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仕事が忙しく、写真を撮る気にならない日が続いた。けれど写真に写ったあの女性を見る度に、もう一度あってみたいという欲が沸沸と湧きあがる。もしかしたら幽霊かもしれないという恐怖も少しだけあったが、それは違うと私の勘が告げ、女性はもっと近しく、やがては私があの女性に近付けるような気がしていた。
そうして私が再びその地を訪れたのは、春の事だった。
昨年の秋には分からなかったが、その場所には一本の大きな桜の木があった。あまりにも似合わないが、まるで始めからそこにあったかの様なその姿は、どこか女性を思わせる。だから、ここにいるのだと確信してレンズを覗き、カメラを向けた。
パシャリ。
写真を見ると、彼女は落ちてきた桜の花びらを掌に乗せ、丁度息を吹き掛けていた所だった。あまりの美しさにもう一枚撮ってみようとレンズを覗くと、どれだけ花びらが落ちそうになっても、全てを落ちる前にその手で救う彼女が写っている。相も変わらず夏に見るような薄手のワンピースを着、つばの広い帽子を被っていたが、服も帽子も真っ白ではなく、薄桜の色になっていた。
レンズを数分覗き、彼女はどうやらその行動を繰り返しており、今この状況なら、また何処かへ行ってしまうという事はないだろうとカメラを素早く下げた。
「……いない」
ちらちらと辺りを見回すが、彼女はいない。が、一瞬で消えるなんてありえないともう一度レンズを覗く。
「!」
___彼女は変わらずそこに立っていた。
よくよく考えてみれば、ここに来てレンズを覗く前、彼女の姿を見てはいなかった。前回もそうであった。それを今頃気付くとは、それほど冷静さを失っていたのか。だが、この状況に___レンズを通してでしか彼女を見られないということに気付いた今は、なぜだかそれがとても嬉しく感じた。怖くはない。不気味でも無い。ただ……。ただ少しだけ、その朽ちず、衰えず、美しくあれる事を羨ましく思った。
私がいくら彼女に見惚れようとも、彼女が私に気付く事はなかった。視線を遮るものは少ないため、距離のせいでは無いだろう。私を見ないようにしている訳でもなさそうで、なら彼女には確かに私が見えていないのかもしれない。
「また、来ますね」
それでも、カメラをしまい彼女にそう別れを告げた時、見えないはずの彼女と目があった気がした。
その日から、私は暇さえあればその場所で彼女を撮っていた。
そうしてカメラを向け続けて一ヶ月経った頃には、彼女は私が見える様になっており(私はまだレンズ越しでしか見えないが)、夏が終わる頃には彼女と話すことが出来る様になっていた。どうしてかはわからない。けれど、なんとなく、もうすぐ彼女に会える様な気がしていた。
それから少し経って、季節は彼女と初めて会った時まで進んでいた。
今日は何を話そうかと気分を高揚させ、その場所でいつもの様にレンズを覗き、彼女に会おうとして
「こん、にちは」
だが彼女は既にそこにいた。紅の薄手のワンピースを着、つばの広い帽子を被ってそこに立っていた。
「…こんにちは」
鈴を転がす様な声。彼女は、優しい瞳を私に向ける。
「ひ、彼岸花が綺麗に咲いていますね」
驚いて、思わず差し障りのなさそうな話題を振った。
「!…えぇ、それは美しいことでしょう」
「去年は咲いていなかったと思うのですが…誰かが植えでもしたんですかね」
「それは貴方が___」
彼女はゆっくり私に近付き、そっと私の頰を撫でた。存在があまりにも遠く、夢にも思わないその出来事に、彼女の移動と共に咲いては枯れを繰り返す彼岸花を見落としていた。
「貴方が知らぬ間に植えていたのでしょう」
「私が、ですか」
そんな記憶はどこにも無い。
「はい。そして、貴方がここまでこの彼岸花を美しく咲かせたのです」
そんな熱心に世話をした覚えもない。
「で、でしたら今すぐ抜かなければ!ここは私の所有する土地ではありませんし…」
「いいえ、いいえ。それは出来ません」
「どうして…」
彼女は私からすっと離れると、真っ直ぐに私を見た。
「あとは、枯れるだけなのです」
「えっ?」
「この花々は今を美しく生きております。もう種に戻ることも出来ません。ですから、枯れてその生を終える前に抜くことなど出来ません」
何か、含みのある言い方の様な気がした。しかし、私の頭でそれを考えることはきっと浅はかで、だから彼女の言葉をそのままに受け取った。
「それも、そうですね」
それからゆったりとした時間が流れた。そうして彼女との会話を楽しんで、そう言えばと顔色をうかがいながら話す。
「……あの、本当に今さらではあるのですが、お名前を伺ってもよろしい、でしょうか?」
「…。えぇ、そうですね。貴方になら、もう教えても良いでしょう」
その特別感に胸を踊らせ、だが決して表情には出ない様に平常を装おう。
「…私は名前を持ちません」
目を、見開く。
「驚かれないで下さい。貴方も気付いているとは思いますが、私は人ではないのです」
「で、ですが、たとえ幽霊だったとしても人だった頃の名前は___」
「いえ、そうではないのです」
唐突に頭がぐらついた。胸の辺りも苦しい。
「私は人ではなく死神。故に付けられた名前は様々あれど、私の個としての名はないのです」
何かが喉を上がってくる不快さに、しゃがみ込んで思わずそれを吐く。
「安心してください。貴方は、実に美しく咲いております」
吐いた血が広がり、視界がぼやける中、その声だけは酷く耳に残っていた。
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