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「さて、娘」
「え…はい?」
「危ないところであった。ここいらは浅草が近い。
ゆえに夜間はならず者が寺社を溜まり場にしているのだ」
では、あれは吉原の追っ手では無かったのか。
安堵すると同時に、早とちりに赤くなる。とはいえ、危険な目にあったのも事実だ。助けられたことも。
とりあえず、目の前のどうやら偉い人らしい商人に、礼を言うべきだ。
しかし、改めてこの商人は何者だろか。
今時、商人が武家よりも幅を利かせているのは珍しくないが。
あと、できるなら降ろして欲しい。
色事の関わらぬ場で、男性に抱き上げられるのは、幼いころ以来だ。
嬉しいが、そろそろ恥ずかしい。
「お、降ろしてください」
里衣は袖で口元を覆い、顔を少し伏せて頼む。見世にいる時、男たちは女のこういった仕草を好み、そして頼みを聞いてくれた。
「うむ」
商人は頷く。しかし腕の力はさらにこもる
「あの?」
「里衣よ」
「え、はいっ」
返事をしてから、里衣は目を見開いた。
商人の顔は静かだ。無表情だ。だからこそ、怖い。
商人は重く頷いて、足元の仁ノ介を呼ぶ。
先程まで咽び泣いていたのもどこへやら、仁ノ介は涙の色も残さぬ顔で立ち上がり頷くと、倒れ伏したままのならず者たちを縛り上げ、役人を数人だけ残して智光院の外へと出て行った。
「ここは吉原からも近い。そんな場所に君のような美しい娘が、ちぐはぐな町娘の格好でいれば、怪しまれるのは道理。
なにより、届け出のあった棒手降りの娘と、君が纏っている着物は同じ柄だ」
ざっと、里衣の顔から血の気が引いた。
慌てて商人の腕から逃げようとするも、その腕はぴくりとも動かない。たとえ逃れられても、残っている数人の役人を抜けるのは無理だろう。
「吉原の実情は、私も知っている。逃げ出したくもなるのだろう。
だがそこに他人を、望まれもせず巻き込むのは…私は黙認できん。
君は、吉原を抜け出すために無関係の娘を利用した。
女が大門を出るには、手形がいる。君からそれを奪われた棒手振りの娘は、君が早朝までに戻らねば、君を逃がした罰として、仲の町で見物客を集め、見せしめに折檻されるそうだ」
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