我が家の木を食べる柏木君

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 私の部屋の窓から見える柏木君は枝を食べている。我が家の庭に生えた立派な木の枝を。この家が建つ前よりもずっと昔からある。そんな木の枝を柏木君は食べている。  短い手足を使って木に登る柏木君は何度見ても不恰好だ。  先月亡くなった祖父はこの木が好きだった。縁側に座り祖母と茶を飲みながらよくこの木を眺めていた。昨年祖母が他界してから祖父は縁側に出なくなった。祖父は布団の中で孤独に息を引き取った。二人にとってこの木は大切なものだった。そんな木の枝を柏木君は食べている。  柏木君は保育園からの幼なじみ。彼は昔から成績優秀で裕福な家庭で育った。高校は進学校へ進むと思いきや私と同じ地元の公立高校へ通っている。  先日柏木君と席が隣になった。柏木君は無口なので私達が会話をする事は殆どない。柏木君はいつも窓から外の景色をぼうっと眺めている。あとは勉強をしたり本を読んだりしている。  柏木君は睫毛が長い。女の子みたいだ。背は低く手足も短いが可愛らしい顔立ちをしている。ずっと見ていたくなる。  視線を前に戻し、私はぬいぐるみを食べ始めた。 「ナルミ、今日のお昼はクマのぬいぐるみなんだね」  親友のアカリが鉛筆をポリポリと食べながら言う。机をくっつけて私達はいつも二人で昼御飯を食べている。  私達が口にしている物はその昔食べ物ではなかったそうだ。今でも別の誰かにとっては食べ物でない。  私は生まれた頃からぬいぐるみ以外食べたことがない。飲み物はもちろん飲む。 アカリは子供の頃クレヨンを食べていたが、途中から鉛筆に食欲が湧くようになったそうだ。そういう事は珍しくない。  人の物は食べない。ぬいぐるみだからといってどれでも良いわけでもない。  柏木君は何故我が家の木に食欲が湧いたのだろうか。 「柏木って絶対ナルミの事が好きだよ」 そんなわけがない。柏木君はアカリとは喋るのに私とは会話どころか顔すら合わせてくれないのだ。  一度だけ柏木君が私の顔を見てくれたことがある。我が家の玄関で私は祖父に殴られていた。酒を飲むと祖父は別人のようになってしまう。  祖父の事は好きだった。しかしその日は祖父の酔いがなかなか覚めず、私はこのまま殺されてしまうのだろうかとすら思った。  口の中が切れてランドセルと同じ色が床に飛び散る。帰って来なければ良かった。  ぼやける視界の中で見えたのは玄関に立つ柏木君の姿だった。 柏木君はヨダレを垂らしながら私を見ていた。 「たすけて」  私が力なく呟くと、柏木君は小さな体で祖父に体当たりした。祖父が体勢を崩した隙に柏木君は私の手を引いて外へ走り出し、我が家の庭の木の前で止まった。 「これが食べたい」 木を指差して柏木君は言った。  その後母が帰宅し私は病院へ連れていかれた。死を覚悟したわりに大した怪我ではなかった。祖父から酒は取り上げられた。 柏木君は私を助けてくれたので我が家の木を食べる事を簡単に許可された。 その日から柏木君は我が家の木を少しずつ食べて生きている。  祖父と祖母が縁側で寂しそうに茶を飲んでいる後ろ姿を私は見ていた。 祖母には悪いが、いい気味だと思った。 この木は二人にとって大切なものだったから。いい気味だと思っているのに涙が溢れた。私の中の何かはあの日食い尽くされてしまった。 「柏木の奴、やっと食べ始めたよ」  昼御飯の時間がもうすぐ終わる。弁当箱から我が家の木の枝を取り出し、柏木君は食べ始めた。昨日の夕方持ち帰った物だろう。  祖父は死んだ。もうこの世にいないのだ。あの時柏木君が来てくれなかったら私は本当に殺されていたかもしれない。  あの日真っ直ぐ私を見ていた小学生の柏木君はかっこよかった。ヨダレは汚かったけれど、あの日からずっと柏木君はかっこいい。 「柏木って本当にナルミの家の木が食べ物なのかな?」 「どうして?」 「食事って美味しくて楽しいものでしょう? 柏木は…そんな風に見えないから」  確かに私の部屋の窓から見える柏木君も今隣で昼御飯を食べている柏木君も、楽しそうには見えない。 「私は本当はナルミみたいにぬいぐるみが食べたかったんだよ」 「えっそうなの?」 「そう。だって女の子らしくて可愛いから。でも食欲が湧かないから仕方ないよね。本当に食べたい物は食べられないようにできているのかもね」  枝を食べる音が聞こえる。教室は騒がしいのに、柏木君の咀嚼音だけハッキリと聞こえる。柏木君はきっと今日も短い手足を使って我が家の木に登り、枝を食べるだろう。  柏木君。食べ尽くして。全部食べ尽くして欲しい。そしたらいつか祖父を許せるようになるかもしれない。  柏木君は他に食べたい物があるのかもしれない。それは私には分からない。  でもあの日真っ直ぐ私を見つめて、助けてくれて本当に嬉しかった。 ヨダレは汚かったけれど、私はあの日からずっと柏木君に恋をしている。
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