 「……は?」  通話を切りかけた英司は、その言葉にふと指を止める。 「な……何だよ、逆ギレか?」 『お前、いつまでそうやって逃げ回るつもりだよ。そりゃさ、俺たちオタクにとっちゃ恋愛なんてエベレストに登頂するより難易度高いミッションだぜ? けどさ、そのミッションに挑まなきゃ俺らはいつまで経ってもボッチ陰キャクソオタクのままなんだよ。深夜アニメの推しでブヒる悲しき萌豚のままなんだよ、わかるか?』 「それは――」  一度は忘れかけた不安が――胸の底に押し込んだ不安がむくりと頭をもたげる。  自分は、一体いつまでオタクを続けられるのか。そもそも、今のままオタクを続けても良いのか。漠然と抱く未来への重責。いつかは恋人を作り結婚し、人並みの家庭を設けるべきではないかという圧。それが英司の心を、精神を無言のまま圧し潰す。  太一の物言いは無茶苦茶だ。おまけに残酷だ。が、紛れもなく正論ではあるのだ。そのド直球な正論は、社会人として、何より男として、このままではいけないと焦る英司の心を否応なく揺り動かす。 「わ……わかった。行くよ」 『おっマジか? よっしゃ、じゃあ向こうの幹事にも伝えとくわ。じゃあな』  ほどなく電話は切られ、通話の切れたスマホを懐にしまいつつ英司は小さく溜息をついた。これは、ある意味良い機会なのかもしれない。ああそうだ。自分のようなチキン野郎は、こうでもしなければ何も変わらない。恋人を作り、結婚を前提に関係を深め、いずれは社会人として真っ当な人生を……  あいつは、やはり傷つくだろうか。 「……くそっ」  わかっている。  身勝手は百も承知だ。それでも、いつかは諦めさせる必要がある。英司は同性を愛せない。少なくとも、修が英司を愛するのと同様に修を愛せる保証はどこにもない。演技なら可能だろう。が、例えばベッドに入った時、やはり男は抱けないと――愛されないのだと知られれば、きっと、余計に傷つけてしまう。  ああそうだ。あいつの傷を最小限に済ますためにも、これは必要な処置なのだ。さすがに英司が恋人を設ければ、修も、今の想いを断ち切ってくれるに違いない。それでもなお英司を想うと言うのなら、その時はその時だ、好きに想わせておけばいい。あいつも、そうした未来を覚悟で英司を想うと決めたのだろう……  その修は、予想以上の被害が出た現地の情報収集のために、上司から滞在延期を命じられている。帰国日は未定。ただ、今後の状況次第では滞在は一か月、あるいはさらに伸びる可能性もあるという。  少なくとも、合コンの日時までは日本に戻らないだろう。  そのことにほっとしながら、もどかしさを感じる自分に英司は気付いていた。
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