この世で最悪な出会いについて。

2/7
前へ
/7ページ
次へ
 ふと、元々暗かった目の前がさらに暗くなった。背後から影がかかったのだ。人の影が…一人、二人、三人。  振り返れば、ぬぼうっとした様でそこに立っている、見るからに堅気ではない男達。三人揃って同じ顔で里衣を見下ろしている。  無表情に、しかりねっとりとしたその視線を里衣は知っていた。  ――吉原会所の吉原衆。  吉原に限らず、江戸の治安を司るのは町奉行だが、実質、吉原で力を持つのは彼等である。その実いつだって、彼等は遊女を見下し、好色な目で眺め、時にはその権力を使って好き勝手やる。泣きを見た見世や娘がどれほどいたか。  表向きは静かに、けれどもその内側は卑しく爛れている。むしろそんな内面を隠すために、表面だけ無理やり取り繕っている。そういう顔で男たちは里衣を見ていた。  追っ手だ、と悟ると同時に里衣は駆けだした。  背筋を冷たい汗が伝う。捕まるわけにはいかない。捕まったら、またあそこに戻される。  あそこは苦界だ。したくもない愛想笑い、心にもないおべっか、きついだけのお稽古。  乱暴な男達、居丈高な姐さん、嘲笑の混じった目を向けるひやかし客に、貯めた金を何かにつけ取り上げる店主。  なにより足抜けが見つかればきつい折檻が舞っている。見せしめにされた女たちを、里衣は嫌というほど見てきた。  背後から追いかけてくる足音が聞こえる。風が、男たちの含むような笑い声を耳に届けた。その声はあっという間に近づいて、里衣の着物に、髪に…触れ、掠り、掴もうと伸びてくる。  境内の前から別の人影が飛び出してきて――挟み込まれたかと里衣の足が止まる。同時に背後から伸しかかられて、地面で胸を打った。  「おいおい、物騒だなぁ」  驚いた声は前方から。  先程挟み込まれた影、二つ。こちらも男だ。武家らしき男が、商人らしき男に羽交い絞めにされて、しかしけらけら笑っている。先ほどの声は武家のものらしい。  背中に伸し掛かった男が、「取り込み中だ!」とどすの利いた声で脅すも、けらけら笑いは崩れない。武家を羽交い絞めにしている商人は眉に深々と皺を刻んだ。  「おい、これはなんだ」  「さあ」  「貴様の仕業か?」  「いやぁ」  商人の皺がさらに深くなった。  「あれじゃないですかぁ?  きっとアンタの責任感だか、仕事魂だかが、ならず者を向こうから呼び込んだんだ。  流石は天下の犬だなぁ。事件(仕事)は向こうからやってくる!」  いやぁ、参った。とおどける武家に、彼を羽交い絞めにした商人の、腕の筋肉が盛り上がった。  「誰が犬だ!てめぇは鼠じゃねえか だいたい、ここに逃げ込んだのはてめえだろうが!」  「偶然ですよぉ」    商人の男は、背丈だけなら小柄な部類になるだろう。一方の武家は背丈だけなら長身だ。…幅は反転するが。 きゃんころきゃんころ。小型犬が大型犬にじゃれているようにも見えた。  「おい、てめえらっ!」  里衣の脇から別の男が前に出て、そうして懐から小柄を抜いた。  「こっちは見ての通り、取り込み中だ。そっちの揉め事はそっちで解決してくんな!」  「なるほど、道理」  「いや、納得しないでぇ。ほらぁ、娘さんが危険な目にあってますよ。  きっとこれは追い剥ぎだ。いや、数人がかりで手籠めにしようってのか?  あ、でも痴情のもつれだったりする?  三人同時は流石に俺も引くけどぉ」  間延びした口調は武家の癖らしい。  商人は武家から腕を解き…そしてその脇腹に肘鉄を打ち付けた。    「なんでぃ、お武家様も混じりたいのかい?」  背後の男が、里衣の着物の袂に腕を突っ込んだ。  瞬間、男の悲鳴と共に、里衣の背中から重みが消えた。目の前には大きく足を振り上げる武家。伸し掛かっていたらしき男は、少し離れた砂利の上でひっくり返っている。目測で自分との距離を測るに…どうやらぶっ飛んだらしい。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!

8人が本棚に入れています
本棚に追加