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江戸の夜は暗い。
人が闇を支配する時代はまだ遠く、町を俯瞰すればかろうじて、ぽつぽつとした提灯明り。
暮れ四ツを過ぎれば町の境は総じて木戸を閉め、人の往来は無くなる。
とはいえ、こんな闇が凝った世界にも…であるからこそ都合のよい者たちはいるもので。
例えば辻斬り、例えば盗賊、例えば…まあ、あまり声を大にして語れる類ではあるまい。
彼らは懐に小柄と卑しい欲望を隠し、闇の中で舌なめずりをしている。――さて、今宵の獲物は如何?
――では。
馬道通りを南下して、花川戸町の向かいにあるこの寺院。「智光院」の敷地にひっそり隠れ潜むのは何者か。
つぎはぎだらけの着物、脇に置かれた天秤棒、震える小さな背中。
女である。まだうら若き娘であった。生っ白い肌に細い四肢、美しい顔は棒手降り姿に反してちぐはぐで、一目で訳ありとわかる。
――娘の名は里衣。
吉原の遊女である。中程の見世で、ほどほどに人気のあるごくありふれた普通の遊女。
遊女を指して“普通”もなにもあったものではなかろうが、里衣のいた世界ではそれが普通であり、常識だった。
里衣は夜の寒さに、ボロ布一枚の着物をかき寄せて震えた。
――追っ手は来ていないだろうか、このまま逃げきれるだろうか。そも、ここは江戸のどこら辺で、どちらに逃げたらいいのか。
里衣は逃げ出してきた。あの遊女の牢獄、吉原から。
里衣には自分の先が見えていた。おそらくこの先、里衣は一生あの牢獄から出る事は叶わぬだろう。里衣程度の人気では、借金を返しきるのはどれほど先か。
そこにきて、遊女というのはその激務ゆえに老いが早く、短命だ。
病にかかれば医者を呼んでもらえず、打つ術無しと戸板に乗せて運ばれていった姐さんたち。行きつく先は投げ込み寺だ。野山に放り出され、病と飢えと寒さで命が尽き、虫や獣に喰われながら朽ちていく。
たとえ運よく借金を返し終えたとて、長く花街で育った娘たちは外の世界の生き方がわからず、結局は戻ってくるのが常だ。
自由になりたい。それだけで逃げ出してきた。
けれど多くの遊女同様、里衣も幼い頃売られてきてから一度も吉原に出た事がない。いざ大門を抜け出せても、その先のあてもない。
ここまでは、見世の客から聞いた話を元に辿り着いたけれども、日が暮れれば右も左も解らず、往生しているうちに木戸を閉められて逃げ場も失った。今はかろじて智光院の敷地に身を潜めるのが精々である。
とにかく朝を待つしかない。そしてどこか雇ってくれるところを探す。
住み込みの飯屋などいいかもしれない。馴染み客の商屋は、子守を探していると言っていた。故郷に帰れば、家族は自分を売った事を後悔していて、暖かく迎えてくれるかもしれない。
――それが見通しの甘い妄想だなどと、里衣は解らない。
例えばその家族が、追加の借金をたびたび里衣のいる見世に頼みに来ているなどと知りもしない。
知らないが故の幸福さで、里衣は現実のこれまでと妄想の未来を比較する。どんな辛い未来でも今までよりはよっぽどマシだと、明るい展望をさらに膨らませた。
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