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「俺、そういうの嫌い」
武家が胸を張る。商人は顔を抑えて「あ~」「う~」と唸っていた。
武家は里衣を優しく起こしてくれて、砂まみれの着物をはたいてくれる。にっと笑った顔はなかなか端正だ。
「犬ぅ、娘さん頼んだ」
「だから、誰が犬だ。この鼠野郎!」
里衣の背中が優しく押されて、そうして商人がその体を受け止めてくれる。
よく見ればこっちも少々いかついが、いぶし銀という言葉がなかなか似合う顔立ち。
「さぁさ、皆様ご観覧!!
火事と喧嘩はお江戸の華。これよりお見せしますは八百八町の一舞台っ!
今宵もまたこの貞…忠之の正義が光りまする。
悪党共よ、我が剣の錆となれ!――つか観客少ねぇ」
商人が頭を抱えて蹲る。もごもご呟いて、しかしその一つとしてまともな言葉になっていない。
武家の方は男たちと臨戦態勢。男たちは揃って小柄を抜きはらい、月夜にぎらぎら刃を煌かせている。対峙する武家は両腕をだらりと落としたまま、刀の柄に手をかけてもいない。
場違いにも、里衣は感動していた。まるで読本の世界のようだ。
格好良い登場人物。危ないところを助けられる娘。悪党に囲まれて、これから物語は終局へ。
助けてくれた者たちが、役者なみに顔が整っているのもいい。
武家の男は優男風。口調が剽軽で人好きしそうだ。
商人の男はよく解らないけれど、真面目そうな人柄がにじみ出ている。
里衣はすっかり現状に陶酔していた。
「と、とにかく娘さん。もう少し下がりなさい」
商人は唸りながらも里衣の肩を抱いて、ゆっくり|後退(あとじさ)る。
「今日は厄日か…。せめて、湯屋に入らなければ。
いやそもそも、湯屋に入っていくヤツを見つけなければ」
唸りながら呟く商人の声は、この世全ての後悔を押し込めたようだった。
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