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ふと、元々暗かった目の前がさらに暗くなった。背後から影がかかったのだ。人の影が…一人、二人、三人。
振り返れば、ぬぼうっとした様でそこに立っている、見るからに堅気ではない男達。三人揃って同じ顔で里衣を見下ろしている。
無表情に、しかりねっとりとしたその視線を里衣は知っていた。
――吉原会所の吉原衆。
吉原に限らず、江戸の治安を司るのは町奉行だが、実質、吉原で力を持つのは彼等である。その実いつだって、彼等は遊女を見下し、好色な目で眺め、時にはその権力を使って好き勝手やる。泣きを見た見世や娘がどれほどいたか。
表向きは静かに、けれどもその内側は卑しく爛れている。むしろそんな内面を隠すために、表面だけ無理やり取り繕っている。そういう顔で男たちは里衣を見ていた。
追っ手だ、と悟ると同時に里衣は駆けだした。
背筋を冷たい汗が伝う。捕まるわけにはいかない。捕まったら、またあそこに戻される。
あそこは苦界だ。したくもない愛想笑い、心にもないおべっか、きついだけのお稽古。
乱暴な男達、居丈高な姐さん、嘲笑の混じった目を向けるひやかし客に、貯めた金を何かにつけ取り上げる店主。
なにより足抜けが見つかればきつい折檻が舞っている。見せしめにされた女たちを、里衣は嫌というほど見てきた。
背後から追いかけてくる足音が聞こえる。風が、男たちの含むような笑い声を耳に届けた。その声はあっという間に近づいて、里衣の着物に、髪に…触れ、掠り、掴もうと伸びてくる。
境内の前から別の人影が飛び出してきて――挟み込まれたかと里衣の足が止まる。同時に背後から伸しかかられて、地面で胸を打った。
「おいおい、物騒だなぁ」
驚いた声は前方から。
先程挟み込まれた影、二つ。こちらも男だ。武家らしき男が、商人らしき男に羽交い絞めにされて、しかしけらけら笑っている。先ほどの声は武家のものらしい。
背中に伸し掛かった男が、「取り込み中だ!」とどすの利いた声で脅すも、けらけら笑いは崩れない。武家を羽交い絞めにしている商人は眉に深々と皺を刻んだ。
「おい、これはなんだ」
「さあ」
「貴様の仕業か?」
「いやぁ」
商人の皺がさらに深くなった。
「あれじゃないですかぁ?
きっとアンタの責任感だか、仕事魂だかが、ならず者を向こうから呼び込んだんだ。
流石は天下の犬だなぁ。事件は向こうからやってくる!」
いやぁ、参った。とおどける武家に、彼を羽交い絞めにした商人の、腕の筋肉が盛り上がった。
「誰が犬だ!てめぇは鼠じゃねえか
だいたい、ここに逃げ込んだのはてめえだろうが!」
「偶然ですよぉ」
商人の男は、背丈だけなら小柄な部類になるだろう。一方の武家は背丈だけなら長身だ。…幅は反転するが。
きゃんころきゃんころ。小型犬が大型犬にじゃれているようにも見えた。
「おい、てめえらっ!」
里衣の脇から別の男が前に出て、そうして懐から小柄を抜いた。
「こっちは見ての通り、取り込み中だ。そっちの揉め事はそっちで解決してくんな!」
「なるほど、道理」
「いや、納得しないでぇ。ほらぁ、娘さんが危険な目にあってますよ。
きっとこれは追い剥ぎだ。いや、数人がかりで手籠めにしようってのか?
あ、でも痴情のもつれだったりする?
三人同時は流石に俺も引くけどぉ」
間延びした口調は武家の癖らしい。
商人は武家から腕を解き…そしてその脇腹に肘鉄を打ち付けた。
「なんでぃ、お武家様も混じりたいのかい?」
背後の男が、里衣の着物の袂に腕を突っ込んだ。
瞬間、男の悲鳴と共に、里衣の背中から重みが消えた。目の前には大きく足を振り上げる武家。伸し掛かっていたらしき男は、少し離れた砂利の上でひっくり返っている。目測で自分との距離を測るに…どうやらぶっ飛んだらしい。
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