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ひと夏の虚像
夏が来ると、向かいの電器店は決まって、造花のヒマワリを店先に飾る。展示品の扇風機が送り出す休み知らずの風に巻き込まれて、黄色い花びらが震える。その様子は、あの日と何も変わっていない。父さんと母さんの別居が決まったと聞かさたあの日。信じていた世界が真っ二つに割れた、小学二年の夏休みの日。
あの日の「決断」を僕は決して忘れない。何度も何度もやり直す夢を見る。そんな僕を置き去りにして月日は流れた。電器店のヒマワリは、年を追うごとに色あせていく。あれから五年、母さんとは一度も会っていない。
***
慣れ親しんだ商店街のざわめきも、一歩路地に入ると遠くに聞こえる。裏口から店に入って父さんを呼んだ。もうもうと立ち込める煙の中から煤まみれの太い腕が現れて、冷蔵庫を指差す。アパートから取ってきた追加の缶ビールを一ケースまるまる詰め込むと、古い冷蔵庫は低く唸った。「すまんな」と、焼き台の方から声がする。狭い店内には今日も、焦げた醤油の匂いが満ちている。
焼鳥専門店「あおい」。父さんが叶えた長年の夢。母さんがいなくなってから、じいちゃんの会社を辞めて始めた、小さな小さな焼鳥屋。開店当初は色々と苦労したけれど、常連さんに支えられて、今では内装リフォームを検討できるほどに繁盛している。
商品は基本、持ち帰り。店内に一つしかないテーブル席は、地域の少年野球チームのコーチ陣や、商店街組合のおっちゃん連中の憩いの場になっていて、酒と煙草の匂いが染み付いている。今日は珍しく子連れの夫婦が座っていたが、彼らもそれなりに飲む人だったらしく、注文内容はいつもと大して変わらない。
母親の膝に乗せられた四歳くらいの女の子が、ちまちま食べる両親を尻目に、せっせと「ねぎま」に噛みついていた。女の子の皿が空になる度に、父さんは嬉しそうに、その皿に串を追加する。
きっと多分、あれはサービスでやっている。そんなことばかりしていたら、店は赤字になってしまうだろうけど、僕には父さんを止められない。考えてしまうのだ。炎天下の焼き台で、他人の家族の為に串を焼きながら、父さんは何を思っているのだろうか、と。もしかしたら、僕と同じで思い出しているのかも知れない。僕がまだ、この女の子くらい小さかった頃の、幸せだった家族の時間を。
額の汗を拭く仕草が、涙を隠しているように見えてしまうのはどうしてだろう。僕は一体、父さんに何を期待しているんだろう。
たれに汚れてべたべたの口元を母親のタオルに拭われながら、「おっちゃん、ごちそうさま!」と、女の子が言った。「こらこら、誰がおっちゃんや、また来てな」というのが、父さんのお決まりの返し文句。親子が帰って直後、いつもより少しだけ広く感じられる店内で、席に残った空き缶と、打ちっ放しの床に転がった何本かの串を拾い集める。仕上げに椅子とテーブルを整えると、灰色に汚れた壁掛け時計は午後の二時を指していた。
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