この世で最悪な出会いについて。

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 里衣の体は、まるで氷か巌のようだ。  指一本も動かない。息すらも忘れて、商人の言葉を聞いている。  「私があれとくだらぬ追いかけっこをしている間も、江戸では事件が起きる。大小様々に。 私はあれを捕まえるためにも、都度、詰所と連絡を取っていたが、伝えられた情報の中に棒手降りの娘のものがあった。  無論、吉原のことは吉原衆が受け持つ。常なら『こちら』までは上がってこない。  しかし今回は棒手降の娘さん…その両親から訴えがあったのだ」  静かな声は、しんしんと里衣に染み込む。そこに、責める色も憐憫もない。  そう、その通りだ。  里衣は手形を手に入れるために、見世に出入りのあった棒手降りの娘をはめた。  見世の裏に呼び込んで、里衣の身の上話を語って同情を誘い、油断させて。 茶に仕込んだ眠り薬で眠らせた。  娘から着物と小道具、そして手形を奪い、娘には自分の着物を着せてやった。そうすれば、娘を見つけた者達はどう思うだろうか。  まず、あの娘が手引きしたと思うだろう。そうでなくとも、あの娘が関わっていると思ったはずだ。ならばまず、娘から里衣の逃げ先を割らせる。この際、里衣の居場所を娘が本当に知っていようがなかろうが関係ない。  逃げた遊女が出た、というのが一番の問題なのである。  一つの成功例が出れば、どうしたって後に続くものがでる。それを許してはならない。  そのための見せしめだ。商売道具を失った見世の主など、きっと腸が煮えくり返っているだろう。娘は早々に襤褸雑巾と化すはずだった。 どうあれ、里衣の逃げる時間さえ稼げればいい。    しかしまさか、その見せしめが明日まで持ち越されるとは思わなかった。  非道な吉原衆にも、堅気の娘には心が痛んだか。  なんと余計な優しさか。――理不尽だ。私はこうであるのに。  「つ、辛かったんです」    涙を含ませ、弱々しく商人に語る。細い指で、その胸元をまさぐる。全て、吉原で学んだ仕草だ。  「里衣」  「はい」  「君は吉原に帰らねばならない。  君が自ら戻ってくれるのなら、口添えぐらいはしてやろう。 いくら連中とて、私の言葉を無視はすまい。そう酷い目にはあわずに済むはずだ。  少しでも君に、君が身代わりにした娘を哀れに思う心があるのならば、このまま私と共に戻ってはもらえぬか?」  ――あるか、そんなものっ!  だって、ずるい。里衣はずっと籠の鳥。老いて、腐って、朽ち果てる。  棒手降りの娘は、貧しくともどこへだってその足で行ける。いろんな場所に行って、いろんな人に出会い、いろんなものを見られる。  普段、里衣を見下す吉原衆ですら。あんな、あんなっ、みすぼらしくて美しくもない娘に同情した。――この現実!不公平!  あそこにいるのが、なぜ里衣ではないのか。  こんなに苦界で頑張っているのに、何一つとして見返りが無い。あの娘と、里衣との違いはなんだ。  親の愛か、周りの存在か、社会の仕組みか。  ただただ、悔しい、妬ましい。  だから全てを公平にして、里衣は自由へと飛び出したのに。  そんなささやかさすら、許されない。  ああ、どうしたら里衣は救われる?里衣がこそ、救われる??  先ほどまで、とても心地よかった。まるで読本の登場人物のように、里衣は里衣の中で、美しく、素晴らしく、輝く存在であったのに。  この出会いに、胸をときめかせていたのに。  「ねえ、ぬし様」  「む」  ふふ。と商売女の顔を貼り付けて、里衣は商人を見上げた。きっと商人などではない、この男を。    「ぬし様のお名前、教えてくれんせん?」  「む、まだ名乗っていなかったか」  残った役人の一人が、先程商人が投げつけた印籠を差し出した。商人はそれを受け取ると、里衣に見せてくれる。  金箔の家紋。――車輪を象ったそれを、今の江戸で知らぬ者などいない。  里衣は狂ったように笑った。泣き笑いでも、あったかもしれぬ。  「私は、榊原忠之。北町奉行である」  どうやらその日の出会いは、この世で最悪なものであったらしい。  
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