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清水優馬
セックスがしたかったわけではなかった。一番側まで来てほしかっただけで。それなのにいつの間にか、セックス以外のことをできなくなっていた。
「千尋さん。」
「なに?」
「……千尋さん、」
「うん。」
話すことが得意でない優馬がどうしようもなく彼の名を呼ぶと、千尋は苦笑して優馬の頭を抱いてくれる。本当は、それだけでいい。それで夜をこせればいい。それなのに、優馬の指は勝手に千尋のシャツのボタンを外すし、千尋は苦笑したままされるがままになっている。
千尋が自分を少しも好きではないことも、他にも何人もの男と関係を持っていることも、優馬は知っている。知っていて、彼を自分の側に引き留めておきたくて、少しでも長く自分の側にいてほしくて、そのための手立てがセックスしか思い浮かばない。
「一緒に住んでください。」
優馬の涙の代わりみたいなセックスが終わった後、がむしゃらに抱きしめながら頼み込むと、千尋はいつも仕方なさそうに微笑んで優馬の髪を撫でてくれる。
「お前、いま大事な時だろ? 俺は男だからこうやってお前んち来てても面倒なことにはならないけどな、同居なんかしたらそうはいかないだろ。」
「それだったら俺は、こんな仕事なんて、」
「お前に向いてる仕事だよ。モデル以外なにできんの、お前。」
そう言われてしまうと、優馬にはもう言い返す言葉がない。
うつくしいだけの人間だった。今も昔も、いつだって、優馬にはそれしかなかった。
頭は悪かったし、身体も弱かった。口下手だったし、人付き合いもろくにできない。本当になにもできない代わりに、ずば抜けてうつくしい顔と体を持っていた。
それでも、千尋が側に居てくれるならそれ以外はなにもいらないのに。
犬みたいに鼻を摺り寄せて縋る優馬を、千尋はこどもをあやすように抱き寄せる。
「今日は泊まってください。」
必死の情を寄せれば、千尋は平然と頷いて一緒に眠ってくれる。けれど、それだけだ。
抱かせてくれる。抱きしめてくれる。一緒に眠ってくれる。けれど千尋は一度たりとも、優馬の求愛に答えてくれたことはなかった。
「覚えてますか。」
「ん?」
「小学生の頃。」
「なにを?」
「俺、どもりで、喋るといつもがっかりされた。」
「顔がきれいすぎるんだよ、お前は。」
「千尋さんだけは、俺が喋っても変わらなかった。」
「……そうだっけ。」
「覚えているでしょう、本当は。」
「忘れたよ。20年近く前のことだろ。」
「いいえ、覚えているはずです。」
「なに、むきになって。」
「覚えてるでしょ?」
「忘れたよ。」
「覚えてる。」
「忘れた。」
おぼえててよ、と、優馬は千尋にしがみつく。千尋はそれでも覚えているとは言ってくれない。
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