バーチャル・ドーター

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「いつまで寝てるんだ、奈々子? もう朝だぞ」  娘の部屋をノックしながら俺は言った。  俺の名前は鷺沼悟郎。58歳のサラリーマンだ。俺はいま、いつまで経っても朝食を食べに来ない娘の奈々子を起こそうと、彼女の部屋の前にいる。  一人娘の奈々子は現在、高校一年生。俺より10歳年下だった妻とのあいだに生まれた子だが、妻は奈々子が5歳のころに不慮の事故で遠くに行ってしまった。それから奈々子は、俺が男手一つで育てている。仕事と子育ての両立は難しく、正直に言えば奈々子のことはちゃんと見てやれていないが、それでも奈々子は、少なくとも道を踏み外すことなくここまで育ってくれた。仕事が忙しくて機会は多くないが、ふたりでいるときはそれなりに会話もするし、仲は悪くないと思う。まあ、いわゆる最近の若者がする話題には、ついていけないのだが……。  だから奈々子は、俺のことを無視したりしない。  しかし部屋にいるはずの奈々子は、俺の言葉に何の反応も示さなかった。  夜更かしでもして、声が届かないほどに熟睡しているのだろうか?  こんなことは、いままで一度もなかったのだが……。 「入るぞ、奈々子」  俺はそう宣言してから奈々子の部屋に入った。  しかし娘のベッドは、空っぽだった。  俺は部屋を見回した。と言っても大きな部屋ではない。奈々子がその部屋にいないことは、すぐにわかった。  奈々子が、失踪した?  俺の頭がまっしろになりかけた、そのときだった。 「お父さん」  部屋のどこからか、小さく声が聞こえた。それはたしかに奈々子の声だった。 「お父さん、こっち」 「どこだ、奈々子。どこにいる?」  俺はもう一度、部屋を見回した。しかし奈々子はやはり見当たらない。  すると今度は大きな声で、奈々子の声が響いた。 「パソコンだよ、お父さん」 「パソコン?」  声に従って、俺は机の上のパソコンを見た。  電源の入ったパソコンの画面には、奈々子の姿が映っていた。 「何をやっているんだ奈々子。いまどこにいる、んだ……?」  俺は奈々子がテレビ電話みたいなものを使って話しているのだと思った。  しかしどうも様子がおかしい。まるで奈々子自身が……。 「ごめん、お父さん。気がついたら私、パソコンの中に入っちゃってた!」  まるで奈々子自身が、パソコンの中に入っているかのようだった。さらに言えば奈々子の姿は実写ではなく、3DCGアニメーションといった風だった。 「ど、どういうことだ。本気で言っているのか?」  俺が訊ねると、奈々子は言った。 「うん。昨日の夜、動画を見ていたらとつぜん画面が光ってね、それでどうもパソコンの中に吸い込まれちゃったらしくって、この状態」  奈々子は画面の中をすいすいと泳いでから、妙なポーズを決めて言った。 「私、二次元になっちゃった!」  俺はこめかみを抑えながら言った。 「仮にそれが本当だとして、なんでそんなに明るいんだ……」 「だって夢の二次元だよ? 誰もが行きたいと願ってやまない世界に私は来てしまったんだよ? これが喜ばずにいられるか!」  娘はデュフフと笑った。 「と、とにかく、大丈夫なのか? 体の調子とか?」 「全然大丈夫。なんかネットを経由していろんなところに行けるし、いろいろできるみたいだし、超便利。人生始まったわ。だから心配しないで、お父さん。私はこの姿で生きていきます」  いきなり何を言っているんだこいつは。親の顔が見てみたい。 「そんなこと言ったって学校は? 将来の夢は? この先、どうやって生きていくつもりなんだ?」  俺はやつぎばやに訊ねた。奈々子にはまっとうな人生を歩んでもらいたい。それが親としての俺の願いだった。  だが、奈々子は答えた。 「それなんだけどね、せっかくこの姿になったんだし、Vチューバーにでもなろうかなと思って」 「ブイ……、なんだって?」 「お父さんには言ってなかったけど、やってみたかったんだー、Vチューバー。昨日もその動画を見ていたときにこうなっちゃったんだけどね、その動画がおもしろいのなんのって。そしたらなんと私自身がバーチャルになっちゃったじゃありませんか。これはもうこの素質を生かしてやってみるしかないよね。ってことで私は世界初のリアルJK・Vチューバーとしてやっていくよ。あっ、動画配信で入ったお金はちゃんと家にも入れるから安心して。もし有名にでもなっちゃったりしちゃったら、けっこう稼いじゃうかもよー? それじゃあ私はいろいろと準備があるから、ネットの海を徘徊しに行くね。ばいばーい」  一気に言い終えると奈々子はパソコンの画面から消えた。  俺は天を仰いだ。  天国にいる妻よ、聞こえますか?  奈々子が二次元になってしまいました。しかも、それを利用してブイなんちゃらになるらしいです。58歳の親父にはわけがわかりません。これも仕事にかまけていたことのツケなのでしょうか。娘が急に、遠くに行ってしまったような気がします。  っていうか本当にどこに行ったんだよ!? 「おい奈々子、帰ってこい! おまえの住む世界はそこじゃないだろう! おい! おーい!」  奈々子が消えたあとのパソコンを揺らしながら、俺は叫んだ。  これまでとは次元が違う、危機だった。
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