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「トロンボーンは中音域から低音域を担当する楽器だ。軽視されがちだけど、中音域楽器がないと音楽ってのは厚みがなくなってしまう。しかも、ハーモニーからメロディ―まで担当する何でも屋さんだね。こんなにいろんな仕事のできる楽器は他にないと俺は思ってるんだ。おまけに本気になればどんな楽器よりも大きな音が出せる。……大変だけど、俺はもっともっと斎藤さんにもこの楽器の魅力を知って欲しいと思ってるよ。大丈夫、斎藤さん楽譜も読めなかったのにこんなに上手になったんだもの、凄く頑張ってるし、才能もあると思うよ!」
これだよなあ、と私は思う。とにかく、息をするように誰かを褒めるのだ、彼は。こんな初心者で、世話になりっぱなしな私のことであっても例外なく。
――私が上達したとしたら、それは。……ここまで面倒みてくれた、先輩のおかげですよ。
窓際から入ってくる光で、先輩の茶色がかった髪がキラキラと輝いている。優雅にミルクティーを飲む彼は、恐ろしいほど絵になっていた。まるで芸術品だ。見た目も完璧で中身も完璧、こんな存在に一体誰が惚れずにいられるというのだろう。
「……私」
その言葉は、自然と私の唇から溢れていた。
「これからも、もっともっと演奏上手くなりたいです。だから」
正直、何も考えていなかったのだ。ただ流れで――今伝えないといけないような、そんな気がしてしまったのだろう。
「これからもずっと、指導してくれますか?……できれば、先輩が卒業してからも」
それは――とても卑怯な、遠まわしに遠まわしを重ねた告白のようなもの、だった。それ以外の受け取りもできる、しょうもない逃げ道を用意した言葉。どういう意味?と尋ねられても。意味をそのまま後輩の言葉として受け取り、笑顔で肯定されてもなんらおかしくない物言い。
言ってしまってから、狡いな、と感じた。相手からははっきりとした意思表示が欲しいと願うのに、自分の言葉は曖昧に誤魔化して察して貰おうなんだんて。不平等にも、ほどがある。
「いいよ」
そして、先輩はあっさりと肯定して、それで。
「でも、俺みたいな奴のこと、好きになっちゃだめだからね。一応言っておくけど」
「え」
「ごめんね、実はこれ、誰にも言ってないし……言えなかったことなんだけど」
私は、自分の失策を悟った。己がしょうもない言い方をしたせいで、自分の逃げ道を作ったせいで――彼に無理やり選ばせてしまったということに。
つまり。
「俺、付き合ってる奴がいるんだ。……しかも、同性と」
恐らくはずっと、隠しておきたかったのだろうことを、口にさせてしまったのだから。
「気持ち悪いって思った?……そうだよね、仕方ないよね。でも、できれば他の人には秘密にしておいてほしいな」
「え、いや、その……そんなことは、ないんですけ、ど。でも……」
「誰にも言ってないんだ」
御影先輩は苦しげに、再度同じ言葉を繰り返した。
「誰にも言えないんだ。……怖くて。本当に、好きなのにね。俺、実は滅茶苦茶臆病だから。情けないって、わかってるんだけど」
私は混乱して――やがて、全て筋が通ると気づいてしまった。
彼は、女子達と話すことにあまりにも躊躇いがない。誰にとっても親切だが、時には女子達との間が妙に近いと感じることもあった。それは女たらしというよりもまるで――同性に対するような気安さではなかっただろうか。そうだ、違和感はあったのに何故気づかなかったのだろう。
彼の気安さは。そして異性の後輩一人にこんなにも親切にしても、そこに別の感情が入る余地がなかったのは。
女子という存在が、彼の中では当たり前のように――恋愛対象ではなかったからだったとしたら。それこそ、女子の先輩が同じ女子の後輩の面倒を見てあげるのと同じような気持ちであったのだとすれば。
――ああ、そうか、私は……最初から。
一番最初から、フラれていたのだ。
否。最初から――成立するはずもない恋をしてしまっていたのである。
全てが繋がり、察した。そして一瞬でも、それをもっと早く教えてくれなかった御影先輩を恨んだ自分を――心の底から、恥じた。
「……情けなくない、ですよ」
彼は、本当に優しい。
私が彼のことを好きだと、そう告白しようとしたことに気づいて先回りした。
私が、フラれたことにならないように、と。最終的には同じ意味だったとしても、だ。
「本当に好きなら、ずっとずっと大切にしてあげてください……その人のこと。私も、一番大事な人なら……出来る限りの力で応援したいし、助けあって生きていけたら一番だって思いますから」
恋心に、正解なんてものはきっとない。
まだこの気持ちに蓋をすることはできないだろうけれど。最初から終わっていたこの感情も、先輩が誰かさんに向ける想いも、けして間違いなんてものではないはずである。例えそれを、鼻で笑う誰かや、否定したがる誰かが存在したとしてもだ。
一生懸命に、純粋に誰かを想う気持ちに。無理やりな答えを出す必要は、きっとない。
「……ありがとう、斎藤さん」
彼の唇が、もう一度“ごめんね”の形で動いた。私は首を振る。彼が謝る必要なんかきっとない。むしろ、謝らなければいけないのはこっちだ。ただそれを、彼が望んでいないのがわかるから口にすることができないだけで。
「これからも、仲良くしてくれる?」
「勿論です」
どこかで狡いのなら、きっとそれはお互い様だ。
そして恋愛にはならなくても、友愛に浮気なんてものはきっとないのである。
「これからも、よろしくお願いします……先輩」
報われなくても、好きでいるのはきっと自由。私はゆっくりと頭を下げた。
これからも、彼のことを好きでい続けよう。
いつかその気持ちを、恋愛から別のものに変えていける、その日まで。
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