看取る伴侶

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 まずデバイスを腕に付ける。二の腕までしっかりと覆う形状をしており、少々動きがぎこちなくなる。次に手、さらに脚も。帽子型の簡易的な脳波計測装置を被り、鼻には呼吸の邪魔にならない程度の小さな記録機を着ける。これは鼻の筋肉の動きや嗅いでいる匂いの解析に使われるらしい。最後におでこにも目線観察用のデバイスを装着し準備完了。  さあ、今日作るのはだし巻き卵だ。  俺の十八番の料理であり、俺の定番の肴である。  むしろこれを食べる口実を作る為に酒を飲んでいると言っても過言ではない。何の酒にでも合う不思議な料理と最初は思っていたが、最近になって単純にこの味が好きなだけだったのだと気づいた。我ながら実によくできている。これを作って商売を始められるのではとさえ思うが、恐らくそれはこの国の人間が全員俺と同じ感性を持っている場合だけだろう。  まずは材料を出す。そうは言っても卵と麺つゆぐらいだが。  余計なものを身体に着けまくっているせいで取り出しづらい。晩年の母もこうであった。  思い出すのは小学生の頃。給食の無い我が校では弁当の持参が義務付けられているのだが、胃の大きさ的に一年生は二学期から解禁される。初めての学校での昼食。弁当のふたを開けた俺は、中に入っていた謎の黄色いグルグル巻きに謎の恐れを感じ、嫌々ながら結局最後に食べたのだった。  うまかった。  実にうまかった。  アレルギーで悩んだことのある母には、卵を小さい時から食べさせるのは良くないという考え方があったのだろう。初めて食うたんぱく質の塊のうまさ。それ以来俺は卵の、そしてだし巻き卵の虜であり、俺にとってのおふくろの味はこのだし巻き卵なのだ。 卵を割るまではいい、卵をとく段階で俺のこだわりが出る。 まず何よりもカラザをとる。栄養が詰まっているらしいのだが、これは譲れない。カラザは後で別の方法で食べる。小皿を用意してうっちゃっておく。  入れる麺つゆの量、水にも細心の注意を払う。ここで目力を使いすぎ、眼精疲労で仕事できなくなったことがあったなあ。今は目線用のデバイスもつけている、今まで以上に気を付けるべき。  次に混ぜる段だが、ここにも譲れない点がある。専用の道具を使うのはまあ当然として、非常に感覚的なことなのだが、俺には混ぜる順番が存在しており、何と言えばいいのか、内から外へ段階的に混ぜる部分を変えていくのだ。その変える基準もまた言葉にし辛い。秒ではないし、色でもない。そもそもといてる最中の卵なんて、だいたい黄色いので見た目で判断できるはずがない。こうした話を情報の欠落無く伝えるのはほぼ無理だ。伝える相手もそもそも思いつかない。だからこそ今、こうして機械的デバイスに頼っているわけだ。  そして焼く。これは普通に焼く。普通に焼いて普通に巻く。焦げてるぐらいが良いなんてことはあり得ない。巻くことを放棄するのはもってのほかだ。  偶に居酒屋なんかでスクランブルエッグを固めたような感じで卵焼きを出してくる店があったりするが、それは正直俺には邪道だ。卵焼きはやはり巻いてこそだ。甘いのなんて論外だ。スクランブルエッグは狂気の沙汰だ。  もし俺に娘や息子がいて、そいつらが連れてきた伴侶が、甘い卵焼き派だったり巻いてない卵焼き派だったり卵料理的に西洋かぶれだったらどうしようと考えたことがある。果たして俺は、その相手を家族として受け入れられるだろうか? 逆に相手が俺を受け入れられるかも気になる。だし巻き卵作ってる人の子どもはちょっと……だのなんだの言われ、振られてしまったりしないだろうか? 実際、俺はかつていた恋人が作ってくれた卵焼きが甘くて喧嘩になったことがある。料理は宗教。だし巻き卵一つとってもそれは火種になりうるものであり、そのエビデンスは俺だ。未だに結婚できていない理由の最も大きなところは多分このだし巻き卵への拘りなのだろうが、まあ結婚よりだし巻きの方が魅力的なのは自明だ。  焼けた後は大根おろしを添えるのだが、それは既に完成している。ガキンチョの頃は、この大根おろしの意味が分からなかったものだ。母にねだって晩のオカズに出してもらったのだが、添えられた大根を食うと当時の俺にはあまりに辛く、食べるのがちょっとつらかった。わさびが平気になったあたりでこの白い脇役の重要性も理解し、酒が飲めるようになったあたりでコイツは脇役ではなくヒロインなのだと気づいた。すると麺つゆは主人公たる卵をサポートするおやっさんであり、大根に付ける醤油は敵役と言えるだろうか? 主人公たる卵との相克によって、だし巻き卵単独以上のおいしさを俺に魅せるのだ。主人公ばかりが活躍しても面白くないのは物語も料理も一緒だ。  さあ、完成だ。  俺はデバイスの電源を切り、手足頭に着けていたそれらをすべて外す。  これらは全て俺の動作を記録するために着けていたもので、この記録データによって、この間購入したロボットに同じ動きを再現させることが出来る。  俺の遺伝子は大病に冒されやすいらしい。現に母は癌でこの世を去っている。俺もいつ入院を余儀なくされるか分からないし、死を覚悟しろと前触れなく言われてもおかしくない。  病床に伏した俺が最期の晩餐に選ぶのは、多分だし巻き卵だろう。それも、俺が究めんとしてきた、俺が作る、俺のためだけのだし巻き卵だ。  だが死を目前にした俺は、果たして同じ味を再現できるだろうか? 身体は衰え、料理の勘も鈍っているだろう。人生最期に食べる卵焼きが焦げていては死にきれない。  だから俺は機械に頼ることにした。俺の一切の動きと思考回路を再現すれば、俺のだし巻き卵は誰にでも作ることが出来る。人間には不可能だが、ロボットなら俺の細かい動きまでしっかり再現し、俺にこの出し撒き卵を届けてくれるだろう。死の間際に運ばれてくる俺の十八番の料理。俺は、だし巻き卵に看取られて死ぬのだ。  デバイスを別室に置き、冷蔵庫から酒を出して食卓につく。  一口目を挟んだ箸を口に入れる瞬間、俺は思った。  もしこれ以上においしいと思える料理を作る人がいたら、俺はその人を伴侶に選んだのだろうか?  もしこのだし巻き卵と同じ味を作り出せる人がいたら、俺はその人に恋していたのだろうか?  ならば俺は、病に倒れ、ロボに出し撒き卵を作ってもらった時、その料理を口に運んだ瞬間、俺はロボに恋するのだろうか?  いや、違うな。  もしそうならば俺は母親に恋をしていなければおかしい。  時々無機物や概念を対象に「恋をした」と言う人間がいるが、きっとそれは嘘ではあるまい。多分俺と同じ思考だ。そこらの人間よりもその無機物の方が魅力的なのだ。魅力を感じた物を伴侶にして何が悪い。  恐らく俺は既に伴侶を選んでいたのだ。弁当を最初に食べたあの日から。
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