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「役に立ちたかっただけなんだけどな」
言葉とは裏腹に、誰も恨んでいないような、すがすがしい顔でそいつは会社を去った。私はそいつの全てが腑に落ちない。メッセージアプリのIDを交換してしまったことも。やっぱり、嫌いだ。動揺させられたからだと思う。私は穏やかに、鮟鱇でいたいのだ。
もしもこれが夢で、私が人間に戻っていたら、そいつのIDを消そう。そう決めて、私は眠りについた。腹立たしいことに、夢でそいつを見た。『私は鮟鱇なのだ』と告げると、そいつは『愛嬌があっていいじゃないか、私は好きだ。美味しいし』と、楽しそうに笑っていた。夢の中でも空気が読めないやつだった。
それから、3日経つ。私は相変わらず鮟鱇のままだ。何日この姿で過ごしただろうか。だんだん慣れてきて、釣りの実力も上がった。釣れない時はあれど、極限の空腹の中必死に捕まえた獲物で胃が満たされると、何とも言えない幸せな気分になった。これも久しく忘れていたことだ。食べると、全身に透明な力がみなぎる。生きているという実感がわいた。ただ、鮟鱇は一瞬で獲物を丸のみにしてしまう。食べられるか食べられないかくらいの味覚はあるものの、味わうという感覚はない。第一、甘みという感覚が無いのだ。甘党の私はそれがつらい。魚介類も人間時代から好きではあったが、いい加減火の通ったものが恋しい。
だんだん贅沢になって来たなと内心で笑う。今の私の娯楽は、釣りをしないハンティングだ。そこまで高い遊泳力はないものの、キアンコウは水面のほうまで上がって行ける。そこで私は、自分が驚くほど大物の鮟鱇だと知った。水面に浮く海鳥を見た途端、『あ、食べられるサイズだ』と思った。
ばしゃん! 海鳥が一羽海中に消えた。翼を広げる暇も、鋭いくちばしを使う暇もなく、私のお腹の中で、海鳥が蠢いている。私は興奮しながら、海底に戻った。
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