夢なき夜に君を夢見る

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 そろそろ閉店の時間だった。  客のほとんどは、ぞろぞろと帰り始めたが、それでも、まだ椅子に腰を下ろしたまま動かない者達がいた。彼らは店の常連で、ある男が姿を現すのをじっと待っていた。  やがて、この店の(あるじ)が現れた。皆は精一杯大きな拍手で迎えた。元プロの歌手であった彼は、長いこと前に引退して、今はこの店の主に収まっていた。  バンドが帰ってしまった小さなステージの上で、彼はギターの弾き語りを始めた。彼の声は最盛期の艶と張りを失ってはいたし、かつてのような高音を出すのが難しくなっていた。その代わりに歳月が、深みと穏やかで温かな滋味が与えていた。残っていた客達は、彼の長年のファンで、皆静かに彼の歌声に耳を傾けていた。  常連客達から少し距離を置いて、彼女は座っていた。ようやくここにたどり着いた。彼女の目が潤んだ。  初めて彼の歌を聴いたのは、何十年前のことだろうか。友人から渡されたカセットテープがきっかけだった。その中には、かの地の歌手の歌が何曲か入っていた。どの歌手もほとんど似たり寄ったりで、彼女の気を引くものはなかった。ただ、その中で心に突き刺すように響いてくる声があった。それが、彼だった。  まだインターネットも普及していなかった頃で、彼のアルバムや情報を集めるのは、一苦労だった。当時も今も、欧米の有名歌手は別として海外の歌手が日本で紹介されることは、ほとんどなかった。それでも彼女は、何とかアルバムを手に入れ、いつか、コンサートに行くことを夢見ていた。  あれから、長い時が経った。彼女の髪は白くなり、顔には皺が刻まれた。それは彼も同様だった。  歌が終わると、彼女は立ち上がって、ステージに近づき、昔覚えたややぎこちない外国語で、彼に話しかけた。 「初めまして、やっとあなたの歌を聴くことができました。ご存知ないでしょうが、私はずっとあなたのファンだったのですよ。今、とても感激しています。」  ずっと言いたかった言葉だった。はたして、うまく通じたろうか?  彼は一瞬首を傾げたが、すぐに笑顔を浮かべた。 「遠くからいらしてくれて、ありがとう。では、あなたのためにもう一曲歌いましょう。」  そう言うと、再び椅子に腰掛けてギターを爪弾いた。それは彼女の好きな曲だった。          ※※※※※※※ 「おばあちゃん?」  孫娘が呼びに来た時、彼女はまだ眠っていた。  枕元の小さなスピーカーからは、歌が繰り返し流れ続けていた。数日前に孫娘がネット上で偶然見つけてダウンロードした、弾き語りのライブ音源だった。  彼女は幸福そうな笑みを浮かべていた。そして、もう目覚めることはなかった。
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