新たな一歩

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ぼくは洗面所の鏡の前で、わざとらしく笑顔を作る。ここしばらく浮かべていなかったその表情は、いつのまにかひどく歪んでいた。口角はうまく上がらずにひくひく震えて、目の中はむなしく暗く、そこにはぜんぜん喜びなんてなかった。小学校の卒業アルバムでは、あんなににっこり笑えていたのに。 ぼくはそれを拭うように乱雑に顔を洗って、台所へ急ぐ。もうお湯が沸いているはずだ。コンロの火を止めて、カップラーメンにやかんからお湯を注ぐ。 ぼくはほとんど毎日カップラーメンを食べている。きまってしょうゆ味の、一番安いやつだ。ぼくはこんな身分でありながら、平気ではなかった。なんとなく悪気を感じて、なるだけ家計に負担を与えない、安価なこれを毎食毎食、死人のような形相ですするのだ。 スマホで潰す3分がいやに長く感じて、そのせいでぼくは学生時代の昼休みのことを毎日のように思い出させられる。昼休みは30分あまりもあって、昼ごはんを終えてもなお時間は余った。友達もいないぼくはそのとき決まって、トイレの個室で携帯を触って時間を潰したのだった。いま感じるのと同じ焦燥と、吐き気に似た不安は、その頃からずっとぼくの中にぼんやりと芽生えていたのだ。 それに耐え切れないでぼくはこうして家に閉じこもっている。このままでいいのか、どこかで変わらなきゃ、だけどぼくには何もないだろう、そんな心中会議を繰り返しては、ぼくは楽な方へと足を引きずってきた。空しく虚しく、机のカップラーメンに目をやるぼくは、まぎれもなく社会不適合者だ。小学生の頃、「こんな大人にだけはなりたくない」と思っていたそのままの大人に、ぼくはなってしまったのだった。 フタを剥がして箸で麺を掴んで、「いただきます」も言わないまま息を吹きかけてから啜った。今更おいしいとも感じない。2年あまりの引きこもり生活で慣れ親しみすぎてしまったこの味は、ぼくにとって負の象徴でしかなかった。 ぼくのブルーライトに慣れすぎた眼は、逃げるようにスマホの液晶を舐めまわす。いつも眺めるまとめサイトは、連日の殺人事件によってにぎわっていて、ぼくはラーメンの具を箸で掴むのと同時に、その話題をタップする。 なんでも登校中の小学生を狙って、無職の男性が刃物を振り回したらしい。 死刑にするべきだ、こんなやつは一生牢屋から出てこなくていい、狂ってる、エトセトラ、エトセトラ、そういう意見が次々あらわれる。 ふと、「何も失うものがないやつは、何しでかすかわからねえよな」という文字列が、無機質に表示されて、ぼくは、ひどく胸のあたりがざわついた。その次にそこが、お湯をかけられた時のように、たばこを押しつけられた時のように、熱く熱く感じる。 画面をスクロールしても、別のページへ移動しても、その言葉がまぶたの裏にひっついて離れない。たかが匿名掲示板の、誰が書き込んだかもわからない文字どもが、いやに、ぼくのことを言っているように思えて仕方がなかった。 ぼくは何も得ようとしない、失うものもない、無い、何もない人間。からっぽの生き物なんだ。内臓にインスタントをつめこんで息を殺して、いかにも弱い者のフリをしている。 (学生時代虐められたなんて言い訳だ。それだけで外に出ないなんて最低だ。先生に、いじめは、いじめられる奴が弱いから悪いと言われた。お母さんに、もっとがんばりなさいと言われた。強くなって努力して成しとげなければ人間未満だ。生き物失格だ。生きていてもしかたが無い。) ぼくは伸びた麺を一瞥すると、自分で意識するより早く台所の包丁を手に取ってドアを開けていた。あんなにおそろしかった玄関の扉は案外あっけなくぼくに空を見せた。外の空気は忘れかけていた金木犀のにおいを運んでいる。 ぼくは伸びをした。外にいるなんて不思議だと思った。ぴかぴか光る太陽も、自動車のエンジン音も、これから自分が人を殺すだろうということも、なぜだか怖くない。 ぼくは走り出した。なにかが生まれるときのような新しい気持ちだった。 涙の出そうな青い空がいつまでも、いつまでも、ぼくを笑っていた。
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