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「あっ! 待って!」
亜里沙に引き留められ私は手を止めた。口を開けたまま亜里沙をじっと見つめる。亜里沙もじっと見つめてくる。
「何?」
私は不満を覚えつつ亜里沙の視線を追った。私の手元である。チョコレートのドーナツが三本の指に挟まれていた。亜里沙は文字通り食い入るようにそれを見て言う。
「好きな食べ物の話なんだけど」
「ああ、さっきの」
私はほんの五分前の会話を思い出していた。亜里沙の好きな食べ物は滅多に食べられないものらしい。その正体を聞く前に私の注文したドーナツが到着したのだった。
「私はドーナツの真ん中の部分が好きなんだよ」
「へえ。そりゃ面白い。二十点」
私はドーナツを齧った。ほろっと崩れた生地が口の中でとろけて甘い。亜里沙が何か言いたそうに睨んでいるが、残念ながら私はドーナツ置きではなく、ドーナツを食べる人間である。睨まれるいわれはない。
円形でなくなったドーナツは当然中心の穴も円形ではない。穴はドーナツから解放され、ドーナツの穴としての役目を終えた。私は亜里沙をからかった。
「もうドーナツの穴じゃなくなったね」
「違う、真ん中の部分!」
「一緒でしょ。何も無いんだから」
私は更にドーナツを齧った。不思議なことに、一口目は円形の物を食べているのに、二口目からは棒状のものを食べているような物足りなさを感じる。棒状のものにカーブをつけたものを食べている気分。
亜里沙は私の気持ちを理解してはいないだろうが、物思わし気に息を零した。
「私ね、その真ん中の部分に思いを馳せるのが好き」
「なるほど。哲学的な話?」
ドーナツを穴だけ残して食べる方法、とかいう問題を聞いたことがあった。ドーナツの穴はドーナツがなければドーナツの穴として成り立たないからそれを残す為には、どうこう云々という冗談みたいな話だ。亜里沙は私の食べかけを指差した。
「ドーナツってこの真ん中の部分があるからドーナツでしょ。だからドーナツが好きな人ってのは真ん中の部分が好きってのと同じじゃない?」
それはさすがに屁理屈だ。私は曖昧に首を傾げた。
「うーん。つまり亜里沙はドーナツが好きってこと?」
「まあね。特にこの真ん中の部分が好き」
「ドーナツの穴が好きでも、食べられないんだから好きも何もなくない?」
あくまで真ん中の穴が好きだと言う亜里沙にうんざりしてきた。滅多に食べられないものとは言っていたが、食べること自体が不可能ではないか。こう頑なだと冗談にしても面白くない。私はドーナツの最後の一口を味わった。
私が注文したドーナツは二つ。残った方に手を伸ばしていると、亜里沙はしたり顔で言った。
「ドーナツの真ん中ってどこだと思う?」
「えっ?そ、それは」
私は皿に残った白いドーナツを見た。プレーンの生地にホワイトチョコレートがコーティングされているものだ。これの中心がどこかと言われたらやはり、穴の部分を思うのではないだろうか。言葉に詰まった私を、亜里沙は哀れむような口調で
「やっぱりドーナツの真ん中は“ある”んだよ。皆自然に食べているのに気付かないだけで」
そう言って白いドーナツを手にした。一口齧ると「めっちゃうま~!」と呟いて表情をにやつかせる。
ドーナツの真ん中は存在している。だから彼女は“穴”ではなく“真ん中”だと主張していたのか。反論出来そうで出来なかった私は代わりに抗議した。
「亜里沙さっき滅多に食べられないものって言ってたじゃん! それはどういう……」
「太るから」
「……ですよねー」
そればっかりはどうしようもない。ドーナツを食べられてしまい手持無沙汰になった私は彼女の手元を見つめた。中心の穴を失くしたドーナツ、その中心は既に亜里沙が食べたから無いのだと考えると、太るのも納得だ。
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